第34話 小麦の話をしよう

 焼き待ちの粘土板を置く場所は、群れの中心部と外延部のちょうど真ん中くらいにある。

 ここには木で組んだ簡単な小屋があり、その下に棚が設置されているのだ。

 棚は移動できるようにしてあるから、小屋というか単に屋根と言ったほうがいいかもしれないが。


 これは棚ごと粘土板を動かすための措置だ。粘土板は目的によって日干しをする、しないが分かれるからな。

 日干しするものを太陽にさらすため……そして、天気が悪い時は小屋に戻すために、この仕掛けはほしかったのだ。


 ちなみに、日干しをしたうえで焼成する粘土板は、重要文献だ。こうすると、粘土板の保存性がぐんと上がる。焼くと頑丈になるのは紙とは真逆と言える。

 それ以外の日常の文献……たとえば覚書や文字の手習い程度は、屋根の下で陰干しになる。全部焼いていたら燃料がいくらあっても足らないから仕方ない。


 肝心の乾燥期間はというと、大体二週間弱だ。その時間経過を視覚化するために、日数を示す札もかけられている。

 この辺りは、簡単とはいえ群れに文字が普及し始めたからできたことだ。というか、そもそも文字という概念は、こういう物資の管理のために生まれたものだと言われている。俺がいたおかげで、この群れでは順番が逆になっているわけだ。


 そんな管理札の中の、乾燥一日目のところに持ってきた粘土板を置く。あとは粘土板の焼成や管理を任せている奴らの仕事だ。


「さて今日は……久しぶりに農地を見て回ろうか」

「わしも一緒に行っていいかの?」

「当たり前だろ。落ちるなよ」

「うん!」


 メメを肩車したまま、俺は群れの北側に足を向けた。農地は北に配置してあるのだ。


 北を開墾した理由は単純で、水が近場にあるからに他ならない。農耕に水は絶対に必要だから、こうならざるを得なかったとも言える。

 いやまあ、本来なら灌漑に向けるべき土木技術を、いきなりトイレに向けた俺が言うのもなんなのだが。


 それはともかく、原始時代に転生して四年目。色々なことをやってきたが、農耕はいまだに試行錯誤が続いているものの一つだ。

 初年度から取り掛かりながら今でも正解が見えないのは、ものを育てるという不確実性だらけなことだからということもあるが、俺自身の農耕知識が少ないということも大きい。


 いや、正確に言えばなくはないのだが、俺の手持ちは文明の利器を利用した知識ばかりなのだ。

 おまけに、この時代の作物はすべて野生種。何をするにも最適解がまるでわからず、あれこれやり続けて今に至る。


「それでもなんとかここまでは来たわけだが……」


 群れの北側は川に近づいていくわけだが、その川までは遮るものがあまりないため、群れの外延部まで来れば農地がおおむね見渡せる。


 ここに作ったのは、先にも挙げた通り水場が近いということが最大の理由なのだが、目で見てわかりやすいということも理由の一つだったりする。

 しっかり全体を見渡せれば、作物に獣害が出る前に対処できる可能性が上がるしな。


「三年でこれなら、上出来の類だと信じたい」


 俺の視界に飛び込んできたのは、見渡す限り……は盛りすぎか。

 そうだな、大体一アールくらいか。南北に延びるそれくらいの範囲に、緑色の草が繁茂していた。

 これらはすべて小麦だ。


 初年度の秋、小麦の実はほとんど落果していたのだが、実は必死こいて探しまくって、どうにかこうにか最小限の種を確保していた。

 あれからおよそ二年半。やっとこの量にまで増やすことができたのだ。


 ここ以外にも少し離れたところに他の野菜が植わっているが、小麦が一番多く面積を取っている。

 この比率は、俺がどれほど小麦作りに注力しているかの証と言えるだろう。


 そんな麦畑の中で、数人の男女がかがんでいた。


 別にいかがわしいことをしているわけではない。誰かさんと誰かさんが麦畑をできる時期ではないのだ。

 あれは雑草取りだ。雑草という名の植物などないことは承知しているが、栄養を小麦に集中させて収穫量を上げたい側にしてみれば、雑草だからな。


「よう、調子はどうだ?」

「やあギーロ。順調だと思うぞ、今年は今までより大きめに育っているしな」


 俺に話しかけられたのを受けて、一人の男が立ち上がって答える。

 彼には小麦をはじめ、農耕を中心に任せている。農政大臣みたいなものだな。


「今年は期待できそうだな。これからも頼むぞ」

「任せてくれ」


 と、ここで、視界の端を何かが猛スピードで駆け抜けて行った。直後に派手な打音が響き渡る。


 音のしたほうに目を向けてみると、何かの鳥が墜落したところだった。地面には石が転がっている。

 それを確認した俺は、視界の端……畑と畑の間くらいに立っていた男に声をかけた。


「相変わらずいい腕だな、叔父貴」

「これくらいわけもない」


 やや離れたところにいるので声も遠いのだが、カリヤ一族の現族長で俺と同じ名前のギーロ叔父貴は、はっきりとそう言った。


 相変わらず、投石器の腕は抜群に冴えているな。今、飛んでいる鳥を一発だったよな?


「今の時期はほどほどになー?」

「わかっている。今日の飯くらいで留めておく」


 ならいいのだが。


 投石器がある今、鳥も重要な食料だ。狩りすぎるとこれもまた絶滅してしまいかねない。

 それでも鳥を狙うことを止めないのは、畑に悪さをさせないための抑止力にするためだ。


 鳥たちも馬鹿ではない。畑に近づくと俺たちに殺される、と教えるために何羽かを定期的に狩っているのだ。鳥の種類は問わない。見敵必殺である。


 収穫や種まきの時期は、もっと人を揃える。巨体のアルブスメンズが投石器片手に居並ぶ姿は、俺ですら怖いくらいだけどな。

 かかし? そんな穏やかなものではない。完全に見た目は修羅の国だった。


 とはいえ、これは比較的労働力に余裕がある原始時代だからできると言えるだろう。


 この時代は狩猟採集のみによって生活が成り立っているため、狩りと採集以外の仕事がない。だから狩りが成功して食料を得たら、後は基本的にすることがないのだ。

 社会が複雑化すればするほど、こういう方法は採れなくなっていくと思う。

 実際、小麦などの農耕を開始して文明を発達させていったサピエンスは、その発展に比例して様々な仕事を得てしまう。日本など、最高の社畜天国だった。


 つまり俺が生活を豊かにしていくということは、それだけ仕事の絶対数が増えることになりうる。

 だから鳥や獣による作物の被害を防ぐために人員を常駐させることは、さほど社会が複雑でない今現在しかできないと思うわけだ。


 一応、農耕が軌道に乗ったら、常に誰かが見張っている状態は解こうと思っているが……それがいつになるかはまだわからない。


「少なくともまだ数年はかかりそうだな……」


 とはいえ、今日までの三年間でみんなすごく頑張ってくれている。時間でしか解決できないことだから、こればかりは急かしても意味はない。


 何せ小麦の野生種って、全然数が取れないんだよ。本当に呆れるを通り越して笑うしかないくらいだ。

 何と言っても、そろそろ収穫だなーと思った頃には麦穂が消えている。ちょっとした風で、すぐどこかに飛んで行ってしまうのだ。


 おまけに全然種が増えない。その収穫倍率、驚きの約三倍だぞ。はっきり言って馬鹿げている。

 一粒の種もみをまいて、得られる種もみが大体三つってもうこれ意味わからないよな! これでよく現代まで主要穀物として生き残っていられたなって感じだ!


 ちなみにこの収穫倍率、又聞きだが中世ヨーロッパで三倍程度だったらしい。七万年前のこの時代に三倍を記録したのは、たぶんこの辺りが比較的豊かな土地だからだろう。

 それに、種をまく時期を見極めたり、一度植えた場所は休ませたり、畝を作ったり、麦踏みもしっかりやったりと、二十一世紀でも行われているお約束をしっかり守った。その甲斐もあるだろう。

 あと、多く実をつけた麦穂だけを翌年の種もみにしている、ということもあると思う。まだ食料が他にある今のうちに、ささやかながらも品種改良はやっていくべきだと判断したのだ。選別する余裕がなくなってからでは遅いからな。


 だが、そうやって苦労して作った小麦の味については、実は今のところ大不評だ。


「いっぱいできとるみたいじゃけど、小麦っておいしくないんじゃよな……」

「そりゃまあ、おかゆしかまだ作ってないからな……」


 仕方ないじゃないか。小麦の最大のメリットは作れる食事の多様さなのに、そのための量を確保できないのだから。


 メメだけでなく、農耕に携わっている連中からも言われているのでなんとかしなければと思っているが、そのためにはもっともっと小麦が必要になる。今の収穫量では、パンや麺類を満足に作ることなんてできないだろう。

 何せ現状、収穫した小麦は大半が種もみ行きだからな。全力で種もみにしないと、収穫量を増やせないんだよ。

 品種改良のために取り除いた、結実量の少ないやつは試食用として群れの中で消費するのだが、元の量が少なすぎるせいでパンなどに加工する余裕がないのだ。


 いや、パンについてはまずどうやって酵母菌を手に入れるかという問題があるわけだが。


 これが米なら、もっとたくさん収穫できるのにとは常々思う。奈良時代で既に収穫倍率がマックス二十五倍を記録したと言われているほどだから、原種でもかなりの量が期待できると思うのだが。

 あと故郷の飯という意味でも欲しい。……のだが、残念ながら米の原産地は西アジアではない。恐らく俺は、もう二度と米は食えないだろう。


 だからこそ、味付けが塩だけの麦がゆなんて余計に食べたくない。せめてうどんが食べたい。ふわふわのパンが無理でも、うどんなら何とかなると思うんだ。

 ……出汁などの当てはないが、近くのカスピ海が塩湖だからなんとかなってほしい。


「小麦がたくさん獲れるようになったら、メメもみんなも考えを改めるだろうさ」「それっていつになったら作れるんじゃ?」

「……わからん」


 ため息をつかないでくれ。俺も先が見えなさすぎて心が折れそうなんだ。


 しかしここでくじけるわけにもいかない。答えがわかっているのは、小麦が重要なのだと言えるのは、未来を知っている俺だけなのだから。


「とりあえずメメ。またいずれ小麦を探しに遠出することがあると思うから、その時お前の目を頼ることになると思う」

「小麦はもうあるのに、また探しにいくんかの?」

「小麦と言ってもいろいろあるんだよ。まあ、細かい説明はその時にな」


 二十一世紀の小麦……いわゆるパンコムギは、様々な種類の小麦が何度も交雑した結果に生まれた品種だと言われている。だからこそ今育てている小麦だけでなく、そのほかの小麦も色々と持ち込んでかけあわせていきたい。

 目指せパンコムギ……いや、ウドンコムギでも構わん。少しでも収穫倍率の高い小麦粉が作れれば、今はそれでいい。


 そのためには、初年度のようにメメの力が必要になる。俺と一緒なら地平線の先まで見通せる彼女の目があれば、今育てている小麦との外見的差異も遠くから見抜けるはずだ。


「わかったのじゃ。わしで役に立てるなら、どれだけでも協力するんじゃよ」

「ありがとうな。お前には負担をかけるが……」

「いいんじゃよ、いつもギーロが守ってくれるからの」


 身体を小さくしつつ、俺の頭にほっぺすりすりしてくるメメである。

 彼女を守るために前線に立つのは大体俺ではないのだが……まあいいか。


 よし、では次に行くとしよう。

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