第2話 素直になれない女子高生と古い櫛。
「彩、これを持っていておくれ。」
そういっておばあちゃんがわたしてきたのは古びて所々剥げてしまったり色がくすんでしまっている櫛だった。
「何これ、いらなーい。」
「大事な櫛なんだよ。あのね……」
「もうわかったよ!持ってればいいんでしょ!」
散々聞かされた話をまた始めようとしたおばあちゃんの言葉を遮って、櫛を少し雑に受け取る。おばあちゃんが少し悲しそうな顔をしたのを見なかったふりをして、またね!と病室を出ていった。お母さんの、こらっという声も無視してドアを占める。今日は覚えていたけどきっとおばあちゃんは明日には私のことも櫛を渡したことも忘れるのだ。
私のおばあちゃんは、認知症だ。それもかなり重度の。それに、足腰も弱く、体もすっかり衰弱してしまって、持病も悪化しているらしい。一年前から病院で過ごしていた。病院に入り始めた頃から更に認知症は悪化して、孫の私のことどころか、実の娘であるお母さんのことも忘れるときがある。毎回会うたびに誰だっけ?と言われることが辛くて、病室に行く頻度も少なくなっていく。お母さんは介護のために毎日通っているが、やっぱり実の母に忘れられる日があるとそれなりに落ち込んで帰ってきたり、疲れ切った顔をしている。そんな母を見ているのも辛くて、おばあちゃんに会うとつい、きつくあたってしまう。
けれどそんなおばあちゃんでも唯一忘れないことがあった。家に代々伝わるこの櫛のことだ。昔私達の祖先は軍人で、戦いに参加し、亡くなった。櫛はその軍人が大切な人に送ったもので、それがなぜこんなにも大切に受け継がれているのかはよく知らないし、私にとっては心底どうでも良かった。昔話なんて今を生きてる私には関係ない。おばあちゃんはこの櫛は病気を治してくれるんだよと言っていたが、そうだとしたらおばあちゃんの病気はいつまでも治らないのは、何故なのか説明してほしい。
なぜさっき、櫛を渡されたのかはよく分からない。けれど、私に渡されたって困るし、そんなに大切なら自分で持っとけばいいのに、と思う。
プシューと音を立てて、バスの扉が開く。疲れた顔をしたサラリーマンや気怠い様子の高校生なんかがぞろぞろと死人のように降りていく。私もその列に連なって家へと向かう。家の近くの寺に咲く、夕日に照らされた桜は、いまいち本来の美しさを感じられない。夕日のオレンジも桜のピンクもどちらもお互いが主張しすぎて台無しになっているような気がした。ぱっと、商店街のガラスに映る自分自身の姿を見る。
ーーこんなにも、つまらなそうな顔をしていたっけか。
みんなに置いてかれないようにと必死にメイクして、スカートを短くして、楽しそうに笑い、動画や写真をいっぱい撮ってSNSにあげる。そんな毎日は本当に楽しいのだろうか。そのときは楽しいかもしれないけれど、ふと我に返るとここまで頑張る必要性も感じられない。SNSもなにも発達していなかった昔はどんなふうに皆恋をして、友達と遊んでいたりしたのだろうか。周りを気にすることなく、自由な暮らしを送っていたんだろうか。今の時代、いつだって付き纏うのは他人の視線だ。SNSにあげすぎても言われるし、あげなさすぎても言われる。どろり、と心の中で嫌な感情が溢れた。
いつの間にか家の前に到着していた。母は病院で、この時間だと父はまだ仕事だ。最近できた、家にたった一人しかいない、という時間がなんだか好きだった。誰も気にせず、好きなことをしていられる。高校に入ってから学校などで他の人の目を気にするようになったからか、余計に一人の時間が楽しくなった。もうこのまま一人で一生を過ごしたい、なんて思うくらいには。そうすればおばあちゃんのように、認知症になっても誰にも迷惑をかけずに一人死ねるかもしれない。それにきっと親にもこれ以上迷惑をかけなくてすむ。普段から口煩い母にはつい反抗してしまう。母がため息をついて一人悩んでいる姿を知っているくせに、素直に手伝おうかと言えない自分は情けなくて、消えてしまいたくなる。
「ふぃ〜、ただいま〜、おかえり〜。」
一人でそんな掛け声をかけて、適当に靴を脱いで適当に制服を脱ぐ。スマホを鞄の中で手探りで探しているとコツン、と櫛に手が当たった。
「ここらへんにおいとこ。」
机の上に櫛をほっぽってスマホを探し、イヤホンをつけ、ベッドの上にごろん、と転がる。新しく更新された動画を探して、流す。スマホの小さな画面の中で楽しそうに笑う人達。きっと明日の友達との会話はこれで困らないなと、自然に考えていることに気づき、どれだけ自分が仲間はずれを嫌がっているかを思い知らされた気がした。
私のクラスの中でも、一人だけ、いつも自分を貫いている子がいた。周りに無関心なのか、はたまた群れるのが嫌いなのか、よくわからないけれど、周囲の視線を気にしないで飄々と生きていく姿はかっこよかった。一度話しかけたとき、驚くほどその子には感情がないように感じた。もちろん、こちらが笑いかければ笑顔を見せるけど、心の底から笑っているところは一度も見たことがない。美術の授業で風景をデッサンしたときもその子の絵はなんだか無機質に感じた。
私はあの子のようには生きれない。友達に必死についていくことしかできないのだ。くだらないけれど、今を生きるには大事なことだ。未来のためには真面目に何かをコツコツ頑張ったほうがいいのかもしれないけれど、先が見えなくて、まだまだ猶予がある未来よりも、今のこの瞬間を生きていく……生き延びることが私にとっては重要なのだ。
もしこれで私が末期の病気だとしたら、少しは毎日を、大切に生きていたのかもしれない。けれど、私にはそんなこと関係ないのだ。つまらない毎日を当たり障りなく、問題を起こさないように過ごしていくだけ。
「あー、つまんな。」
ふともれた言葉は、画面の中から聞こえる笑い声に掻き消された。
賑やかな笑い声。馬が通る道。袴の人と燕尾服の人が混ざり合ってしゃべっている。建物からはあいすくりんと書かれた幕が垂れ下がっている。
「ここは……?」
私はベッドに入って寝たはずだ。なんとか作った夕飯を食べて、お風呂に入って、荷物整理と洗濯をある程度して、おやすみなさいと先生に挨拶をしたあと、そのままベッドへダイブした。それなのに、来た覚えのない袴姿で見知らぬ場所にいる。
「夢……?」
そう呟いたが、夢にしては物凄くリアルだった。頬をつねっても普通に痛いし、さっきからいろんな人にぶつかるし。
まるでタイムスリップしたかのような感覚だ。明らかにここは現代ではない。明治時代だろうか。いまいち歴史に詳しくない私には、よく分からない。私、どうすればいいんだろう……。ととりあえず道の橋によって行き交う人々を眺めた。
「やぁ、お嬢さん。」
「へっ!?」
突然声をかけられたのにびっくりして、横を向くと、見知った顔があった。先生の格好はあまり大差なく、カンカン帽が付け足されたくらいだった。
「せ、先生!」
「君もこっちの世界に来れたんだね。」
「これはいったい……。」
先生いわく、この世界は先生が治している途中の
本の世界の一部らしい。寝ている間だけ、本の中に引き寄せられるときがあるのだとか。正確には本の世界に迷い込んだ人や付喪神なんかがいるときにそこから救助する仕事を先生がしているというわけだ。
先生が治す本にはそれなりに意味があるものが多く、その本自体が不思議な力を持ってしまい、人などを呼び寄せてしまうのだとか。
「じゃあ、今回私達がここにいるのも……。」
「誰かが迷い込んで、その人を助けてほしいって家や本が僕たちを読んだんだろうね。」
もうここまで来ると私は驚かなくなっていた。今日一日で非現実的なことが起こりすぎて一生分の驚きを使ってしまった気がする。
「今回僕たちはどんな役割なんだろうね。」
「役割?」
「この世界に組み込まれる際、何かしら役割があるはずなんだ。ここに迷い込んだ人にもね。」
「本の中の登場人物になるってことですか?」
「そうでもあるけど少し違う。ここは本でも、いわゆるパラレルワールドなんだよ。本はもちろん通常のストーリー通りに進んでいくんだけど、そこに僕たちが介入することでお話が少し変わってしまうんだ。そのことによってこの世界は最終的な物語の結末は同じでも、途中経過が変わる。元の本の設定や世界観を題材としたアナザーストーリー的なものって言えばわかるかなぁ?」
つまりは、赤ずきんの世界に入り込んだとして、赤ずきんやそのおばあちゃん、猟師、狼は存在するけど、そこに私達のようなイレギュラーな登場人物が介入することで、猟師が3人になったり、赤ずきんが双子になったりする、ということだろうか。どちらにせよわかりづらい。
「わかりづらいですけど……なんとなくなら。」
「ごめんね、説明が下手で……。小説家だけど、僕の小説は説明が下手だとか、わかりにくいってよく言われるんだよ……。」
「じゃあまずは迷い込んだ人を探さなきゃいけないんですか?」
「いんや、この後お話が進んでいくうちに絶対会うと思うからそんなに急がなくても大丈夫。それより、もう少し説明したいことがあるんだ。」
そう言うと彼は懐から万年筆を取り出した。付喪神が宿っていて本を修正する力があるというその万年筆は淡く光っている。
「それっ。」
きゅぽん、と蓋を外して空に投げた瞬間、その万年筆が消え、煙と同時に燕尾服を来た紳士に変わった。ほんのりあたりにはインクの匂いが漂う。
「え?」
ばさりと燕尾服を羽ばたかせ、髭をひと撫でし、胸に手を当てて恭しくお辞儀をした。
「初めまして、空様。ワタクシ、万年筆です。」
人生ではじめて、自己紹介で、ワタクシ万年筆です。と紹介された。黒い燕尾服にところどころ金色の縁取りがしてあることから本当に彼は万年筆が人間の姿になったものなんだろう。サラサラした髪はグレーで、髭もグレーだが、目の金色がペン先の色とそっくりだ。
「人がペン……。」
「ペンが人だよ、空ちゃん。」
「ハハハ、少し驚かせてしまいましたか。」
もう多少のことでは驚かないと思っていたのに、ペンが人になるとは思いもしなかった。いや、付喪神、と聞いてから想像はできていたのだ。想像は。けれど実際見ると思ったより驚いてしまった。
「さて、空ちゃん。改めて本の世界に入る、というのはどういうことか説明しようか。長くなるからお店に入ろう。」
あいすくりんという垂れ幕がかかった和風モダンな喫茶店に入る。すると、いらっしゃいませ。と袴に白いエプロンをつけた可愛らしい人が出迎えてくれる。店の中でも一番奥の席に案内をしてもらって、ミルクコーヒーやブラックコーヒーをそれぞれ頼む。女給さんがテーブルを離れてからこっそり先生に話しかける。
「あの、お金は持ってるんですか?」
「うん、さっき確認したらある程度あったよ。あ、ひーさん。」
「ひーさん?」
「あぁ、万年筆のひつからとってひーさんって僕は読んでるんだ。」
「まんでもねんでもなく、ひつのしかもひだけ使うんですから、ご主人様のネーミングセンスは恐ろしいものです。」
「あれ、馬鹿にされてる?褒められてる?」
「先生……。」
うぅと悲しそうにする先生を横目にもう一度万年筆のひーさんの方を見た。どう見ても人間にしか見えない。顔が整ったオジサマ、という感じで、現実世界に歩いていても違和感がない。
「あーもう、とりあえず今回の僕たちの役割はなんだい?」
「どうやら、この世界でも、ご主人様は小説家のようですね。空様は妹あたりの設定でしょうか。ワタクシはそれにお使えする執事ですね。」
「妹?」
「ええ。」
手帳のようなものをパラパラめくってそういう万年筆。
「なんでそんなことわかるんですか?」
「おそらくこれはワタクシがこの世界でつけている手帳でしょう。ご主人様の予定が書かれております。今日は『妹とでぇと』と書かれております。」
「じゃあなんだろ、お兄様って呼べばいいのかな。」
私がそう言うと先生はお冷をぶはっと吹き出した。
「うん、かなり恥ずかしいねそれ!」
「うふふ、どうしたんですか、お兄様?お顔が真っ赤ですわよ。」
もう、やめてくれよ……と照れる先生はとてもかわいい。36歳のくせに可愛いとか何事だ。
「お待たせしました、珈琲になります。」
女給さんがテーブルに珈琲を置いていく。栗色の髪をハーフアップで纏めて、赤いリボンで結んでいる姿はとても可愛らしい。このお店の雰囲気によくあっていて、大きな目はキラキラと輝いている。年は……、私と同じくらいだろうか、それかもう少し年上かもしれない。私もバイトとかしてみたいなぁと思うのだが、幾分愛想笑いが苦手だから、接客業を務める勇気はなかった。
「まず、どこから話そうかな。まず聞いておきたいことはあるかい?」
「えーっと、この世界は単に現代から私達がタイムスリップしたってわけじゃないんですか?」
「うん。そういうわけではないよ。確かに作者がこの本を書く際にイメージした時代はあるだろうけど、例えこの話がフィクションでもノンフィクションでも現実世界とは別物なんだ。だから、現実では実際になかったものとかがごちゃまぜになったりしている場合があるんだよ。本の中っていうのは普段ならば当然中に入れない。けれど、僕達が入れてしまう世界っていうのは、本自体の力が弱くなって存在が脆い状況なんだ。だから尚更色々なハプニングが起きやすい。」
「例えば、異世界転生ものの本に入ったとき、本来ならば絶対に現れないような強いモンスターが現れたりとかそんな感じです。」
「でもこれ、一応夢の中何ですよね?じゃあ死んだりとかは……。」
「するよ。普通に死ぬ。今の僕たちは意識だけでこちらに来ているから正確に言えば目覚めることが亡くなるって感じかな。」
植物人間状態、ということだろうか。それこそ私は空っぽになってしまうのか、と想像してじわじわと恐ろしくなった。
「あぁ、でも安心して、よっぽどのことがない限り、死ぬっていうことはないよ。自殺する、とか無駄に死のうとしない限り大丈夫だ。それに本の中の登場人物になるうえで僕たちのキャラクターがストーリー上、どうしても死亡するキャラだとしたら、死んでも現実世界に帰るだけだ。そのキャラとしての役目を全うしたってことだからね。」
「そうなんですか……。」
「今回の本はそんな風に突然死ぬことがあるストーリーではありませんのでご安心ください。万が一のときはワタクシが空様のことをお守り致します。」
「万年筆さん……。」
え、僕のことは?と素っ頓狂な顔をしている先生を見てほんの少し安堵した。いつ死んでもいいやって普段から思っているが、いざこの状況で死ぬかもしれないとなると両親に、心配をかけてしまうと思ってしまった。先生ももし、私がそんな状況になったら両親に責められるだろうし。
「そういえば、万年筆さんって現実世界でも人の姿になれるの?」
「おっと、その説明を忘れていたね。」
「そうですね。ワタクシのような付喪神は本来、主人以外に姿を見せることはできません。」
「けど、この本の世界のときは例外だ。もともと脆い世界だから色々なものが介入しやすくなってる。そのうえ、本っていうのは人が作ったものだ。だから、世の中で存在している魑魅魍魎、人々に受け継がれる伝説とかは本の世界で姿を現すことができるようになる。」
「特に付喪神という存在は人に大切にされて現れたものですから、余計人によって作られた世界は居心地が良くなるのです。」
「へぇ、そうなんですか……。」
「でもそれはいいことだけじゃない。もちろん邪な気持ちを持って本の中を壊そうとか人に害を与えようとする輩が必ずと言っていいほど出てくる。」
「物語に登場しないはずの怪異達を大人しくさせるのもある意味我々の仕事です。」
おっと、いきなりバトル物のようになってきましたね……。大体そもそも、この二人は戦えるのだろうか。訝しげに顔を見ていると、先生は自慢げにふ、ふっーん!と胸を張った。
「安心してよ、空ちゃん!僕は戦えないよ!」
「全く持って安心できない!?」
「ちなみに本の中だからといってワタクシも万年筆ですから。戦えません。」
「じゃ、じゃあどうするんですか??」
「この世界にいる住人の力を借りたりとかね。あとこの世界観を大きく外したものは存在できないようになっているから相手も姿を現すことができるだけ、とかいたずらレベル、とかそんな感じだよ。バトル物、冒険物はちょっと辛いけどね。」
「この世界に入るものはその世界観にあったものになるということですか?」
「そうだよ。僕達も役を設定されているようにね。」
じゃあ少しまとめよう、といって彼は紙を出した。その紙にこの世界についてのことや注意事項をスラスラ書いていく。
・現実世界で寝ている間、本の世界に迷い込むことがある。
・本の中でも存在が危ういものの中に入る。
・本の世界では、ストリート上の死以外は本当に現実世界に反映されてしまう。
・付喪神や妖怪など様々な怪異が姿を現すことができるようになる。
・ハプニングも起きやすいが、世界観を壊すようなものは、存在できない。(せいぜい終盤のボスが序盤に出てくるとかそういうレベル)
・それぞれの世界観によって役などが決まる。
・僕たちの仕事は、迷い込んでしまった一般人や付喪神等をこのストーリーが終わるまでサポートすること。
・絶対に自らを危険に晒すような行動はしないこと。
最後のニ文は凄く大きく書いている。私達の一番の目的と一番気をつけなくてはいけないことだ。
「よっし、じゃあこのストーリーが進んでいくまで見守っていこうか。」
「迷い人は探さなくていいんですか?」
「いんや、もう見つけたよ。」
彼の視線の先には、先程の女給さんとよく似ているが、間違え探しのように少しだけ違う女の子がいた。あからさまにキョロキョロしていて、え?ここは?と戸惑っている。その様子に気づいたのか先程の女給さんがどうしたの?、と声を掛けた。
「こ、ここは……?」
「何を言ってるの?ここはお父さんが経営しているかふぇーよ。」
「かふぇ?」
女給さんは赤いリボンでハーフアップで少し柔らかい雰囲気。一方は青いリボンでポニーテール、ばっちりメイクをした子だ。メイクのせいか、きつい印象だ。どこかで見覚えがある気がした。
「珈琲とかをお客様に提供するのが私達の仕事でしょう?」
「え。というか、あんただ……。」
「ちょっといいかい。女給さん。」
先生が青いリボンの子に話しかける。若干訝しげな顔をしつつも彼女は大人しくこちらについてきた。
「突然ここに来て戸惑っているだろう?説明するよ。」
そういうと彼女は大きな目を見開いて、こくりと頷いた。席につくと彼女は深く息を吐いた。
「はぁ〜……、ねぇ、何なのこの世界!私気づいたらここにいたのよ。それに貴方達も何者?一体何が起こってるの!?」
「ちょ、ちょっと落ち着いて……。」
「落ち着けるわけ無いでしょ!」
目をきっと吊り上げて先生の方を睨みつける彼女。その表情は困惑そのもので、瞳の中にたっぷりと不安が注ぎ込まれているように見える。彼女はもう一度深く息を吐くと、ぱっ、とこちらを見た。
「あれ……、もしかして、神代さん……?」
「え……?」
見たことがある、気はしていたが、まさか知り合いだったのか。だが、全くもって誰だかわからず、お互いに気まずい沈黙が流れる。
「あ、ご、ごめんね!まだクラス始まったばかりだからわかんないよね。」
同じクラスの人だったか……。あまり、他人に興味がない私にはまだ始まったばかりのクラスをメンバーを覚えているわけがなかった。
「こちらこそ、ごめんなさい。まだ、覚えきれてなくて……。」
気にしないで、と親しみやすい笑顔を浮かべる彼女は、少し落ち着いたようだ。そこまで親しくないものの、見知った顔を見て安心したのかもしれない。
「それじゃあ、そろそろ説明するよ。」
先生がそういうと、彼女は顔を引き締めた。一見チャラそうな印象にも見えるが、案外彼女はしっかりしているのかもしれない。
一通り説明すると信じられない……、と頭を抱えた。
「これ、いつ帰れるの?」
「物語が終わるまでか、朝が来るまでだよ。とはいっても向こうの世界とこっちの世界の時間差はだいぶ大きいから、朝が来るまでには終わるんじゃないかな。」
「この世界で何ヶ月も過ごすってこと!?」
「いや、物語の重要な部分しかきっと僕らは参加しないはずだから、そんなに長くはならないと思うよ。体感時間では3日くらいじゃないかな。ほら、よくあるだろ、あれから数ヶ月後……みたいなの。」
「スキップされるってことか……。」
時の流れが違う、と聞くと本当にこの世界は本の中なのか、と嫌でも実感させられる。
「それで、私はどういう立場なの?」
「この世界では、おそらく、あの子の妹、という設定じゃないかな。僕たちも詳しくはわからないから、自分の部屋を漁ってみるといいよ。きっと日記とかが見つかるはずだ。」
「はぁ、めんどくさ。なんでこんなことに……。」
「何か君の人生にとってこの世界は重要なことなんじゃないかな。きっと、いい経験になるよ。」
「そんなこと言われても……。平凡に当たり障りなく生きていけたらそれでいいのに。まじ最悪。とりあえず、私は部屋を探してくる。」
そう言いながら、スタスタ歩いていってしまった彼女の後ろ姿を見て一抹の不安を覚える。しっかりこの物語を進めることができるのだろうか。
「大丈夫だよ、空ちゃん。彼女、案外順応性が高そうだ。」
彼女は、すれ違った赤いリボンの女給さんに、忘れ物をしちゃったからちょっと部屋に戻るね、といって裏に入っていった。しっかりと、おそらく姉、という設定の女給さんに伝えるあたり、見た目にそぐわず真面目なのだろうか。
「ああいう子はよく皆で一緒に過ごしたりすることが得意なタイプだろう?だから、どこに行っても広く浅くやっていけるものだよ。」
「羨ましい……。」
ふと、自分の口からそんな言葉がでて、驚く。私はおそらく生き方が下手くそだ。人に愛嬌を振りまいたりすることがどうも苦手。何かをしてしまったあとに気づいて相手を気遣うために取り繕うと逆に相手に申し訳なさそうな顔をさせてしまうことが多い。彼女は、相手にそんな顔をさせたりしないのだろう。そういえば、クラスでいっつもキャピキャピしている子たちがいた。彼女はその一員だろう。私とは住む世界が違うんだろうと思っていたからそんなに気にかけていなかったが。時たまそういうカースト上位の子たちに話しかけられても、何を考えているのかわかんないとか、協調性ないよねって言われて終わりだ。私にできるのはせいぜいそう言われないように愛想笑いを浮かべるだけ。けれど、彼女は私のことを覚えておいてくれていたようで少し嬉しかった。
「仲良くなれるといいね。」
「……はい。」
少しキツそうだけど根は優しくて真面目そうな子だ。この物語が進んでいくうえでちょっとずつ仲良くなれたら私のただ通うだけの学校生活も変わるのだろうか。
突然自らに降りかかった非現実的な現象に心が全く持ってついていかない。頭では理解しているけれどどうも信じられなかった。この世界が本の世界だって?どう見たって人は生きてるし、建物もしっかりしてるじゃないか。頬をつねっても痛いから夢とはまた違う、と理解してしまい、余計に憂鬱になる。
小説家を名乗る男の人に説明を受けてもいまいち実感がわかなかった。お話を進める?そんなこと知ったこっちゃない。私によく似たあの赤いリボンの人は私の姉という設定らしい。なんであの人が私に似ているのかも、何がなんだかわからない。おそらく私の部屋であろうところにつくと、背の低い文机の上に日記がぽん、と置いてある。表面には彩子、と書いてあった。私の名前は彩だが、この世界では、彩子、という子の代わりなのだろうか。
ぱらり、と一ページ目を捲る。少しカビ臭い紙の匂いが漂う。あ、これ図書館と同じ匂いだ。なんて馬鹿げたことを思いつつも、丁寧に綴られた日記に目を通した。
『〇〇年〇〇月〇〇日
お姉ちゃんがプレゼントしてくれたこの日記帳でこれから少しずつ日記を書いていこうと思います。飽きっぽい私だから続くかどうかわからないけれど、いつか振り返ったときに私の日記帳でお姉ちゃんのことを思い出せるように書いていこうかな。』
お姉ちゃんのことを思い出せるように、とはどういう意味だろうか。もう一ページをめくると、細かく自己紹介と家族紹介が書かれていた。自己紹介なんて交換日記とかの可愛らしいデザインの紙にだけ書くものだと思っていたが、昔の人もこうやって書いていたのか。
『彩子 17歳
実家は喫茶店。お手伝いしながら、女学生として勉強中です。そろそろ、結婚相手を決めなくちゃいけないんだって。嫌だなぁ。恋とか全然わかんないんだもん。あいすくりんが好き。
美弥子 17歳
双子のお姉ちゃん。ちょっと先に生まれたからお姉ちゃんになった。私よりも可愛いし、優しいし、大好きだけど、昔から体が弱くて、病気も多い。病気はどんどん進行していて、もうだいぶ危ういんだって。神様ってほんと不公平。お姉ちゃんが少しでも長生きしてくれますように。』
他にもお父さん、お母さんのことが書かれている。喫茶店のオーナーはお父さんで、料理とホールを手伝っているのがお母さん。彩子、美弥子は女給として、ホールを手伝っているようだ。お姉ちゃんのほうは病気がちらしい。道理で色白で可愛いわけだ。
『〇〇月〇〇日
お姉ちゃん、無理しちゃいけないのに、女給さんが楽しくって、ついつい無理しちゃうみたい。私がしっかり見てないと!』
『〇〇月〇〇日
今日はとってもお姉ちゃんの体調が良くない。ずっと吐いてるし、顔色も真っ青。このまま死んじゃったらどうしようって何度も思った。嫌だよ、お姉ちゃん。嫌だ。』
『〇〇月〇〇日
一日今日は、すっごく元気だった!お医者さんもそんなに進行してないって言ってたし、良かったぁ!私ね、お姉ちゃんのこと大好きなのよ。世界で一番好き!だから、最後までお姉ちゃんが幸せに生きてくれるように頑張ろう。』
毎日毎日、お姉ちゃんについてがこの日記は多かった。彩子は家族思いでとってもいい子というのが文章だけでも伝わってくる。姉のほうが体調を、崩した日は涙が溢れた跡もある。また、今日は、お皿を割ってしまったたとか試験の結果が良くなくて怒られてしまったとか、可愛らしい一面もあった。そんななか、少しいつもと違う内容にぱっ、と目を引かれた。
『〇〇月〇〇日
最近、かふぇに毎日来るかっこいいけど、ちょっと怖い軍人さんがいる。いっつも一人で珈琲を、資料読みながら飲んでる人。お姉ちゃんはその人が気になるみたい。確かに、不思議な人だと思うけど、そんなに私は気にならないなぁ。』
なるほど、こういう特殊な人物が現れた、ということは物語が進んでいる、という証拠なのだろうか。読めば読むほど彩子という人物のことが私は好きになっていった。私とは大違いで本当にいい子だ。周りに流され続ける訳でもなく、ただ家族のためを思って毎日行動している。
「この世界にいるときくらい、神代さんや彩子みたいにまっすぐ、生きてみようかな……。」
先程神代さんに会って、彼女が私のことを覚えていないことに落胆よりも安堵した自分がいた。やっぱり神代さんは私のようにクラスメイトの名前と顔を必死に覚えたり、周りの人間を観察して、どうやったらうまく過ごせるか、なんて考えないんだ、と思うと彼女がかっこよく見える。私がすぐ風に吹き飛ばされる、たんぽぽの綿毛なら、彼女はしっかりとブレない大木のようだ。羨ましい、と心の底から思う。私も真っ直ぐ正直に生きたい。もう周りに流されるのは嫌だ。高校だって親がここに行きなさいというからそこに入ったし、部活も友達がはいるから入った。自ら望んでやったことなどなかった。
けど、親も、顔色を伺わなくちゃいけない友達も、誰もいないこの世界でなら自分の思うままに彩子になれるのではないだろうか。優しくて姉思いの。先程は、神代さん達に面倒くさい、などといったが、案外やる気が出てきてしまってなんだか笑えた。私は流されやすい彩じゃない。お姉ちゃんが大好きで何事にも真っ直ぐな彩子だ。
「よっし、ちょっと頑張ってみようかな。」
こんな前向きな気持ちは初めてだ。まるでお伽噺の主人公になったようだ。確かにここは本の世界なのだが……。何かが、私の中で変わるかもしれない。そんな淡い期待と共に部屋を出た。下に降りて、お姉ちゃんにお待たせ、と声をかける。ふわりと笑って今日も頑張ろうね、という彼女に、無理しちゃ駄目だよ、と返した。心から出たそんな言葉たちはおそらくこの姉妹にとって当たり前の会話なのだろう。しかし、本当に違う自分になったようで、わくわくする。この彩子の人生をしっかり見届けよう。
ーーーこのときはまだ、良かったのだ。幸せな時間はあっという間に崩れてしまうことを、私はすぐに嫌でも理解することになった。
空っぽな私と先生。 志賀福 江乃 @shiganeena
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