決行
目覚まし時計がじりりと音を立てた。スイッチを叩いて、軽く夕飯を済ませてから家を出た。時刻は午後八時十分。彼女との待ち合わせのちょうど二十分前だった。
「お待たせ」
少し大きめのリュックを背負って、制服のまま校門の前に立つ彼女に声をかける。視線を空からこちらに移して、彼女は、まだ待ち合わせの時間じゃないよ、とふわりと笑った。
「十分前に来れば大丈夫かなって思ってたのに」
「家にいたら、何だか落ち着かなくて」
そう言いながら、彼女はリュックの紐を肩にかけ直す。持とうか、と一声かけてみたが、彼女は黙って頭を振った。
何となく気まずい空気になったような気がして、僕は一つ咳払いをする。
「それじゃあ、行こうか」
*
秋風はやっぱり少し肌寒くて、僕も制服のまま来ればよかったなんて後悔しながらまばらな街灯の灯りを頼りに昨日とは違う道を歩く。
「古屋君は、なんで海に入ったの?」
彼女の小さな声は、闇に吸い込まれそうになりながらも僕の耳に届いた。少し迷ってから昔のことをかいつまんで話すことにした。微かに残る両親から愛してもらっていた時の記憶。数える程しかない思い出話。父さんの死と体質の発覚、そして母さんの失踪。
「母さんと言い合いになって家を飛び出した時に、死んでやろうと思って海まで走ったんだ」
吐き気と目眩をもたらすグラスをかなぐり捨てて乗り越えた防波堤。視界いっぱいに広がる白と黒。漆黒の真ん中に浮かぶ月。空を見上げれば満天の星空が広がっていた。
「あまりに綺麗だったから、何もかも忘れて裸足で家に駆け戻ったよ」
(まあ、家に帰ったら母さんはいなくなっていたんだけど)
目を細めてあの日の光景に思いを馳せる。記憶の中の海はいつまでも美しかった。
「素敵だね」
口を挟むことなく最後まで聞いてくれた彼女の声はとても優しかった。穏やかな笑顔を浮かべているのだと、顔を見なくても分かるくらい柔らかくて、心に染み入るような暖かさがある。
何故だか、無性に泣きたくなった。
防波堤の周りに人がいないことを確認して立ち止まる。
「ここから入ろう」
彼女は視線を上下に動かしてから眼鏡をケースに入れる。位置や彼女のグラスの識別情報は全て僕の部屋に設定済だ。僕は先に防波堤に登って手を差し出す。彼女は大げさなくらい肩を跳ねさせて、伸ばした僕の腕を凝視した。
「大丈夫、一歩踏み出すだけだ」
安心させるような声色を意識して言えば、彼女は何度か手を出しては引っ込め、しばらくしてから、恐る恐ると言った様子で、僕の手を掴んだ。
凪いだ水面には満月が映っていた。目の前の海は記憶と同じように青というより全てを呑み込みそうな色をしている。けれどその真上にはいくつもの星が瞬いていた。視界いっぱいに広がる、宇宙の一部を丁寧に切り取ったみたいな、目を見張るほどの美しいインディゴブルー。
「きれい」
感嘆の声を漏らす彼女の瞳は、好奇心とは少し違った輝きを湛えている。
「今まで見た中で、何よりも、一番」
彼女はリュックから大切そうにカプセルを取り出した。聞いていた通りの赤ん坊くらいのサイズだけど見た目ほど重くはないらしい。彼女は片手でそれを抱えながら靴下を脱いだ。
海に足をつけて彼女が呟く。
――ごめんね。それから、ありがとう。
小学生の時に作った有機プラスチック製のロボット。初めてのともだちだったのだと彼女は自嘲気味に笑う。
「昔から引っ越しが多くて、なかなか友だちができなかった時に、お父さんが自由研究用の製作キットをくれて。それで作ったのがこの子なの」
だけど、学校で人ともめちゃった時にこの子に当たっちゃって。古い型だったからパーツももう売ってなくて、色々勉強して頑張って修理したんだけど直せなくて。
「ひどいよね、本当に。なんて自分勝手なんだろう」
なんて返せばいいのかわからなくて、僕は歪んだ月を見つめていた。彼女の友人が安らかに眠れたらいいなと心から思った。
彼女は砂をかき分け、静かにそこにカプセルを沈める。
「さようなら」
――生まれ変わったら、どうか幸せに。
黙祷を捧げてから立ち上がった彼女は、とても晴れやかな顔をしているように見えた。
🌠
「そういえば、どうして海に連れて行ってくれたの?」
――大切な場所なんでしょ?
星空を見上げたまま砂浜に座り込む問う彼女の顔を一瞥して、僕も空を見る。世界を包み込む青色は、記憶にあるよりもずっと優しいもののように思えた。
昔の人は、途方も無く広い青を『母なる海』と呼ぶことがあったらしい。何処かの国の言葉の響きが似ているからとか、母胎で聞こえる音と同じだからだとか理由は諸説あるけれど、世界を満たす水を、人々は愛していたらしい。だけど、それを知ったのは、彼女と海へ出かけたしばらく後の話だ。あの時は思いつきで言っただけで、特に何か意図があったわけではない。
だから僕は、へらりと笑って答えた。
「素性を知らない人間に、突飛な話を持ちかけてきた君が面白かったから?」
彼女は僕の方を見て、一瞬呆けたような顔をして、思いっきり笑った。
「なにそれ!」
「君は? ……君が望む答えは、ちゃんと見つかった?」
尋ねれば、彼女はいたずらが成功した子どものように笑う。その姿が純粋に、とても綺麗だと思った。
「内緒」
囁くような声に僕の心がさわりと波立つ。血が身体中を駆け巡って目の奥が熱くなった。
(間違いなく、僕は今生きている)
久しぶりに生を自覚して、僕は海に視線を落として表情を緩めた。
「君とここに来れてよかった」
発した言葉はすぐに波に飲まれてしまったけれど、彼女にはちゃんと届いたらしい。
「わたしも。……また、今度は大人になったら来ようね」
日浦さんは、弾んだ声で応えた。
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