第54話 日本人の心のために
秋が深まっていく。氷河期の夏は本当に短くて、まだ十月になったばかりだというのに既に冬の様相を見せ始めていた。
昼間の暖かさはまだ一応残っているが、これももう少しで消えてなくなるだろう。日本のクソ暑くてクソ長い夏とはえらい違いだ。どちらがいいとは一概には言えないけども。
そんなある日のこと。俺はメメとテシュミを連れて、用水路の上流に来ていた。
以前にこの用水路には拡張工事を行う予定の場所があると言ったことがある(第三十話参照)が、ちょうどその場所だ。
「おぉー、随分工事が進んだもんじゃのー」
「ほんまですねぇ。もうちょっとでできそうです」
二人が工事区画を見て口々に言う。俺は逸る気持ちを抑えながら、二人に頷いた。
俺たちの視線の先には広く浅い穴がある。竪穴式住居の基礎部分みたいな形で、地面が長方形型に数十センチほど掘り下げられているのだ。
完成したらここに用水路から水を引いて、しかるべき用途で利用したのち用水路の下流へ放出する予定でいる。そのための支流は現在鋭意開削中だ。
「それでギーロ、ここは一体何になるんじゃ?」
いつもの定位置である肩車のポジションから、メメが俺の顔を覗き込んでくる。
テシュミも同じことを聞きたいらしく、俺の顔に視線をまっすぐ向けていた。
「風呂だ」
「「フロ?」」
そんな二人に即答した俺は、恐らくかつてないほどの真顔でいたに違いない。
風呂と言えばさまざまな種類があるが、俺が志向しているのは言うまでもなく、浴槽にお湯を張って、そこにつかるタイプである。
ただし、浴槽にできるものが周辺にはない。せいぜい木だが、必要な量が一体どれくらいになるか想像もつかない。水をどうやって引き込むかという、構造上の問題もあった。
なのでたどり着いた案が、地面を掘って浴槽代わりにする、というものだ。こうすれば、導水管などを用意しなくても直接水路から水を引き込める。
もちろんそのまま使うつもりはなく、木や石で補強する。天然アスファルトも惜しまず使って、できるかぎりしっかりとしたものにするつもりだ。
多大な労力がかかっているが、俺は譲れないところはすべて妥協しないつもりでいる。今の俺が持ちうるすべての権力をここにつぎ込んだと言っても過言ではない。
風呂は俺にとって、それだけ絶対に欲しい設備であり、どうしても手を抜く気になれない代物なのだ
何せ風呂とは、日本人の心である。風呂に入れなかったこの三年間が、どれだけつらかったことか!
浴槽に張られたお湯につかり、汚れを落とし、汗を流す。この素晴らしさは、たとえ原始時代に飛ばされたとしても忘れることはできないし、諦めることもできやしないのだ!
……とまあ、ただの我がままとか、自己満足と言われても仕方ない部分もあるが、実のところそれだけが理由でもない。
風呂は確かに気持ちいいものだが、それは第一目的ではない。本来の目的は身体の汚れを落とし、衛生状態を保つことだ。これが原始時代においては、非常に重要な要素だと思っている。
何せ不衛生な状態が長く続くと、疫病が蔓延してしまう。必ずしも不衛生そのものが直接病気に結びつくというわけではないが、そうした環境を好む細菌が増えるなど、温床には十分なりうる。
薬など一切存在しないこの原始時代、うっかり疫病が蔓延したら目も当てられない。下手したらこの群れが全滅する可能性がある。謎の超治癒力を持つ俺だけは何があっても助かるかもしれないが、俺だけ助かってもどうしようもない。
そういう意味でも風呂は必要だと思ったから、俺は風呂の建設に取り掛かったのだ。
もちろん薬が存在しないように、二十一世紀のような石鹸やシャンプーもないのだが、お湯で身体を洗うだけでもだいぶ違うだろう。
「なるほどのー、お湯なら汚れも落ちやすいし、それで身体を洗うのは利にかなっておるのー」
「そですねぇ。これからは寒ぅなりますし、あったかくなれるんはええことです」
二人もどうやら乗り気のようだ。賛成してくれる人間が多いのもいいことだ。
「おーいギーロ、この辺りはこんな感じでどうだ?」
そこに、作業をしていた男から声がかかった。彼が指差していた場所へ目を向ける。
「お、いい感じじゃないか。これなら泥が混じったりするのも防げるし、何よりきれいだ」
彼が示したのは、浴槽になる予定の半地下部分。その底部分だ。
そこには、平たい石が敷き詰められていた。形も色もさまざまなので、モザイク画のような印象を受ける。作業をしていた男たちにその気はなかったかもしれないが、これはこれでなかなかの芸術ではないだろうか。
これらはタイルの代わりだ。底に敷き詰めることで、今言ったように土がお湯と混ざり合わないようにするための措置だな。ついでに言えば、足元を固めることで入浴中に動きやすいようにする、という意味もある。
ものがものだけに、隙間はどうしてもできるが……これくらいは許容範囲だろう。というか、許容できないと原始人はできない。
「あとは壁の部分も補強しておきたいな」
「水路と同じ要領でやればいいか?」
「ああ、それでいい。少しどころかかなり範囲が広いが、よろしく頼む」
「わかった」
とりあえず、この場は順調のようだ。放流用の水路は既に完成してメイン水路の下流につなげてあるので、ここが仕上がったらあとは、本流から水を引き込むための水路だな。
そちらも既に途中までは仕上げてあって、開削すれば大体完成というところまではしてあるから、あと少しだ。
この調子なら、タオル(くどいようだが現代のタオルは作れないので名前だけ)の準備が整う頃には風呂も出来上がりそうだな。
布作りについては、ガッタマ渾身の説得により、糸紡ぎ以降の工程は他の部族でもできるようになった。おかげで、布の供給が少しずつだが始まったところである。
服として仕上げるには量が足りず、品質もまだまだだが、これから少しずつ良くなっていくはずだ。
最近は毛皮の需要が増える一方で、なめし総監督のエッズが過労気味だったから、そういう意味でもいい傾向だと思う。エッズはこれからも群れに必要な人材だから、過労死などさせるわけにはいかない。
ちなみにガッタマの説得は、背後にバンパ兄貴とディテレバ爺さんを配置してのなかなかどぎつい交渉だった。頼んだ俺が言うのもなんだが、あの二人を動員するとは思っていなかったよ。
まあ、そのおかげで布作りを群れ全体に解禁できたから、褒めこそすれ貶めるなどしないけれども。
……実はその布作りで気になることも、密かに発生しているのだが……これはまた後にしよう。
「ねぇギーロさん、フロはええんですけど……ここに水を入れるんですやろ? そんなの、どうやって温めますん? 土器みたいに周りから温めるなんてできひんと思うんですけど……」
「言われてみればそうじゃのー。ギーロのことだからちゃんと対策はあるんじゃろうけど……」
ふと漏らしたテシュミの疑問に、メメが追随する。
最近の二人は、なんだかんだで対立せずうまいことやっている。あの夜以降、メメがテシュミをことさら拒絶しなくなったことが大きいのだろう。
俺がはっきりとメメが一番だと言ったからだと思うが、そうなれば元々テシュミはメメと仲良くしたがっていたから、距離は勝手に縮まったようだ。おかげで俺の精神的負担はだいぶ減った。
まあ、その分メメからやたら情事に誘われるようになったのだが……それについては全力で謝罪せざるを得ない。
俺は悪くない。悪いのは俺の息子なんだ……。
「……方法は単純だよ。火でガンガンに熱くした石を中に入れればいいんだ。そうすれば石の熱が水に伝わってお湯になる」
「あぁー、なるほど」
「さすがギーロじゃなー!」
「触ったら火傷するから、その石があるところには近づきすぎないようにしないといけないけどな」
石を投入する場所を決めておく、などのルールも作っておいたほうがいいかもしれない。思いもつかない使い方をされて、新しいルールを作ることもあるかもしれないが……想定されるトラブルの芽は早めに潰しておくに限る。
……男女の利用とかも、しっかり決めておいたほうがいいだろうか。元日本人としては、時間帯を区切って別にするべきだと思うが……男としては混浴も捨てがたい。
男の時間帯、女の時間帯、夫婦の時間帯、みたいにするのがいいだろうか。夫婦水入らずでゆっくりお湯を楽しむというのも、なかなかに乙なものじゃないだろうか。今なら俺も、メメたちと素直に一緒に入浴できると思うし。
できればそのままの流れで、息子が覚醒してくれると嬉しい……。
などと息子覚醒イベントを求めてあれこれ考えていたら、突然遠吠えが響き渡った。
《ボーースッ!》
「……ギーロ、今のって」
「ああ、リンだ。何かあったらしい。兄貴を呼んでる」
「……なんや問題でも起きたんですかねぇ?」
内容としては兄貴を呼ぶもの。しかも警戒の色が感じ取れた。テシュミの言う通り、何かあったと見るべきだろう。
脳内お花畑なリキはともかく、リンが警戒をあらわにして呼んでいるときは、ほぼ間違いなく何かあるときだ。その点について彼女は信頼できる。黒アルブス救助の旅でも、索敵で活躍したのは主にリンだったし。
その声色を、俺でなくとも察したやつは結構いたようで、風呂づくりで働いていた男たちの何人かは不思議そうに声が聞こえたほうを見ていた。
「かもしれない。とりあえず兄貴を探して、それからリンと合流しよう。メメ、頼む」
「任せるのじゃよ!」
俺の声に応じて、メメがカッと瞳を開く。同時に身体とは別のところで彼女と繋がるような感覚が、俺の全身を駆け巡る。
この数年で星の数ほど感じてきた感覚だ。これにより、メメの超視力はさらに跳ね上がる。
その状態で、俺はぐるっと一回転。遮るものがない限り、これで見えないものはない。
「……見つけた! お義兄もリンの声を気にしてそっちに向かっておるみたいじゃよ……ん? リキの姿が見えんのじゃ?」
「うーむ、リキはどうかわからんが、とりあえず兄貴との合流を先にしたほうがいいかな。行くとしよう」
「うむ!」
「テシュミも来るか?」
「はい、お供します」
にこりと微笑んで、肯定するテシュミ。
わかったと頷いて、俺は彼女を抱きかかえた。
肩車プラスお姫様抱っこというのは、さすがに俺もどうかと思う。まるで鵺のような状態だが、二人を同時に抱えて移動するとなるとこれしかないのだ。
まあ、メメは俺の上、テシュミは俺の腕の中という形で住み分けにもなっているので、悪いことばかりでもない。たまに場所を入れ替わることもあるのは、お約束だろう。
「それじゃ行くぞ。しっかり掴まってろよ!」
「おー!」
「はぁい」
こうして俺は、二人を連れて走り出したのだった。
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