後日談:髪を切る話
寒空の下、防波堤に沿って歩いていく。その向こうに広がる海は相変わらず光を飲みこんでしまいそうな色をしていたけれど、今日は月明かりがないせいか、一層不気味さが増して見えた。瞬く星も、いつもより心許ない気がする。……いや、なんでもないときに見る海というのは、案外こういうものなのかもしれない。現に、実物を目の前にしても、記憶の中の景色は鮮やかなままだ。
右ポケットのスマホが微かに振動する。こっちに連絡を寄越してくる人間なんて、一人しかいない。画面を確認して、指紋認証でロックを解除する。表示された通知が示すのは、予想通り彼女からのものだった。
《こんばんは。おすすめしてもらった『注文の多い料理店』、面白かったです。昔の人は、同じ年でこんなのを読んでたんだね》
いつからか、たびたび彼女からチャットが送られてくるようになった。特に目的もなく、他愛のない会話をするだけではあるけれど、不思議と煩わしさは感じない。
《年度によって収録されている学年は違うみたいだけどね。それにしても、相変わらずよくやるね》
《危ないことはしてないから、大丈夫だよ》
《まあ、そうだろうね》
匿名回線を使っていても、監視を気にすることに越したことはない。都会出身の優等生なのに、彼女は悪いとされることに関する知識も人並み以上にあるように感じる。少なくとも、数ヶ月前まで海に行くのにびびっていた少女と同一人物とはにわかに信じがたい。何も変わっていないように見えたけれど、そういう意味では既に取り返しのつかない変化をしてしまっているのかもしれない、と思った。あるいは、彼女がそれだけ箱庭の外を知る努力をしているのかもしれない。
《あ、そうだ。話が変わるんだけど》
日浦さんが話題を転換させる。一つの話題を引き伸ばそうとする彼女にしては珍しい。立ち止まって一言、うん、とだけ送る。
《髪を切りたいなって、思ってるんだ》
全く予想していなかった方角への転換に、思わず画面を凝視する。本当になんでもないようなことだけれど、そういうことを聞く機会が全くなかったせいか、髪を切るという言葉を理解するのにずいぶん時間がかかってしまった。
これは、どう答えるべきなのだろう。何かを返した方がいい、ということはわかるけれど、肝心の返す言葉が全く思い浮かばない。
《お洋服のこととか、あまり人にしゃべったりしないんだけど……。なんとなく、君に言いたくなったの》
どうやら、彼女は僕に何かを言ってほしいわけではないらしい。意味もなく汗ばんだ手をズボンで拭いて、打っては消してを繰り返していた本文欄に当たり障りのない返信を打ち込んだ。
《へえ。長さは?》
《まだちゃんとは決めていないけれど、肩くらいまでは切ろうかなって》
《結構ばっさりいくね》
胸のあたりまで伸びていた、気がする。彼女の姿をちゃんと捉えたのなんかあの一件くらいしかないから、確信は全く持てないけれど。
《いいんじゃないかな。短いのも似合うと思う》
イメージしてみたら、自然とそんな言葉が出た。
《ありがとう。古屋くんも、初めて会ったときよりだいぶ伸びたよね》
急に気になり出して、インカメに切り替えて自分の姿を見てみる。何も手入れをしていない髪が、いつの間にか肩に触れかかるくらいになっていた。あれから何も変わったことはないと思っていたけれど、意思が関係ないところでは僕も変われているようだ。
*
あの日以来、彼女と直接話したことは一度もない。もちろん特に話したいことがあるわけでもないし、話さないと困ることなんて何もない。ただ、あの日自分の後悔と決着をつけたはずの彼女が、相変わらず俯きがちで息苦しそうなのが、少し気にかかるだけだ。多分。
――――死体を、捨てに行きたいの。
そう告げた日の彼女の目は、本懐を遂げてもなお僕に鮮烈な色を残している。
「えっと、うん。大丈夫、ありがとう」
誰もいない教室からは律儀に頭を下げる彼女の姿がよく見えた。再び貧乏くじを引いたのか、静まり返った廊下の床を一人で掃き続けている。もう一人は誰だったか、と僕が思い出すよりも先に、ロボットが名簿から名前を見つける。
《また村上さんですか。減点ですね》
「あっ、あのっ、待って。村上さん、今日は病欠だから、当番は無理。だから、減点対象じゃない……と思う」
彼女の声に反応して、ロボットの胸のライトが青く光った。どうやら納得したらしい。彼女は胸を撫で下ろしてロボットの手を握る。
「ありがとう。……でも、やっぱり前ほどの精度はない、かな。お父さんに報告しないと」
呟くように言った彼女はきっと父親に連絡するのだろう。箒を掃く手が止まり、彼女が眼鏡のつるに触れる。彼女曰く、「メッセージアプリを開く」ためのアクションらしい。ロボットの手を握る意味は教わっていないので分からないままだけれど。
僕は相変わらずARの恩恵を受けられずにいる。けれど、先週から試験的に導入されたあのヘルスケアロボットは、どういうわけか僕の存在をちゃんと認識していた。仕組みはともかく、理由は彼女がデバッグを務めている時点でなんとなく合点はいく。
大きな溜息を一つ吐いた。二人で掃除をするのはあの貧乏くじ以来だ。
「あっ、古屋くん。えっと、お久しぶり……?」
教室を出た僕に気づいたらしい彼女が、戸惑いがちに小さく手を振った。その手が合図だったのか、ロボットの顔がこちらを向く。
《古屋さん、自主的なお手伝いは加点対象です。素晴らしい行いですね》
「えっ、あ!」
ロボットの指摘でようやく目的に気づいたらしい彼女が、慌てて頭を下げる。
「ありがとう」
「別に、暇だったから」
彼女の側に放置されたちりとりを構えると、挙動を捉えたらしいロボットの胸のライトが白く点滅した。どうやら無事に加点処理とやらが行われたようだ。現時点で僕の『人格・道徳』への加点ができるのはこの一体だけなので、正直、中途半端に加点されない方が境遇に対する理解を得やすいような気がしなくはないけれど。
ごみを掃く彼女を盗み見る。さっきまで気に留めていなかったのに、近くにくると短くなった髪が目についた。
「髪、本当に切ったんだね」
「あっ、うん」
短く切り揃えられた髪は、イメージとは少し違ったものの、彼女によく似合っていた。野暮ったさがなくなって、心なしか明るくなったように見える。
「切ってから何か変わった?」
指先に髪を絡めるくせは健在なようだ。彼女は思考を辿るように、上を見上げながらぽつぽつと答える。
「シャンプーとか、乾かすのが楽になったかな。でも、寝癖はつきやすくなったかも。やっぱり、やってみないと分からないことって結構あるね」
そっか、とだけ返して、ちりとりの背で軽く床を叩く。どうやら少し加減を間違えてしまったようで、足元で少しだけ土埃が舞った。彼女がそれを丁寧に掃着直しながら、「勇気を出してよかった、んだと思う」と小さくこぼした。
「勇気?」
「うん。変わりたい、と思ったんだ。でも、うまくいかなくて。形だけでも変えてみたら変われるんじゃないかって、思ったんだ」
「へえ」
変わりたい、という言葉を頭の中で反芻する。
彼女の一世一代の決意に触れて心が動いたことは嘘ではない、はずだ。そうじゃなかったら
けれど、そもそも人がそう簡単に変われるのなら、過ちを繰り返すはずがない。それでも、彼女は変わって、前に進もうとしているのだろう。
「僕も、そろそろ切りに行こうかな」
気づいたときに抱いた感情はとても懐かしくて、少しだけ鼻の奥がつんとした。
001.青に溶ける【投稿版】 青井 新 @Tsumugi_Hukaya
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