第9話 別の群れ
落ち着け、まずは深呼吸だ。気持ちを落ち着かせて……それから、川の向こうにいる存在をよく観察するんだ。ジャンプ一回で飛び越えられるほど川幅は狭くない。この時代に飛び道具はまだうちの群れにしかないはずだから、すぐにどうにかなることはないはずだ。
……うむ。よし。
即死の危険性がないとわかっただけでも結構落ち着くものだな。
では改めて前にいる相手をよく観察する。
かなりごつい。顔もいかついし、あちこちに古傷と思われる痕跡が見て取れる。白い肌ではそれが否応にも目立つ。あと……うん、服、着ろ。見えているんだよ、色々と。
うん、男だ。何がどうとは言わんが、とりあえず男だ。
しかし顔に刻まれた時間の傷跡の量から言って、この時代としては珍しくなかなか長生きをしているやつだろう。二十一世紀の感覚で言えばせいぜいおっさん程度だが、原始時代的にはじじい扱いだろうな。
そして、その耳はとがって……おう?
もしかしなくても、こいつホモ・アルブスじゃないか?
しかしこんなやつ見た記憶はないぞ。群れの人数が少ないということもあるが、こんな爺さんはうちの群れにはいない。
ということは……別の群れ? が、近くにいる?
「……俺が何をしているかは、教えられない。理解できるとも思えないしな」
「そうだの……正直なところ、全然理解できそうにないわい……」
言ってくれるなオイ!
いや、落ち着け。これが普通の反応だ。というか、俺だってあんなこと口ずさみながら土を練っているやつに出くわしたら、同じ反応する。
「そういうお前は何者だ? 見たところ、同じ種族みたいだが……俺はお前のようなやつを知らない」
「やはり同じ長耳か。そうか……あの子の目はやはり本物ということだの」
「……はあ?」
「すまんがもう一つ聞かせとくれ。お前さんはこの川の向こう、あの煙がある場所に住んでおるのだな?」
「……その通りだが……」
ちらっと後ろに目を向けてみる。そこには確かに、空にたなびく煙が見て取れた。なるほど、あれを目印にしてやってきたアルブスの別の群れということか?
煙があるということは、火があるということ。火は落雷などで自然発生することもあるが、それを利用するのは人間しかいないからな。
「やはりそうか……」
「……いや、一人で勝手に納得しないでくれ。どういうつもりだ?」
「ああ、すまんの。いや、実は同じ長耳の者として頼みがあってな。わしたちの群れを助けてはくれんだろうか?」
「……はあ?」
それはまたどういうことだよ。
「わしたちの群れは、逃げてきたのだよ。丸耳の者どもからな」
「……オーケー、それは詳しく聞かないとまずそうな案件だな」
「おぅけい?」
「ああ、すまん。了解とか大丈夫とかいう意味だ。それで、詳しく聞かせてくれるか。なんならこっちに来てくれて構わない」
男の言うことが正しいならば、聞き捨てならない話になりそうだ。
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こちら側に渡ってきた爺さんは、ディテレバと名乗った。アルブスの言葉で……あれ? 対応する言葉がないぞ? どういうことだ?
……いや、待て、わからないのになんで意味が分かる? 普通に頭に言葉の意味が浮かんだぞ? 「とても強い」……俺たちの言葉ならこれは、ディットルになる……。
「……って、あっれ!? 俺、知らない言葉を使ってるぞ!?」
「うわ、いきなりどうした!? 今なんと言ったんじゃ!?」
「ん!? あ、いや、ちょっと、ちょっと待ってくれ、思ってもみなかったことが起きてて混乱しているんだ」
「お前さん……さっきの土もそうじゃが、本当に大丈夫か……?」
「大丈夫だ、問題ない!」
とは言ったが、正直混乱している。一体何が起きているんだ?
同じアルブスなのだから、言葉が通じるのは当たり前だと今の今まで考えていた。しかしよくよく考えてみれば、ディテレバの言葉は俺たちの言葉と若干違う。近いが違う。
そうだな、日本語で言えば、京都弁と江戸弁くらいの差だろうか。だから少しわかりづらいところや初めて聞く単語もあるが、意思の疎通にはそこまで問題はない。
だが俺は、そのわからないはずの言葉を普通に理解できいる。いくらなんでもこれはおかしい。
いや、別言語というほどの差異はないから、相手の発言が理解できるのは百歩譲ってよしとしよう。だが、爺さんが近づいてきた瞬間、彼の言葉がすっと頭に浮かぶようになったのはどういう理屈だ!? なぜ俺は、初めて耳にした言葉を普通に使えている!?
「……はっ!? まさかこれ、あの神とかいうやつが何かしたからか!?」
そういえば、前世としての俺の意識が完全に途切れる少し前に、何か言っていたような気がする!
今まですっかり忘れていたが、確か……。
『そうそう。さすがに少し過酷な環境でやがりますからね。餞別は用意しておきましたよ。有効に使ってくれやがれば幸いです』
とか、なんとか! そんな感じだった気がする!
そういうことか!? 俺が普通に話せているのは、つまりそういうことなのか!? 神の餞別なのか、これは!
……じ、地味だな……。
そりゃまあ、便利ではある……。人類が、国はおろか村すらろくに持っていないこの時代、恐らく群れ単位で相当に言葉が違うはずだ。そう言う意味では、今後他の群れ、あるいは種族と遭遇した時などには、ものすごく重宝するのは間違いないとは思うが……。
……どうせなら、農業アイドルの番組の村と島に関するアーカイブすべてを視聴できるとか、そういう能力がほしかったな……。
「しかし俺は二つの言葉を使い分けているという自覚があるぞ。いや、日本語も普通に使っているから三つか」
となると、この能力はいわゆる翻訳ができるようになるこんにゃくのような、万能翻訳能力ではないのか。
今の今までディテレバの言語のことは思い浮かびもしなかったことから考えて、自動習得という感じがする。違う言語を持つ存在に対面した時、勝手にその言語を覚えてしまう……そんな感覚なのだ。
……現代で使いたかったな、この能力……。そうすれば外資系の会社とかで頭角を現せたかもしれないのに……。
「……よし。うむ。わかった。大体わかった。すまない、取り乱した」
「あ、ああ……なんというか……お前さん、本当に、本当に大丈夫かの?」
「大丈夫だ、問題ない! それで、本題に戻ろうか!」
なおも怪訝な目を向けてくるディテレバに、俺は勢いだけで話を戻すことにした。こういう時、大事なのは勢いだ。多少の強引さが大事だということは、さっきのディテレバを見ていてもわかるだろう!
「それで!? 爺さんたちは追われているのか!? どこから来たんだ!?」
「あ、ああ……わしたちは……あっちの方角からやってきたんだがの」
そう言って、彼は北を指さした。
確か、俺たちの群れも北からやってきたはずだ。寒さを少しでもしのぐため、暖かい方向……南に向かって大移動して、今の場所に落ち着いたという流れだったはずだ。ということは言葉の近さから考えて、お互いの群れは案外近くにいたのかもしれないな。
しかしそれはそれとして、彼らも寒さをしのぐために南下してきたのだろうか?
と思ったら、彼らはまた事情が違うらしい。
元々は、比較的食料になるものが多かった場所に定住していたのだという。だから、南に向けて移住するつもりはなかったのだとか。
ところがある日、そこに丸い耳の人間たちがやってきたという。そして住みかを巡って争いになり……敗北、結果南に逃げてきたと。そういう流れのようだ。
「わしたちは全力で戦ったが、連中のほうが数が多くての。女子供を守りながらでは、戦いきれなんだのじゃ……」
「あー、戦いは数だからな……」
ましてやアルブスの女は戦いの頭数にはならないし、余計だろうなあ。
このやたらガチムチな爺さんなら、一人でもサピエンスを十人くらいは同時に相手取れそうではあるが……十人力程度では群れ規模の戦いには勝てんだろう。千人力くらいはないとな。
「それで、生き残った者たちを連れてこの辺りまで来たんだがの……戦いで男の多くが死んでしもうた。そのせいで、このままでは次の冬を越せそうになくての」
「なるほど、男手が足りていないのか」
「うむ……何せ今の群れには、わしを含めても男は手の指の数しかおらんのじゃ」
十人、ね。それは確かに少ないな。
うちの群れは男のほうが多くて、四十人近くいる。おかげで狩り以外のことにも従事させられるくらいには人員に余裕がある。いや、女の生存率が低いと思われるアルブスだから、俺たちの群れのほうが正しい姿か。
その分、独身男がかなり余っているわけだが……それは置いといて。
この時代に狩りができる者が足りないということは致命的だ。何せ、食料確保の手段が狩りか採集しかない。それも、狩りにかなり偏っている。ディテレバたちの群れは、まさに緩やかにだが確実に死に向かっているということだな。
「先日も、どうにかマンモスを狩ることには成功したんじゃが、その時に二人怪我をしてしもうた。このままでは、わしたちもいずれ動けなくなりかねん……」
「なるほど、それはまずいな」
怪我人までいるのか。本当に滅亡待ったなしじゃないか。
「だから頼む。わしたちを、お前さんの群れに加えてほしいのじゃ」
「……わかったよ。と、言いたいが、俺は群れの長じゃない。群れには連れて行ってやるし、口添えもするが、交渉そのものはおっさんがやってくれ。それでいいか?」
「! ああ、それで構わん! ありがとうよ!」
「礼は気が早いだろう。それに、俺はあんたたちのことより気になることがあったから請け負っただけだ」
「……わしたちより?」
「そうだ。あんたたちを追い出したという丸耳の人間……そいつらについて、道中話を聞かせてくれ」
そう、アルブスに敵対する存在。そいつらのことこそ、一番聞き捨てならない。
丸耳の人間が、北からやってきて襲われた。この情報は、近い将来他の人種と争いになる可能性を意味しているのだから。
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