第五章ー3:氷の標本

 靑蘭殿は封鎖され、無人の宮となった。かつての主はその上空を滑空し、池の前に降り立つ。凍った蓮池を見つめて、変わらずにこっちを睨んだまま、涙ごと凍った蝶華を更に見つめる。


「何故お前は死んだ……」


 白龍公主はふわりと浮き、そのまま蝶華の上に飛ぶ。手だけを伸ばして、綺麗な頬を撫でようとし、氷の感触に躊躇した。蝶華はあの時のように睨み上げたままだ。


「そうやって俺を死しても睨むな……その眼を閉じろ」


 指先を動かして、白龍公主は氷の中の蝶華の見開かれたままの双眸の瞼を一つずつ、丁寧に下ろして行った。


 そうしてみると、蝶華には傷はなく、眠っているかのようだ。またあの眼をばっと開けて、「白龍公主さま!」とあの声を張り上げそうな。


 カツン、と氷の上に白龍公主は座った。


「どうだ、俺がおまえの近くにいるぞ。嬉しいか」


 ふと、蝶華の腕が動き、ちょうど下腹を押さえる形になる。なんの真似だ…と白龍公主は眉を寄せ、静かに呟いた。


「おまえ。まさか……光蘭帝の子供を宿しているのか…」


 氷の中の羽衣だけが白く光る。白龍公主は無言で腕を振ると、氷は溶けて、元の池になった。その冷たいはずの水に足を突っ込んで、永久の眠りについた蝶華を抱き上げると空に跳んだ。


「ここなら静かに眠れるだろう…その羽衣はくれてやるさ」


 忌み嫌われた祥明殿。崩れた死体を足で蹴りどかした白龍公主は一面を凍らせ、大きな氷台を作った。その氷の上に蝶華を横たわらせる。その崩れた髪に唇を押し当てて、今度は目元に唇を・・・・・・最後にはその細い体を抱きしめた。


「蝶華・・・・・・おまえは馬鹿な貴妃だ・・・」


 力一杯動かない骸を抱きしめた。白龍公主は初めて知った。死した骸以上に、自分の体温は冷たいと。違う、いつだって蝶華は暖かかった。心の底から、白龍公主は呟く。


「済まない・・・俺はまた守りきれなかった・・・」


 地上に束縛された間に、消された妻、そして蝶華。種を与えるべきだけの存在がどうしてこうも気になるのか。胸が締め付けられることなど、あってよいものか。


「俺は華仙人だ・・・・・・こんな感情はおまえの中に捨てて行ってやる」


 何故先ほどの蝶華を抱かなかったのかの理由は知らない。白龍公主はゆっくりと蝶華から躰を押しのけると、その上から誰も触れられぬよう、また凍らせるべく、片手をかざした。


 まるで標本の蝶だな…と哀しげな微笑を浮かべる。


「気が向いたら…また来る。俺はおまえの死を無駄にはしない。安心して眠れ。俺の蝶々」


 その時、宮の奥で闇が蠢いた。



 ――――なんだ?



 白龍公主はゆっくりとつま先をそちらに向ける。この奥には数多くの骸が転がっているのみだ。光蘭帝が焼却を命じられないが為に、放置された怨念が渦巻いている。耀を生み出すことすら出来ない閉鎖された空気は天界に近い。


 その中央に女が立っている。その顔には見覚えがあった。―――――光蘭帝の生母。


 だが、魂がない。抜け殻だ。


(東后妃・・・・・・では魂魄はどこへ行ったのだ?)


 躰には薄い炎の羽衣が巻き付いている。それが命のように時折脈動を繰り返している。


「遥媛・・・っ!」


 だが、東后妃の魂魄を持ち去ってどうするつもりだ・・・・・・そして光蘭帝は・・・。


 自分の知らない秘密があった。


「忙しくなりそうだ」


 言うと、白龍公主はその宮を凝視する。恐らく、この先には天界への道がある。


人の霊魂を利用し、霊力の元、無理矢理つなげた明道が、ある。

 

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