第五章:後宮の秘密

第五章ー1:節哀順変

『まだ信じられません。おばあちゃ…』


 手紙は続かない。


 凍った池の中で眠る蝶華を見つけたのは、名も与えられないままの下働きの武士だったと言う。蝶華はちょうど靑蘭殿の中央にある池に浮かんでおり、その表面には薄く氷が張っていた事から、恐らく死んだのは夜とされた。


後宮で人が死ぬと、穢れとされ、その場所は隔離される。

光蘭帝はすぐに靑蘭殿の封鎖を命じ、穢れの場所から引き上げて行った。



「蝶華……」


 明琳はその事実を准麗から聞かされ、遥媛公主と共に駆けつけた。池の中の蝶華の両目は驚きに見開かれており、間近で見た兵士は精神に異常を来してしまった。


「節哀順変」


 准麗が厳かにお悔やみの言葉を呟き、明琳を庇うかのように、鍛えられた胸に押しつけた。


「足を滑らせたのだろう……恐らく白龍公主を追いかけて、池に落ちたと見る。最後まで馬鹿な貴妃だ」



 その言葉を聞いていた女官と徳妃たちがしたたかにウワサを始める。




 ――皇帝さまを嫌がっていたとの噂ですわよ。

 ――所詮は先帝の慰み者。…氷の下で朽ち落ちてゆくが相応しいわ。

 ――白龍公主芙君を追いかけていた雌犬。あの世でも腰を振ってりゃいいのよ。

 ――淫売娘の当然の末路だわね。陛下も御可哀想に。さあ、チャンス到来だわ。


 その内容は浅ましく、明琳は耳を塞いだ。


(やめてよ……)


「明琳・・・少し離れてくれるかな」


 明琳を優しく押しのけ、准麗はそっと剣を引き抜く。軽く振ると、ひゅっと鎌鼬音がした。准麗が振るった刀は徳妃たちの髪飾りを掠り、みっともなくも髪が肩を滑り落ちる。


「きゃああ! か、髪は後宮の女の宝なのよ! 武大師! 大師とあろう者が恥を知らないわけではないでしょう!」


「それはきみたちだろう。気品あるものであれば、死者の悪口など言わない。きみたちに後宮の貴妃のまねごとをする資格はない」



 ――ちゃんとしなきゃ、徳妃たちにあたしが馬鹿にされんのよ! あたしは負けるのが嫌いなのよ!



 いつも髪をどんなときでも綺麗にしていた蝶華。その声が聞こえて来るようで、涙が止まらない。やがて剣を納めた武大師准麗は厳かに言う。


「悲しみにて死したものまでそのように言っているから、皇帝が気にもかけないのがわからないのか? さて。僕がもう一振りすれば、きみたちはもっと恥ずかしい事になる。言葉を慎むか、それともここから立ち去るか。それともその肌を露見させるか選べばいい」


 徳妃たちは青ざめながら宮殿に引き上げてゆき、明琳は涙を拭って、准麗に頭を下げた。


「有難うございます……」


「蝶華妃…いや、呂后と僕は共に後宮で育った仲だ。光蘭帝さまの母上に大層可愛がられたものだ。明琳、今こそ貴妃の役目を果たすべきだ」


 きひの、やくめ。


 准麗の黒い服がまるで喪服のように見える。


「そして、蝶華が消えた以上、白龍公主はもはやこの遊戯の敗者だ。死んだ蝶華が、光蘭帝の子を産むことは出来ない。遥媛公主さまが光蘭帝さまを天界へ連れ去るだろう」


 准麗は云うと、背中を向けた。


「いつでも光蘭帝さまがいなくなっても後悔がないよう、傍で精一杯お慰めさしあげるんだよ。まあ、そのうち光蘭帝さまは人でなくなる」


「そんなことはさせません!」


「きみは先程の光蘭帝さまの顔を見なかったの?」


 ――かお…?


「光蘭帝さまは氷の中の蝶華を見ても、何も言わなかった。感情がないんだよ」


「違います! 余りの事で言葉を失うことこそ、感情のある人のする事です! …准麗さま、こんな蝶華さまの前で、こんな話…あたし、耐えられないです…っ」


 明琳は突っ伏した。蝶華は目を見開き、とても苦しそうな形相なのがまた辛くて。それでも、氷の向こうにいる蝶華の両目を伏せてあげることも出来ないのだ。


 ――あたしのために、泣いてくれんの? 救われる。


 蝶華はそう言ってくれたはずだ。そしてこんな風に続くのだろう。

 

 ――あたしはただ、白龍公主さまの側にいられれば良かった・・・・・・どうしてそれもかなわないの?と。


 蝶華さまの命を奪ったのは誰だろう。それは。


(あたしが!白龍公主さまに想いを打ち明けろなんて言ったから! わたしはもしかして、蝶華さまを応援するつもりでいて光蘭帝を独り占めしたくなってた・・・?)


「あ、謝らなきゃ…お近くで…ちゃんと!」


「明琳!」


 明琳の足が池に乗せられる。一歩、一歩進んで、蝶華の近くまで歩いた。

 割れちゃえばいい。わたしごと、割れちゃえばいいんだ。


「僕は入れない!明琳!・・・・・・」


 さあ、割れてしまえ。そう思っても、一匹の羊の重さ程度。ぶ厚い氷は、まるで自分のツラの皮のようで、明琳は冷たさも忘れてしゃがみ込み、手を当てた。指先までじんとする冷気。冷たくて、この心を打ち砕かれそうな冷たさには覚えがある。


 ――白龍公主さま。


「ごめんね・・・蝶華さま・・・・・・苦しませて・・・ごめんねえええええっ」


 涙を流せば、氷は割れるだろうか。

 その時、明琳の上に影が被った。ふわっと足下が氷から離れる。


「この宮はしばらく封鎖だ。穢れが出るからね」

「遥媛公主さま!」


 ふわりと羽衣を纏った遥媛公主が明琳を抱き上げた。足は凍傷になりかけていて、ひりひりと痛み始める。


「嫌です! 蝶華さまに謝るんです! 蝶華さまあっ・・・・・・」


「准麗が知らせてくれて良かった。貴妃が二人も死んだら、光蘭帝がどれほど悲しむか考えなかったのかい。蝶華を亡くした光蘭帝を慰められる貴妃はきみだけだ。大切なら、やることが違うんじゃないか」


「わたしに蝶華さまの代わりが出来るはずがないんです! 夜の挨拶ひとつ出来ません」


「それでもやるんだよ。甘えるのもいい加減にするんだね」


 段々と蝶華が遠くなる。明琳は唇を噛んだ。



(いずれおまえも光蘭帝が欲しいと思うようになるさ)



 白龍公主の言葉は正しかった。応援する、なんて言いながら、わたしは蝶華さまを殺したんだ・・・・・・。

「明琳、きみがこの後宮の最期の貴妃。しっかりと役目を果たすんだ。でないと、後宮遊戯は終わらない」


 遥媛公主の優しさを捨てた言葉は、更に明琳を追い詰めるかのように、鼓膜に響いた。


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