第五章最終話:小さな温石


 蝶華が消えてより、半月。未だに光蘭帝は悪夢に苛まれている。遥媛公主が傍にいても、明琳がいても、時には蝶華の名前を口にし、錯乱さえ見せ始めた。


 光蘭帝さまは人と華仙の境で戦っているのだ。


(お願い、蝶華さま。光蘭帝さまをこれ以上苦しめないで!)


 何より蝶華の亡骸が忽然と消え失せた事は、後宮の怪異とされた。亡骸無しには弔いすら出来ない。


 光蘭帝は明琳の饅頭を口にし、僅かな平穏を取り返す。だが、夜になると、寝ないにも関わらず、蝶華の幻影を見ては怯えるのだ。

 怯えた皇帝の代わりとばかりに、准麗は明琳に話を持ちかけた。


「どうして蝶華は死んだのか……このままでは彼女も浮かばれないだろうから、何とか解明してやりたいんだ。殺したのは白龍公主だと思う」


 明琳は蝶華のために、准麗と共に行動することが多くなった。光蘭帝は遥媛公主と居る事が増えた。白龍公主は姿を見せない。それが不気味だったが、明琳には准麗が言う、白龍公主が殺したとはどうしても思えない。思いたくなかった。


「では皇帝?」

「それはもっとありえません!」 


「やれやれ。いつもであれば、陽の元に引きずり出し、武道の指導がてら、心を鍛えるのだが、さすがの僕もこの状態で剣は振るえぬよ」


 明琳はぼんやりと、皇帝と准麗が対決したことを思い出した。もはや遥か遠い昔の如く。幽玄の立場で、蝶華とは喧嘩ばかりで。


 ――さみしいよ、蝶華さま。


「今は、武大師の出番ではないな。貴妃のきみの出番だろう。心を込めて、お慰め遊ばすんだよ?……蝶華の代わりに、この後宮を支えるのは貴妃のきみだけだ」


 話が大きくなってきた。


「わたしが、後宮を支えるですか…遥媛公主さまとか…」


「あの方は淑妃。当に後宮の勢力図からは降りている。後宮にはまだまだ不穏な女がたくさんいる。先帝の妹の宮、徳妃、賢妃もそうだし…いつ毒殺されてもおかしくない魔の巣だ」


 ひいいいい。と身を縮めた貴妃に後ろから声が届いた。


「あまり私の貴妃を怖がらせるものではないよ、大師」

「光蘭帝さま! お体は」


「遥媛公主に魔を祓って貰ったから……少し、歩きたい。明琳、付き合ってくれぬか?」


「もちろんです!」


 頷いて、二人で久しぶりに外を並んで歩いた。だがいつもの台詞が出た。


「准麗と随分一緒にいるな」


 いい加減慣れたが、光蘭帝は嫉妬が始まると長い。明琳は肩を竦めた。


「蝶華さまの事を一緒に調べていただけです。でも、准麗さまは、今はわたしは貴妃の役目を果たすべき、と言っておられましたが」


「明琳。あまり准麗に近づくな」


 意外な答えに、明琳は目を丸くする。その前で、光蘭帝は金の髪を揺らした。


「准麗さまを疑ってるんですか?」

「そうだ」

「どうして……准麗さまは光蘭帝さまを大切に思われてます!」

「それ以上に大切なものがあれば、人は簡単に裏切る。だからこの世界は嫌なんだよ」


 喋りを尊大から不遜に変えた光蘭帝の声は明琳を激しく動揺させた。


 この後宮はやはりどこか狂っている。空は雨が降り出しそうな黒く厚い雲が立ち込めている。今にも降り出しそうな雨空はまるで今にも泣き倒してしまいそうな自分と同じだ。


「この後宮は」


「人の悪意は伝染する」


 同時に言葉を発し、明琳が押し黙った。


「だからこの後宮の中に悪意のないものはおらぬ。悪意が悪意を生む。だが、そなたは悪意にけして憑りつかれない……何故だ…あの白龍公主すら、凌駕してしまう饅頭…いや、こうなれば、そなた自身が何やら力を持っているのではないかと思う方がしっくり来る」


 白龍公主にもいわれた事だった。仙人の血が流れていると。


 そんなはずはないと言い切りたかった。


 しかし今であれば、そうであって欲しいと願う自分がいた。


「わたしは無力なおまんじゅう娘ですよ」


 光蘭帝が驚愕して、足を止める。風が小雨を連れて来た。冬の小雨だ。それは冷たく頬を打った。紅鷹承后殿全体を雲が覆い、光蘭帝は静かに空を見上げる。


「おかしな雲だ……宮殿だけを丸く覆っているが」

「光蘭帝さま!濡れます!……お部屋に戻りましょう!」


 蝶華も、こうやってよく外に飛び出した。

 明琳は説得して、蝶華を部屋に戻していたことを思い出す。


 ――偉い人って外に飛び出したくなるものなんだろうか…。





「結構濡れたな」

「皇帝さまと貴妃が!」


 女官やら、武官やらがわらわらと出て来て、顔と服を拭いてくれ、温石を明琳の腕に抱かせた。ありがとう、と笑顔で言って、その温石を抱きしめた。


「光蘭帝さま」


 さっき答えられなかった答えを口にする。


「もしも私に力があるのなら、頑張ってみんなを幸せにします。この後宮のみんなに御饅頭を配ります。でも、残念ながら、わたしは無力です。ですが、人をあっためることは出来ます。ちっちゃい湯たんぽですけどいりますか」


 頬が熱い。光蘭帝の視線すべてが恥ずかしくて、明琳は更に頬を紅潮させる。ぬれている皇帝が色っぽくて、今度は目が釘付けになる。


(何て綺麗なんだろう。遥媛公主さまと白龍公主さまが奪い合うのもわかるわ)


 その争奪戦の勝利はどちらなのだろうと考えた。どっちにも渡したくない!

と思った。



(馬鹿ね、あんたは)


 蝶華の声が聞こえる。


(何だかんだ言って、あんたが一番欲が深いのよ、明琳。そんなもんよ)

(いつか光蘭帝を欲しいと思うようになるさ)


 また白龍公主の言葉が過ぎる。

 光蘭帝は腕をゆっくりと翼のように広げて見せた。


「私は両方の華仙人に無残にも喰われた男だ。それでもそなたは私が欲しいと言えるのか」


「いつもながら、皇帝さまは人の話を聞いてくれませんね」


「そなたの声に応えたまでだよ」


 小さな温石を胸に抱きしめながら、光蘭帝は空を見上げる。明琳は動かずにいたが、ようやく小さく頷いた。



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