第七章ー3:遥媛公主の羽衣

 准麗は長い髪を片手でかきあげ、溶けている氷の柩を見つめた後、静かに双眸を瞬かせた。この世のものの持たない瞑の輝きに光蘭帝が息を呑む。


「…嘘だ…そなたは…ずっと一緒に育った乳兄弟だ……その瞳は…」

 これですか?と准麗が片目を擦って見せる。


「ええ。僕は東后妃と共に、遥媛公主さまの手で死んでいるのです。この身を永らえさせたのは、これです。貴方には見えるでしょう」


 ―――――遥媛公主の羽衣。


 白い雪の靄のような陽炎。それは准麗の全身から立ち昇っていた。


「東后妃さまはお優しい方でした。その東后妃さまが誰より貴方の幸せを案じられるのは、母として当然でしょう。我が子を一番幸せな場所へと願って、死んだ…。僕はその願いを叶えたい、遥媛公主は天帝に貴方を献上したい…その利害一致の元、僕は生きてきた」


 腰に下げていた大剣を抜くと、准麗はまっすぐに腕を伸ばし、その切っ先を光蘭帝に向けた。光蘭帝も自分の剣を抜くが、あまりの事で、指先が震えて落してしまう。


「何故に剣が振るえない」


「言ったでしょう?あなたは心がなっていないと。だから明琳の饅頭ごときで揺らぐのですよ。さて、光蘭帝。天人になるため、遥媛公主の種を受け取って下さいますね?」


 遥媛公主はそのやり取りを火のような朱い瞳で睨んでいる。手の中には一つの血溜まりのような水晶が既にある。天帝の資格の証である「種」を持てる華仙人は僅か。その中でも、女の仙人は自分だけだ。



 頂点が近づいてきた。



 光蘭帝はその唇をきゅっと閉じた。後で声を出さずに唇だけを動かす。


『い や だ』


 足を延ばして、転がった剣を蹴飛ばして近寄せる。大理石のような床に剣擦音が響き、残響となって消えてゆく。その剣を構え、まっすぐに相手を睨んだ。



「いくら母の願いとて、母の為とて、明琳を利用はさせない、武大師准麗」 


「そういえば、僕に武闘で勝った事はありませんでしたね……っ」


 剣を握りしめた准麗は大股を開き、梃子のように腕を大きく振った。一振りは光蘭帝は身を反らして避けた。落ちた剣を掴み取って、刃渡りのある大剣と交叉させた。准麗は突きの姿勢になり、獅子のように突っ込んでくる。


「うあっ……」


 瞬く合間もなく血が噴き出す。

 武道の腕が違い過ぎた。だが、この男を残したら…きっと明琳は殺されてしまう。光蘭帝は再び剣を握った。


 守らなければ。これ以上、皇族として、彼女を苦しめる事は出来ない。


「次は喉を狙いますよ。……この後に及んで嫌だとは子供の諫言か」


「子供でも、馬鹿な男でも、好きに詰ればいい。私は馬鹿だ。気づかなかった。人が人を愛することすら、おまえたちは遊戯だと言うのだな。愛し合うことすら計算し、欲望のままに行動する!そんなのが神だと言うか」


「遊戯でしょう! 所詮人は人を裏切るんだ! そして嘲笑う。僕の両親もそう。貴方の父も、僕が信じるのは東后妃さまと、遥媛公主さまのみです!」


 言いながら、准麗の剣が大振りに動き、光蘭帝の剣を高く弾き飛ばした。はあ・・・と光蘭帝が床に倒されて荒い呼吸を繰り返している。その上に跨がって、片腕で首を締め上げながら、准麗は切っ先を光蘭帝の頸動脈に滑らせた。光蘭帝の瞳が両方見開かれ、ただ、裏切り者を映している。


 ―――――准麗、おまえは何故。


「勝負ありですね。……さあ、首を切られたくなくば…」

「呆れる程の忠犬ぶりだな」


 その声が聞こえると同時に、突然准麗が前のめりになった。


「准麗!」


 起き上がり、慌てて受け止めた光蘭帝の腕の中に鮮血が飛び散る。「あ…」と准麗が自分の貫かれた胸を見る。

 それはいくつもの氷の刃だった。蝶華の氷の柩を燃やす遥媛の炎に当たると消えた。


「白龍公主……なぜ……」光蘭帝が振り仰ぐ。その側には明琳が立ち尽くしている。愛おしさに、後悔と叱責の念が沸き起こるを止めることは出来なかった。


 ――明琳。

 明琳の名前を呼ぶより早く、准麗が吐血を繰り返す。


「ごふっ…」

「准麗!」

「准麗さま!」


 光蘭帝と明琳が同時に駆け寄るが、准麗は膝をついて、光蘭帝の胸元で再度鮮血色の血しぶきを上げた。

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