第23話 海と呼ばれた湖

 カスピ海。アジアと呼ばれる地域を、西と中央とに分かつ湖。

 二十一世紀における地球最大の湖であり、塩湖でもあることからまさに「海」の呼び名が相応しい。

 またその歴史は古く、世界でも数少ない古代湖(十万年以上存続している湖の総称。実は琵琶湖も含まれる)の一つだ。つまり、この時代に存在していることはほぼ間違いない。

 俺が転生する際、あの神を名乗るやつは間違いなくアジア地域に飛ばすと言っていたので、カスピ海だろうという推測はかなり確度が高いと思う。


 まあ、それを証明する手段はないのだが……今まさにこの時代で生きざるを得ない俺にとっては、そういう細かい情報は実のところどうでもいい。

 大事なのは、この湖が塩湖かどうか。その一点のみだ。


 俺はそれまでの驚きを抑え込むと、水辺にしゃがみこんで湖水に触れてみる。

 すると、すぐにぬるりとした感触が伝わってきた。


 これは……海水にありがちな手触りだ。確か、塩分やプランクトンなどでこうなるのだったか。いずれにしても淡水ではこうはいかないはずなので、期待できるな。

 次いで触れた部分をなめてみる。


 ペロっ。これは……!


「……うん、塩水だ。間違いない」


 とはいえ、味だけで塩分濃度の多寡を判断できるような精密な舌は持ち合わせていない。

 二十一世紀のカスピ海の塩分濃度は結構低かったはずだが、何せ時代が違うので、濃度が違う可能性は極めて高い。できれば海水並みの濃度であってほしいが……それは高望みしすぎだろうな。


 となると問題はどうやって塩を獲得するがだが……幸いと言うべきか、完全に手つかずなのだろう。自然の状態の塩があちこちに見える。

 たとえば波打ち際には塩が堆積している様が見えるし、かつての名残と思われる岩塩も転がっている。見渡す限り、とは言わないものの、百人にも満たない群れを維持するだけなら十分だろう。製塩を開始するまでの時間は稼げそうだ。


 おっと、そういう話はまた後にしよう。まずはここの水は飲まないように周知徹底しておかないとえらい目に……。


「……あーッ、待て三人組! ここの水は……!」


 遅かった。


 説明をしようと振り返ったら、三人組が湖に手を突っ込んいた。両手を器状にしているし、飲む寸前なのは間違いない。

 慌てて止めようとしたものの、残念ながら誰も手を止めなかった。勢いよく湖水があおられ……。


「「「うっぎゃあぁぁぁーーっっ!?」」」


 三人仲良くひっくり返った。


 残念ながらまあそうなるわな。


「ぎ、ギーロよ、もしやここの水は危険なのか?」

「すごい悲鳴だったのー……」


 三人組にため息をついた俺の隣に、メメを乗せた爺さんが珍しく慌てた様子でやってきた。

 メメは両手で耳をふさいでいる。先ほどの悲鳴が相当堪えたらしい。


「扱い方によっては危険だな。本来飲むための水じゃないし」

「なんと……」


 爺さんが目を剥いて驚いている。

 海を知らなければその反応は当然だ。水イコール飲み物という考えなのだろう。


「ちゃんと説明はするよ。……で、お前ら大丈夫か?」

「あばばば……なな、なんスかこれ!?」

「なんかこう……なんか……口の中がなんか!」

「ヤバいですよ! これ絶対ヤバいやつですよ!」


 脂汗をにじませながら、三人が口々に言う。未知の感覚に大層戸惑っているようだ。


 そしてその体験を表現する言葉が現状アルブスの言葉にないせいで、色々と残念な感じになっている。語彙力って大事だな。


「その感覚はな、神様の言葉(つまり日本語)で『塩辛い』って言うんだ。『しょっぱい』とも言うな。好きな方を使うといい。察しの通り、ヤバいやつだ。最悪死ぬ」

「「「ヒーッ!?」」」


 三人組の顔が一気に青くなった。

 嘘は言っていないのだが、少し脅しすぎたかな?


「だが今飲んだ程度の量では死にはしないから安心しろ。それも結構吐き出したみたいだしな」


 とりあえずフォローしておく。

 三人組は即座に、ほっと息をついて胸をなでおろした。


「それでギーロよ……お前さんは一体ここで何をするつもりだったのじゃ? はっきりとした目的があってここを目指しておったようだが……」

「今から説明する」


 ということで、五人を前にして簡単な塩講座だ。


 と言っても、俺もこの手のことには詳しくない。現代人なら誰もが知っているようなことを、さらっと説明……できればよかったのだが、相手が原始人なのでこれが存外難しい。

 俺もはっきりとはわからないことを、小難しく大量に言ったところで意味がないので、とりあえず要点として、三点に絞って伝えておくことにした。


 塩というものがこの世にはあること。

 それが生きていくためには欠かせないこと。

 けれど摂りすぎもよくないこと。


 この三点だ。これだけわかっていれば、まずはいいだろう。


「あれー? けど俺たち、別にそんな……えーと、塩? なんて食べてないけど、元気スよ?」


 アインがいい質問を飛ばしてきた。


「ああ、それはそうだ。俺たちが普段食べている動物には塩が大抵含まれていてな、それで俺たちは補っているんだよ」

「ほほー」

「ただ、植物にはそれがない。今俺たちは食料を増やそうということで色んな植物を食べていて、実際に食べていけるものも見つかっているが、今後そういうものが増えていった時、塩が足りなくなる可能性があるわけだ」


 ものによっては、身体から塩分を出す効果を持っているやつすらあるくらいだ。塩分多めの生活を送っているような二十一世紀人にはそれが健康にいいこともあるが、この時代にそんなことをしたら最悪死ぬ。

 そういう意味でも、塩は今後の俺たちにどうしても必要なのだ。


「まあ、それとは別に味が良くなるということもあるけどな……って、うわ」


 全員の目が光った気がした。それくらいの勢いと表情で、一斉に視線を投げかけられた。


 気持ちはわかるよ……正直味気ないよな、普段の食生活って。特に野菜。味付けなしの豆類とか、はっきり言ってキツい。


「……そういうわけだから、塩がほしくてここまで来たわけだ。で、その塩だが……」


 説明をしながら、俺はそこらに転がっていた小指の爪サイズの岩塩をひょいと拾って見せる。


「これだ」

「えー……」

「ちょま、ギーロさんいくらなんでも……」

「それはないスよー……」


 先ほど痛い目を見たからか、三人組がやけに引いている。


 いやまあ、確かに見た目は若干赤みがかった白っぽい石にしか見えないか。


「俺は至って真面目だぞ。ほら」

「「「あっ」」」


 仕方がないので、俺は岩塩の表面を爪でこすってごくごく少量の塩をこそぎ取り、口に含んだ。思っていた以上に固くてほとんど取れなかったが、塩なのだからこれくらいで十分だろう。

 三人組が口をぽかんと開けるのと同時に、俺の口内にじんわりと塩の味が広がる。


 実は前世も含めて岩塩を口にするのは初めてなのだが、やはり市販のいわゆる食塩とはだいぶ味が違うな。

 かといって、日本各地で作られていた昔ながらの海塩ともまた違う味だ。なんというか、こちらのほうがストレートに殴りかかってくる感じとでも言おうか。


 個人的には、海塩のほうが好みかな。この辺りは日本人としての感性だろうか。


 とはいえ、


「うん、うまい」


 ことには変わりがない。ミネラルとかなんとか、そういうものが味を豊かにしているのだろう。


「ギーロ、わしも! わしも!」


 俺が一人で納得していると、メメがぶんぶんと手を振り始めた。

 そうそう、塩探しは一緒に試食するための口実だったな。


「おう、約束だったな。ほらあーん」

「あーん?」

「あ、そうか。人に食べさせてもらう時の合図みたいなものだ。あーんって言うと自然に口が開くだろ?」

「あーん? おー、本当じゃー」

「ということだ。はい、あーん」

「あーん!」


 指でつまんだごくごく少量の塩を、メメの口の中に入れる。爺さんの頭越しに、というのがなんとも様にならないが。


「……んー! んー!? なんじゃこれ、なんか、初めての味ー!」

「どうだ、うまいか?」

「うん、不思議だけど、おいしいのじゃ!」

「それはよかった」


 なんでもそうだが、特に食べ物は第一印象でその後の好き嫌いがかなり左右されるからな。美味しいと思ってくれたなら幸いだ。


「ギーロよ、わしにも一つ試させておくれ」

「おう、いいぞ。ほれ」


 爺さんに言われるままに、岩塩を手渡す俺。


「……わしには先ほどのはやらんのか」


 すると爺さんときたら、すねた様子でそんなことを言ってきた。

 ただでさえごついアルブスの男、しかも特にごついほうに入る爺さんがそんなことをしてもまったくかわいくない。勘弁してくれ。


「何が悲しくて爺さん相手にやらなきゃならんのだ。こういうのはかわいい女の子とやるからいいんだ」

「そ、そういうものなのか……」

「そういうものだ」


 なぜ残念そうにするんだ、爺さん……。しぶしぶ岩塩を削るなよ……。


 ……メメはなぜ顔を手で覆っているんだ。どういう挙動だ……って、ん? 待てよ?

 爺さん相手にやりたくなくて思わず言ってしまったが、今の発言はある種の口説き文句だったのでは?


 と思って爺さんの頭上をまじまじを見てみると、案の定顔を赤くしているメメがいた。下からだと前髪に隠れている目が見えるのだが、手は顔ではなく、その目を覆うためのものらしい。


 うむ。


 これはやってしまったようだ。


「おいお前ら聞いたか今の」

「ああ……きっとああいうのが神様式の口説き方なんだ……」

「さすがギーロさんだぜ……まったく躊躇していなかったぞ」


 後ろでなぜか三人組に感心されているようだが、そんなちやほやはいらない。転生してから今までで一番いらない。


「おお……ほほーう、ほうほうほう。なるほど、初めての味じゃが、確かに味をうまいこと変えてくれそうじゃの」


 幸い、そのタイミングで爺さんが塩を試食してリアクションを取ってくれたので、この話はなかったことにしよう。

 それがいい。そうに決まった。


「だろう。特に肉とは相性がいいはずだから……」


 あくまで何もなかった体で、俺は周囲を見渡す。


「この辺りの塩を持ち帰るぞ」


 全員、返事は抜群に良かった。


 メメ以外。


 ……忘れて……くれないだろうなぁ。

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