空っぽな私と先生。

志賀福 江乃

第1話 不思議な人と不思議な家。

「そんな古そうな万年筆使ってるなんて、かっこいいね!」


 そう?と返せば、普段から親しくしている友達は、うんうん、かっこいい!と嘘偽りのない笑顔を浮かべた。童顔で可愛らしい友達は見た目通り、優しくて素直な子だ。だから彼女が本気でかっこいい、と思ってくれていることを感じ、私も嬉しくなった。


「大事な、大事な万年筆なんだ。」


 そう呟けば、ははーん、と彼女がニヒルに笑う。


「好きな人からもらったやつとかでしょ!」


 好きな人、と言われれば確かにそうだったのかもしれない。けれど、彼に対するこの感情を愛だとか恋だとかそういう言葉で表したくなかった。今でもこの万年筆を使う彼の手も、丸まった背中も、ごわごわの髪の毛を適当に一つにまとめて髪を掻き上げる姿も、私の視線に気づいて、不器用に笑う顔だって、鮮明に思い出せる。

 絶対に私だけは忘れちゃいけないのだ。彼が生きた証を。

 この万年筆で書く文字はもう鮮やかな色を私には見せてくれないけれど、覚えているから。彼から教わった色を、音を、匂いを、そして、何よりも、言葉を。




 いつも私の美術に関する成績は低かった。筆記で満点をとっても学期末に受け取る成績表が満点だったことはない。また現代文の読解問題だってできなかった。この著者の気持ちを答えなさいなんて問題が出てもそっちの気持ちなんてこっちには知ったこっちゃない、と思ってしまうのだ。

 皆が綺麗だというものが綺麗だと思えない。皆が可愛いと思うものが可愛いと思えない。そもそも、何かを見て感動したり、感情が大きく変化することなんて一度もない。綺麗や、可愛いを理解することはできる。けれどそれに対して感情的になったり興奮したり、ということがないだけなのだ。恋もよくわからないし、学校行事もいまいちやる意味がわからない。みんなが面白いよ!と進める本を読んだってどこが面白いかも理解できないし、音楽も絵画もすべて同じものに感じた。ただ起きて食べて勉強して、そんな毎日は当たり前で、友達と呼べるのかどうかもわからない知り合いに特に趣味はないとかいうと、そんなのつまんないじゃん!と言われた。


 私には足りないものが多いと、自覚はしているのだ。きっと神代空、という名前の通り私の中は、空っぽ、がらんどうで何も入っていないのかもしれない。いつだって心躍る、という瞬間は私には訪れない。しかし、生きていくうえで自分に足りないものが必要なのか、と聞かれれば私は即座にノー、と答えるだろう。両親はそんな私に何度も涙を流した。小さい頃から何かに熱中したり、何かに執着をすることもなく、手のかからない子だった。ぬいぐるみや玩具を与えても、特に反応もなく、母が嬉しくないの?と聞けば、母を気遣うように嬉しいよ、ありがとうと少し笑い、クリスマスに欲しいものは何かある?と父が聞けば、ないよ、みんなで一緒に入れればいいよ、と言うような正しく優等生な子だった。両親にも生活にも不満があったわけじゃない。ただ、夢中になれるものや欲がないだけだ。沢山習い事の体験にいかせてもらったけど、やりたいと思えることがなかった。この日常があればいいと本気でそう思っていた。両親が少しでも周りに誇れるように勉強をほんのちょっと頑張ったけれど。


 そんな私にお前の人生はつまらないからと神様が気まぐれに神罰を与えるかのように突然、その日常は崩れ落ちた。


「明日から父さんと母さんは海外出張で一年間いなくなるんだ。」

「え……?」


 神罰、だなんて言ったけれどそこまで酷いものではない。突然両親が死ぬとかそういう系では決してない。


「そこでだな、お前を俺の弟のとこに預けようと思うんだが。」

「弟さん……?それよりもなんでまた急に。」

「ほら、仕事柄な。突然仕事の依頼が来たもんだから。」


 感受性が皆無と言っても等しい私に比べ、父と母は芸術家だ。二人共プロのカメラマンというやつで、父は主に女優さんやモデルさんなど芸能関係、母は風景とか建物とか雑誌掲載用の写真を撮っている。父と母がどちらかが海外に長期滞在、ならわかるが、両方というのは珍しかった。


「一緒の仕事なの?」

「ええ、でも、危ないところだから貴方を連れて行きたくないの。」

「まぁ、いいけど。でも家で一人でも大丈夫だよ?」


 私がそういうと父が大丈夫じゃない!と声を張り上げた。曰く、女の子なんだから何かあったらどうするんだ!とのこと。何かあるような事態にすら私の場合陥らないと思うが、あまり父と母に迷惑をかけたくないため、大人しく従っておこうとと思った。更に真っ青になって、お前が心配なんだ……と言う父を見てこれは言うことを聞くしかないと決意した。


「お父さんの弟っていうのは私あったことある?」

「小さい頃に一回だけな。」

「へぇ。覚えてないや。」

「なにせ小さかったからな。」

「でも、面白い人だからきっと楽しいと思うわ!」

「高校は変えなくても大丈夫?」

「通える範囲ないだから、大丈夫よ。」

「まぁ、なんだ、少し不便な場所だが……。」


 高校を変えなくてもいい、ということは案外近い場所に住んでるのかもしれない。父の顔が曇ったのに少し不安を覚えたが、毎朝一緒に通う友達もいないし、帰りに道草するような友達もいない。私のモットーは広く浅くなのだ。これと言って困ることはないだろう。


「じゃあ、荷物を纏めてくるね。」

「お、おう……。」

「荷物は後々でも取りに来れるから、安心してね。」


 明日からいなくなる、ということは今日のうち、もしくは明日の朝には引っ越ししなくてはならないだろう。取り敢えず、学校のものと洋服何着かあればいい。一時間くらいで軽く纏めて、終わったよ。と声をかければじゃあ行くぞ!と父が私の荷物を持って車に運んだ。


「あのくらいの荷物、私だって運べるのに。」

「パパがやりたいのよ。やらせてあげて。」


 聞こえてるぞ!と無精髭の生えた顔を振り向かせ少し唇を尖らせた。母はふふふ、と朗らかに笑いながら玄関の鍵を占める。父はいつも豪快で、少しおじさんくさいところがある。がに股でドカドカ歩く。それに対して母は一つ一つの所作が綺麗だ。ぴんと伸ばされた背筋に、長くて綺麗な黒髪をさらさらと揺らしながら歩く後ろ姿が大好きだった。父がゴリラならば母は白鳥だった。なぜ私は、母にになかったのか。私の髪の毛は天然パーマだし、母と違って綺麗な顔立ちでもない。どちらかというと子供っぽいのだ。父にも母にもイマイチ性格も何もかも似ていない気がして、小さい頃は思わず本当にお父さんとお母さんの子なの?と聞いたくらいだ。

 父と母の出会いは美大のサークルらしいが、くっついた理由がいまいち理解できない。フィーリングがあったとか言っていたが、私は疑問符(はてな)を浮かべるばかりだ。仲も良く、いつも新婚のようにラブラブしているから、私にとってはそれが当たり前で、他の人の家の様子とかを聞くとうちは異常なのか、と自覚することが多い。友達の両親は常に喧嘩しているそうだし、他の子も父親がまた家出した、とか母親が実家に急に帰った、とかよくあることらしい。一方私の両親は会話が途切れることも笑顔がなくなることもない。私にとって家はいつも弾んでいるような気がした。それは二人の明るさのおかげだろう。私も学校よりはそれなりに話すし、笑顔も見せる。けれど両親はそれだけじゃ物足りないらしい。


「きっといい経験になるぞ!」

「少し大変かもしれないけど頑張ってね。」


 大変?と聞き返せば、生活力がない人だから……と母がため息をつく。家事はある程度できるから大丈夫だよ、心配しないで。と答えると母がそうね、と眉毛を下げて悲しげに笑った。なぜ、そんなに悲しそうな顔をするのだろう?寂しいのかなと思ってバッと腕を広げれば、まぁまぁと広角を緩やかにあげて抱きついてきた。


「ずるい!父さんもいれて!」

「母娘だけよねぇ?」

「ねぇー。」


 むぎゅむごゅされながら暫く車に乗っていると森の入り口についた。まるでアニメ映画のように木でできた天然のトンネルがあって、少し不気味さがあった。


「え、ここ?」

「そうなんだ……。」


 見上げても家らしきところはどこにもない。草木が生い茂っていて、目の前は人里を訪れたあと森の中に帰るイノシシのような気持ちになった。緑色の絵の具でベッタリと塗りたくったような草木の足元には春らしいたんぽぽが伺うようにこちらを見ている。

 道も獣道のようで人が1人やっと通れるくらいだ。こんなところに住むなんて不便じゃないのだろうか。車すら通れないではないか。少なくとも現代人には合わないだろう。


「とりあえず、行こうか。」


 父の言葉に従い、そのまま進む。葉っぱが腕を掠めるたび少し鳥肌がたった。ぐらつく足元に四苦八苦しながらも遅れまいと慌てて父の大きい後ろ姿を追いかける。後ろからついてくる呑気な母は仕事柄いろんなところに行っているからか、あら、木苺ね!とかこの草は食べられるわよ!と大興奮だ。きっと母はどこに行っても楽しく人生を謳歌するんだろうなぁ、と少し遠い目をしてしまった。

 暫く歩くとぱっと視界が開けた。葉の日傘がなくなり、思わず目を細める。まだ春だというのに今日の日差しはいつもより幾分か強く感じる。目が眩しさになれてきて、改めて前を見てみると、そこには少し古臭い家があった。やーいおまえんち!と言われそうな家である。日本らしい縁側などもあれば、海外の田舎の大きい家にあるような温室や、アトリエがある。慌てて海外の文化を取り入れ始めた明治時代の建物というような雰囲気だ。しかし、何よりも生活感がないように感じた。どこか西洋の絵画のような雰囲気があるのだ。この空間だけ、空気や時間がぴたりと止まってしまっているようだった。けれど、なぜか見たことがある気がした。もしかしたら小さい頃来たことがあるのかもしれない。この空気を、景色を、体が覚えている。そんな気がした。

 ざわついていた木々も私達がついた途端静かになった気がした。単に風がやんだだけだろうと思いつつも慣れない自然の静けさが私には恐ろしく感じた。


「おーい、悠一!」


 神代悠一(かみしろゆういち)。父の弟はそういう名前らしい。いくら父が呼びかけても返事がない。


「書いてるんじゃない?」


 書いてる?と聞けば、そういうお仕事だから、と答えられた。そういえば、その父の弟が何をしている人とか何も聞いてないなぁとぼーっと思う。

 父が家の玄関に近づき、ピンポンを鳴らす。だが、返事は一向になかった。留守なんじゃないの?と言ったらそんなことは絶対にないよ、と父が少し悲しげに笑う。私はしばらくして父のその表情の意味を知ることになる、とはこのとき思ってもいなかった。


「まぁ仕事中ならある意味ちょうどいい。お前に見せれるしな。」


 そういうと父はなぜか、家自体を見上げて、入ってもいいか?と聞いた。


 その時だった。


 すっ……と家の玄関が父の呼びかけに答えるかのように空いたのだ。あまりにも非現実的な光景に思わず目を擦る。扉はなんの変哲もない、少し古いスライド式のドアだ。決して自動ドアではない。誰も扉に触れていないというのにあいたのだ。風が吹いただとかその程度で片付けられるものではない。だが、驚いているのは私だけで父も母も普通に上がっていってしまった。待って……!とやっとのことで体を動かし追いかける。父と母は何故驚いていないのだろうか。普段からこういった不思議なことが起こると二人共煩いほど騒ぐというのに。感情に乏しい私ですら、石のように固まってしまうほど驚いたのだ。これは説明してもらうことが多そうだ、と思いつつも心の中ではまぁ住めればいいか、と感じていることに気づき、自分自身が矛盾していることに乾いた笑いが出た。


 不規則な木目を敷いた床を歩き、家の中でも一番最深部についた。そこだけ、重厚で高級そうな扉があって、この家には不釣り合いのように感じた。まるで、不思議の国のアリスの世界に迷い込んだようだ。正しく言えば不思議の国のアリスの日本版だろうか。これで兎でもいれば完璧なんだけど、とふと庭を見た。


「……え?」


しゅっと白いまん丸い何かが跳ねた気がして、目を擦る。次に目をあけたときにはもう白い何かは見えなくて、勘違いだろうと自己完結させた。兎なんか今の日本にいるわけがない。いたとしても真っ白はいないだろう。まぁ、いたら可愛い!と話題になるだろう。SNSに挙げられて、いいねがついて、ちょっとテレビに取り上げられて、終わり。たったそれだけだ。


「開けるぞー?」


 コンコン、とノックをしても返事がなく、しびれを切らした父がドアを開ける。その扉の向こうに見えた景色は非現実的すぎてしまい、私にはキャパオーバーなものだった。


 『花』はひらひらと回り

 『鳥』はぱたぱたと羽ばたき

 『風』はふわふわと揺れ

 『月』はゆらゆらと漂う


 ふんわりと漂うインクの香りがこれは現実だと私に言う。


 扉を開けた途端、見えたのは空中に浮かび、踊るように跳ねる、黒インクの文字。ぱっと見えた花鳥風月だけではなく、他の文字もよく見ればたくさんあった。一つ一つの文字が感情を持ったかのように動いている。文字同士で喋っているようにも見えるものや楽しげに、笑っているように見えるもの、一方でポタポタと涙を流しているような文字もある。


ーーあ、文字の涙は黒インクなんですね……。


 窓側に座る丸まった背中を、囲むように文字がぐるぐる、ぐるぐると回っていて、その光景に私の脳の中は電源を切られたかのように思考を停止している。


「仕事中悪いな、悠一。」


 突然声をかけられたことに驚いたのか、その人はビクッと丸まった背中を揺らした。父のがっしりした広い背中とは対象的に線が細くて頼りないように感じた。髪の毛も、ミルクをほんの少し入れたコーヒーのような色をしていて、緩くパーマがかかっている。


「兄さん。」


 振り返って、彼はふわりと翡翠色の目を細めた。その目の色より濃い抹茶色の着物と丸眼鏡がよくにあっている。書いていた万年筆の蓋とつけると文字たちもぽふん、と軽く音を立てて消えてしまった。


「悪いな、急に。」

「気にしないでいい。むしろいい刺激になりそうだよ。現役女子高生と暮らせるなんて!」


 好奇心旺盛な子供のように笑う彼。思わず私は率直な疑問を口に出してしまった。


「この人は、変態なの?」


 一瞬、彼はぽかん、としたあと、あはははは!と耳に心地よいテノールの声で笑った。そして、少しニヒルに口角をあげた。


「ある意味、変態かもね。」

「……それに幸薄そう。」

「ふふふ、面白い子だね、兄さん!」

「そうだろ?」

「馬鹿にされてるのかな、私。」


 少し反抗的に言葉を返せば、さらに大笑いされてしまった。ひとしきり笑うと、改めて自己紹介しようか、と彼が座り直した。


「僕は、神代悠一。職業は小説家だよ。年齢は36歳。この不思議な家と不思議な万年筆に見初められて、少し変わったこともしているけどね。それについてはあとでゆっくり話そう。生活については心配しなくていい。お金はあるからね。掃除はしきれてないところもあるけどここじゃあ早々汚くならないし。あぁ、この家のこともきちんと説明するよ。あと何か聞きたいことはあるかい?」

「いえ、特には。暮らせればそれで。」

「へぇ、あんまり欲がないんだね。それに初めてここに来た人は腰が抜けるほど驚くものだよ?」

「ここに来てからそれなりにいろいろ驚きましたけどね……。」

「ははは、流石だね。そうだ、君も自己紹介してほしいな。」

「あ、えーっと、神代空です。高校ニ年生です。」

「それだけかい?」

「特出していうべきことがないなあと……。」

「ふむ……。」


 無精髭を生やしたままにし、髪も対して整えず、万年筆を持ち、どっかりと椅子に座り考え込む姿は確かにくたびれた小説家に見えた。


「さて、父さんたちはそろそろ行くよ。」

「お茶でもだそうかと思ったのに。」

「いやいや、いいよ。もう飛行機の時間だ。」

「空、迷惑かけないように……というより迷惑かけられないように、かしら?」

「茜さん……、ひどいですよ!」

「ふふふ、それじゃあね。」


 気をつけていってらっしゃいと、玄関まで見送る。元々仕事が忙しい両親のことだ。二人共夜遅くまで別々の仕事で帰ってこないなんてことは日常茶飯事だし、二人が揃って家にいることすら一年で数えるほどしかない。だから、そんなに寂しさや心細さは感じなかった。それに、家も徒歩でいける距離だし、取りに行きたいものもすぐに取りに行ける。



「何から知りたい?」


 両親の後ろ姿が獣道に消えていくと、彼が振り返る。


「まずは、私が使っていい部屋に荷物を置きに行きたいです。」

「あ!それもそうだね。さ、行こう。」


 先程の不思議な光景を見た部屋よりも手前側の扉の前で、彼が立ち止まる。扉は新築のような真新しい扉だった。この家はどこもかしこもあべこべだ。古い障子で仕切られた部屋もあれば、今目の前にある、現代的な普通の扉のところ、更には西洋のお城にありそうな重厚で重そうな扉もある。時代も、コンセプトもすべてがごちゃまぜになったような家。そう感じた。設計した人は何を考えたのか。これもアートだ、的なものなのだろうか。


「じゃあ、開けるよ。」


 彼が扉を開けた先には、窓から光がたくさん入る構造になった、シンプルな部屋があった。家具はどれも木材が緩く削られたものになっていて、ぬくもりの感じられるものになっている。ベッドも枕もふかふかで、明らかに新品なものだった。家具はアンティークっぽくもあったが、綺麗に掃除されていて、不自然なほどホコリがなかった。


「もしかして、すっごく掃除してくれたんですか?」

「僕はやってないよ?」

「じゃあ誰が……。」

「この家だよ。」

「え?」

「だから、この家。」

「おばけかなんかいるんですか……?」


 この家が、この家具を用意し、部屋を綺麗にしたというのか。まぁ確かにさっき誰も触れてないのに扉は空いたりしたが……。

 この家にはおばけが住んでいるとか、そういう……?でもおばけって部屋をまるごと変えられるほど強い力を持ってるの……?本当にそんな力をもってるならラップ音とかでビビらせてないで、普通に包丁投げればいいと思うよ、私。


「あはは、おばけかぁ。まぁでも似たようなものか……いでっ!?」


 次はどこからともなくビー玉が彼の頭目掛けて飛んできた。いや、危な。本当にやばたにえん……?


「ごめんって、おばけじゃないね、付喪神だもんね。」

「付喪神……?」


 付喪神、それは何度かオカルト好きな友達から聞いたことのある言葉だった。長い年月、大切にされた物たちには命が宿る。そんなものだったか。


「この家はね、ずーっと繰り返し繰り返し大切に大切に扱われて、魂が宿ったものなんだ。」


 ね、と、彼が振り返るとそこにはビー玉が複数浮いていて、^_^と表情を作ったのだ。家も感情があるんですね……。


「流石の君でも驚いたか。それにね、この家も君が来るのを喜んでいたんだよ。」

「え?」

「なんてったって、この家がこうやって表情を作っているビー玉は君があげたものだからね。」

「じゃあ私、この家に来たことあるんですか??」

「本当に小さい頃に一度だけ。そのときはこの家の付喪神本体が見えていたみたいでね。君が突然空中にビー玉を差し出したらビー玉が浮いて表情を現すようになったんだ。」

「信じられない……。」


 私が覚えてないことを察したのか>∆<という顔になる家。付喪神、ということは神様なのだろうか。今後家でだらだらするところを神様に見られ続けると思うと少し憂鬱な気分になった。


「この家はね、持ち主によって、部屋を変えたりしてくれるんだ。たまに季節のイベントごとにいたずらされることもあるけど、模様替えも自分でしなくていいし、楽しいよ。洋服もたまに出してくれる。」

「そうなんですか……。じゃあさっきの文字が浮かんでいたのも……?」

「いんや、あれは万年筆の力だよ。」

「まさか、万年筆も……。」

「そう、付喪神が宿っているのさ。失われた文字を取り戻すことができるんだ。」

「文字を取り戻す……。」


 僕の部屋で説明しよう。そう言うと彼はスタスタと部屋を出ていった。









 じゃあさっきの続きをしようか。


 そう言って座り直すと長く伸びた前髪をかきあげて、レトロモダンな机の上にある、茜色に金の装飾がされた本を開いた。その本の中はところどころ読めなくなっている。……というのも、文字や行が抜けてしまっているのだ。シックな万年筆を手にとって、キャップをぽん、と開ける。


 ふわり、と空気が変わった。何もなかったその場が何かに包まれたのだ。サラサラとした水が、滑らかなミルクに変わったようだ。そして、それと同時に漂うインクの香り。



「この本はね、明治の暖かい愛の話を描いた物語なんだ。」


 文字達がまた、浮かび上がる。


「とある病弱な少女とね、ひとりぼっちだった軍人の話。」


 浮かび上がった文字たちは渦を巻くようにくるくると部屋を回る。


「最期は少し哀しいけれど、優しい話なんだ。」


 笑、という字がペコリ、とこちらにお辞儀して口角を上げるように文字を歪ませた。


「僕はね、どんな本もこの先、残していくべきだと思うんだ。」


 ぐるぐると部屋を回ったあと、文字たちは本に吸収されていく。


「もしかしたら、この本は有名な文豪が書いた本かもしれない。」


 この不思議な感覚に私はいつの間にか身動きが取れなくなってしまった。


「もしかしたら、全然無名な、それどころか、一般人の日記かもしれない。」


 数々の浮いていた文字たちも本に吸収され、どんどん少なくなっていく。


「それでも、本がある、ということはその人が生きた証なんだ。」


 最後の一文字、終、という字が本の上で彼に恭しくお辞儀をし、本の中に入る。


「だからね、僕は、世界中で失われつつある本を守りたいんだ。その人が、生きた証を、誰かがもう一度思い出せるようにね。」




 パタリ、と本を閉じ、キャップをはめる。すっかりインクの匂いは消えてしまった。ボーッと眺めていた私に彼はくるり、と振り返った。はっと、現実に引き戻される。彼の後ろから斜陽が部屋に射し込む。さっきまでお昼を過ぎたあたりだったのに、外はすっかりオレンジだ。逆光で彼の表情は影になってしまい、よくわからない。笑っているようにも見えるし、悲しそうな顔をしているようにも見える。


「ねぇ、どう思った?」

「どうって……?」


 やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。


「さっきまで文字が浮いたりしていて、驚いた?」

「そりゃあ、驚きましたけど……。」

「他には?何か、感じたこと。」

「インクの匂いと、あと、空気が少し柔らかかったって感じました。」

「それを見てどう思った?」

「特に、何も。ただただ信じられないっていうだけですね。」


 やっぱりそうか……。と彼が顎に手を当てて深く考え込む。


「さっきこの部屋で起きていたことが見える人間は本来であればそうそういないんだ。だけど君には見える。今、僕が知ってる中でこの現象が見えるのは、兄さんと茜さん、あとは知人の数人だ。」

「遺伝的なものなんですか?」

「まぁ、それもあるだろうけど……、大体は感受性がずば抜けて高い人が多いね。」

「私、そんなに感受性高くないと思うんですが。」

「そうだね。僕も君に関してはそう思うよ。」 


 先程の本を大切そうにしまう。その慈しむような表情はどこか人間離れしたものに感じた。


 

「君はまだ高校生だから、友達が楽しそうにしているのをよく見るだろう?他にも人がなにかに熱中したり、命をかけて何かを成し遂げようとする姿をニュースとかで見たことがあるんじゃないかな?」


 彼は一瞬無表情になって、私を見つめる。突然、翡翠色の目に射られて、どくり、と心臓がなった。


「……でも、きっと君はそれがどこか遠いものに感じているんじゃないか?」


 その言葉が驚くほどすっと自分の中に入ってきた。


「感情を理解できてもそれに心が従うことができない。心が常にぽっかり空いていて、生きている感覚がない。友達の様子やましてや家族の楽しげな声でさえ、仕切りがあるように思える。自分には何かが足りなくて欠落品で、でも、それが大切なものなのかわからない。違うかい?」


 ずっとそう思ってきた。けれど、それをこんなにも真っ直ぐ、言われたのは初めてだった。


「なん……で、わかるんですか。」

「僕も同じだったからね。」

「同じ……?」

「毎日毎日、つまらなくて生きた心地がしなかったよ。なんで生きてるんだろう、自分が死んだって何も変わりはしないのにってね。自然の色も空も、何もかも絵の具をただ塗りたくったように感じていたし、常に自分の前で起こる出来事は額縁の中にあるような気がしていた。」


 同じだ、と思った。日々自分が今いなくなってもこの世界には1ミリたりとも影響を与えないんじゃないかって思っている。


「でもね、僕がこうして今も生きているのは、大切なものがなにか、そして守りたいものはなにか、わかったからだ。かつての師やこの家や万年筆はそれを僕に教えてくれたんだ。」


 懐かしむように目を細めて家の壁を撫でる。そして、じっと芯のある目で私を見つめた。


「僕は、君に教えたいんだ。この世界は決してつまらなくなんかないって。少しでも君が道に迷わないようにね。」


 なんで彼がそこまでして私に教えてくれようとしたのか、このときはよくわからなかった。でも、少しでも普通の人と同じように楽しく過ごせるなら、ここに住む意味はあるのだろうと思った。


「君は今迷子なんだよ。この世界や心に振り回されて、途方に暮れてる。誰かが、一つ一つ教えてあげなくちゃいけない。僕が君の道標になろう。ここから、この家から君の物語は始まるんだ。」


 なーんてちょっとクサかったかな。そう言って笑う彼。見た目は地味で小汚くてもさもさしているのに、すごくかっこよく見えた。彼の言葉には本当に私の人生が変わる気がする不思議な魔力があった。


「さぁ、まずはご飯だ!」


 意気揚々と部屋から出ていく。立ち止まっているとほら、いくよ、と手を差し伸べられた。手にインクがついてるのに気がついてあ、ごめん、と服で拭こうとしていたから、服が汚れますよ。といって、彼に追いつく。


 少しだけここでの生活が楽しみだ。不思議な家に不思議な人。何もない空っぽな私も足りないピースを見つけられる気がした。






「こ、これは……。」


 キッチンに積まれた大量のダンボール箱。その箱には見覚えのある牛。


「これは、って?そりゃもちろんパ○シス○厶だよ!」


 まさかの食材は宅配だった。しかも中に入っているのはレンジでチンするだけとか、混ぜるだけとかのものである。


「食費やばそう……。」

「お金はあるから安心していいよ?」


 そう言いながら、温め作業に入る彼。レンジの中でくるくる回る器を見ていて違和感を感じた。


「ちょ、ちょっと待って!それ蓋開けないと爆発するやつ!」


 え?という声とともにボンッ!!とレンジの中で爆発する音がした。



「……申し訳ないんだけど、片付けるの手伝ってもらえるかい……?」

「今までどうやって生活してきたんですか……。」


 これからの生活が心底心配だ。





「うん、美味しいね。」

「はい……、温めただけですけどね。」


 四苦八苦してようやくできた夕食は、見た目はグチャっとしてるところもあったがなんとかでき、味も美味しい。


「そういえば洗濯とかってどうしてますか?」

「あぁ、洗濯機あるよ。でもまぁ、僕は基本着物とかジャージだし、外に出ないから下着をタオルと一緒に洗うくらいかなぁ。」

「ほんとに生活力なさそうですね……。」

「この家はいろいろと便利だからねぇ……、僕はこの家以外に住める気がしないよ。」


 ははは、と笑っているが正直笑っている場合ではない。私がやらなくては……と冷や汗が背筋を伝う。


「あ、そうだ空ちゃん。僕に対して敬語じゃなくてもいいんだよ?」

「いや、でも、叔父さんですし……。」

「おじさん……そうだよね……おじさん……。」

「自分で繰り返して自分で傷つかないでください。」

「せ、せめておじさんっていう呼び方やめない?」

「じゃあ、先生?」

「先生!?なんで??」

「小説家だから?それに自分で自分のこと私の師になりたいとか言ったじゃないですか。」

「そうなんだけどね……JKにそう呼ばれるのはちょっと犯罪チックだなぁ。」

「もう、注文が多いですよ!先生がなんかしっくりくるんで先生にしまーす。先生の努力次第でゆう兄♡とかしてあげますよ。」

「えー!照れくさいなぁ。よぉし、頑張るぞぉ!」


 おじさんと呼ばれるのが嫌だなんて案外かわいいところがあるんだなぁなんて思う。先生と呼ばれることがむず痒いのか、少し恥ずかしそうだけど、見た目や発言から先生っぽいところを感じたので私の中ではもうすっかりと定着してしまったから、先生が慣れるまでそう呼び続けてやろうとこっそり笑う。


「じゃあ君の先生らしく、しっかりするよ!」

「まずはレンジ爆発させないようにしましょう。」

「うぐっ。」


 36歳のくせに子供っぽくて、頼りないのに、仕事や本に対する姿勢はまっすぐでかっこいい。そんな先生との不思議な生活が始まった。

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