閑話 今ではないいつかに、ここではないどこかで 2

 人々が地球と呼ぶ空間の、日本という地域における主神たる天照大御神はその日、和風とは程遠い幻想的な空間を漂っていた。

 上下左右に果てはなく、神代の規則によって記された大量の漢字が居並ぶ。それらは時折不規則に明滅を繰り返しながら、天照大御神の周囲を穏やかに行き交うのだ。


 いや、「漂う」という表現はいささか不適当か。

 何せ彼女は今、人には決して見ることのできない透明な椅子に腰かけ、周囲に展開した複数の仮想モニターをすべて同時に把握しているのだから。


 モニターは文字通り数えきれないほどある。おまけに表示されている内容は、どれもまったく異なるもの。場合によっては、単純に視覚では捉えられない位置に存在するものすらある。

 それらすべてを正確に把握しているのだから、主神の名は伊達ではない。彼女にしてみれば、聖徳太子の十人程度は所詮、人間の境地だ。


 さらに付け加えるならば、彼女はただモニターから得られる情報を一方的に集めているわけではない。自身の周囲に浮かべたいくつものを、これまたすべて同時に操っている。

 すなわち、すべてのモニターとは双方向のやり取り。あちらの状況に応じて無数の反応を同時に返し続けているのだ。


 これを神の御業と表現することは簡単だが、実のところ主神クラスであってもこの数は驚異のマルチタスクである。これもひとえに、管轄地域の少なさからくる信仰の不足を補うため、大量の世界線を抱えているためだ。

 名の知れた地域、あるいは名の知れた世界の神であれば、ここまでのことをせずとも信仰は十分事足りる。要するに、ここまで自らを追い込む必要がないのだ。


 ――と。


 そこで天照大御神の手が止まった。閉じていた目を開き、満足げな表情で小さく息をつく。


「……ふっ、さすが私。これだけの仕事をたった二絶対日で片づけてしまうなんて……自分の才能が恐ろしいわ」


 飛び出た言葉は自信に満ちていたが、実のところその仕事は一切仕事をしなかった日の分がたまっていたものだ。

 要するに夏休みの宿題を最後の日に一気にやろうとする小学生と同レベルであり、何も誇れるものがない悲しいセリフであったりする。


 ここに彼女つきの女官がいれば、ツッコミの一つや二つどころか十や二十は余裕で叩きこまれるのだが、恐ろしいことに今はツッコミ役が不在であった。


「これだけやっちゃえばあとは一絶対月くらいは余裕で遊べるでしょ。さー続き続き」


 誰もいないことをいいことに、堂々とサボり宣言する主神。


 繰り返すが、ツッコミ役はいない。ここが地獄だ。


「おっかーぁさまー! お待たせしましたー、お仕事終わりましたよー!」


 ついでにカリスマも不在だった。


『お、お疲れ、天照……がんばったね、偉い偉い』

「へへへー、でしょー?」


 猫なで声をあげながら、天照大御神は本当に猫のように身じろぎする。

 それに応じて、彼女の眼前に浮かんだモニターから真っ白な手が伸びた。手は小さく、さながら子供のようだが、そんな手になでられた天照大御神は、ごろごろと喉を鳴らして喜色満面を浮かべる。


 モニターに映っていた人物は、その手に見合ったいたいけな少女であった。天照大御神とよく似た美しい黒髪をたたえ、やはりよく似た美貌を持つ女神。

 傍から見ると天照大御神の娘にも見える彼女の名は、伊弉冉命イザナミノミコト。天照大御神の母に等しい国産みの女神、そして日本地域の死すべてを司る死神である。


 魂を磨き上げる場を提供し、輪廻を越えた転生の秘術と、磨き上げた魂の異世界転生事業によって、地球世界有数の信仰を獲得している偉大な女神。

 そんな世界に冠たる女神は今、ジャージに裸足にすっぴんという、アレすぎる姿をさらしていた。つけくわえると、目元のクマもひどい。どこからどう見ても健康不良児であった。


『あ、天照……イベントクエスト、始まってもう三日経ってる……今からわ、妾たちのギルドが、トップに行くのはむ、難しい、よ……』


 おまけにこの女神、生粋の廃ゲーマーであった。


「あらら、もうそんなに経っちゃったんですね。でも仕方ないですよねー、まさかゲームで本気出すわけにはいかないですしー」


 しかも娘も廃ゲーマーであった。この親にしてこの子ありである。


 というか、実のところ周囲に漂うモニターは、仕事用のものに紛れて明らかにどこぞかのMMORPGが表示されているものがある。外部入力端末の中にゲームパッドも紛れている。

 明らかに仕事と同時にゲームがプレイされている。手遅れ感しかなかった。


『正体、バレる、からね……仕方ない、ね……』

「ちょっと本気出すとすぐ『神降臨』って言われちゃいますからね。我が子たちながら、日本人は鋭いですよねー」

『ん……自慢の子たち』


 あははうふふと女神二柱が笑い合う。


 笑っている場合か。というか、それは単なるネットスラングだ。

 ついでに言えば、そのネタはとある時空における東京立川で休暇中の神の子と目覚めた人が既にやっている。それも相当前に。


 だがツッコミ役はいない。まるで終末のラッパが鳴っているかのようだ。


「そういえばお母様ー、こないだの件調べ終わったんですって? レイド狩りついででいいんで、教えてくれませんー?」

『あ、う、うん、いいよ、任せて』


 挙句の果てに、ボイチャしながらMMORPGにいそしむ始末である。


『け、結論から言うと、あ、天照が心配してるような、転生漏れはもちろん、よ、横やりの形跡もなかった、わ』

「ええー? ほんとにござるかぁ?」

『き、気持ちはわかる、けど……え、閻魔天さんも、同じ結論だった、し、間違いない、はず……』

「むむむ、じゃあ一体どういうことなんでしょう。お母様の目をかいくぐって介入できるほどの相手となると……外系神階同盟の連中しか思いつかないですけど」

『れ、連中が介入してるなら、もっと騒動になってる、と思う……』

「それもそーですよね。おっかしいなー、なんでかなー?」


 首をひねる天照大御神。対する伊弉冉命もこくりと頷いた。


 そのまましばらく、両者の間には沈黙が横たわる。無言の二柱が深刻な表情で向かい合うという、一大事を思わせる構図だが……。


「お母様ナイス回復ー」

『あ、天照は、ギルドの盾……要……』


 普通にゲームをしているだけだった。


 考えていないわけではない……はずだ。

 あれだけのマルチタスクができるのだから、きっとそのはずである。


「あっ」

『ど、どうした、の?』

「今、例の時空から信仰が届いたっぽい」

『え、ええー? ほんとにござるかぁ?』

「ほんとほんと、しゅしんうそつかない」

『ぼ、棒』

「つきまーす!」


 あははと陽気に笑う駄女神二柱。よそ様にはまったく見せられない光景であった。


「いやでも、嘘じゃないんですよお母様。信仰が届いたのは本当です」

『そう、なの? じ、じゃあ、色々調べられそう、だね?』

「うん、今早速見てるんだけど……」


 信仰が届くのであれば、神々にとって見る以外の様々な情報を得ることができる。今までは広目天とオモイカネしか当該地での信仰がなかったため、どうしても情報が届くまでに時間がかかったのだが、天照大御神に直接信仰が来た以上は手間暇はかからない。


 ただし、ゲームをする手は休めない。にもかかわらず、仕事を並行できるのが天照大御神という女神である。

 単純な並行作業ではなく、神々の視点では大雑把になりがちな一個体ごとの精査を短時間でやっていくのだから、まったく才能を無駄遣いしている。


 そのまましばらく時間が過ぎ、ゲームを映すモニター内でレイドボスが死を迎えた頃。


「……みーっけ、みっけ、見つけましたよお母様。明らかにおかしな個体がいました。地球標準時間で45億4293万8927年目……私たちが基本とする世界線じゃ文明なんて影も形もない時期ですねー」

『く、くわしく』

「待ってくださいね、今データそっち転送します……はい行きましたー」

『きた、これ。えっと……』


 ゲームの手を止めて、伊弉冉命が転送された情報を読み込む。


 敵がいなくなったので、今は天照大御神も操作を止めていた。


「見てくださいよお母様。このパーソナルデータ、どう見ても日本人ですよ」

『そう、ね……間違いない、ね……。ち、ちょっと、死者の過去ログ、検索してみる……』

「お願いしますー、これだけしっかりデータが集まれば検索も容易に……」


 にこにこと笑っていた天照大御神が、不意に言葉を切った。


 だがそれは、母の作業の邪魔になるからと思ってのことではない。

 そもそも、伊弉冉命とて強大な力を持った神だ。天照大御神ほどのマルチタスクはできないが、自らの権能の及ぶ範疇にあって、過去ログの検索程度はすぐに終わる簡単なお仕事でしかない。


 ではなぜ天照大御神が口をつぐんだのかと言えば、モニターに移る伊弉冉命の様子が、張りつめたものに変わっていったからである。

 もちろん、その変化に比例して天照大御神から笑みが消えていったことは言うまでもない。


『天照……この人、百三絶対日前に転生処理が済んでいるわ。ごくごく普通に、クワッカワラビーに転生って記録が残ってる。転生先も確認できる……母親の袋の中で寝てるわね』


 そして吃音が消えた伊弉冉命の口調を聞いた瞬間、天照大御神は完全に真顔になった。


 単に伊弉冉命のアレなスイッチが入ったからではない。

 いや、それはそれで色々と大変なことになるので真顔にならざるを得ないのだが、今の伊弉冉命は殺る気モードではない。


 モードに突入したように見えるが、伊弉冉命の目には揺らぎない理性の輝きが宿っている。これは純粋にやる気モードなだけだ。

 キレた伊弉冉命はこうはならない。天照大御神たち付き合いの長い神々にしか見分けがつかないが、キレた伊弉冉命はもっとイっちゃった目をしているのだ。


 問題はそこではない。


「転生処理が済んでいる? じゃあ、まさかこの人って」

『複製体よ。間違いないわ』

「うーわー」


 断言した母に、天照大御神はため息と共に顔を覆った。


 なぜなら魂の複製は、多くの世界間で締結されている連界条約において、明確に禁止された行為なのだ。これを行うということは、オスロ条約を締結しておきながらクラスター弾を使用するようなものである。

 最大の問題は、違反者が出た場合、本人のみならず、その神が所属する世界そのものにも累が及ぶことだ。知りませんでしたでは済まない。迅速に片づけることができなければ、良くて何らかの制裁、悪ければ武力介入を招くことになる。


 まして違反者がいながら自力でこれに気づかなかった、あるいは罰することができなかったとなれば、異世界からの介入はほぼ確実だ。

 外系神階同盟という明確な敵異世界を持つ地球世界にとって、それだけは絶対に避けなければならない。最悪の場合、侵略を受ける可能性すらあるのだから。


 ただし、その外系神階同盟からの攻撃という可能性も十分ある。地球神ちきゅうじんの仕業に見せかけて、自らが糾弾することで利を取る程度の工作など、息をするように仕掛けてくるのが外系神階同盟の神々なのだから。


「……お母様、申し訳ないけど今日はここまでね。私、主神の皆さんを緊急招集しなきゃ」

『うん、お願い。妾はちょっと気になることがあるから、そっちを調べてみるわね」

「りょうかーい。気をつけてくださいね、お母様」

『天照もね。でも、せっかくみんなでニャルラトの侵略を押し返したばっかりなのに、横やりを入れられるわけにはいかないしね。多少の無理はやっちゃうつもり』


 伊弉冉命が静かに言い放つ。その顔は、黄泉の国で約束を破った夫を追いかけたときの何倍も恐ろしく歪んでいた。


 それを見て、天照大御神は思う。


 身内の仕業か敵異世界の仕業かは知らないが――。


(お母様がやる気だわ。このまま殺る気になっても知らないわよ、私……)


 と。


 始まりは「お母様が後からプッツンして面倒なことにならないように、ちょっと調べておこう」程度の気持ちだったはずの調査は、ここに来て暗雲が立ち込め始めていた。

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