第四章最終話:天女になった貴妃の微笑

「これ以上みじめにしないで!」


 蝶華は顔を覆って、しゃがみ込んでしまった。靑蘭殿を走り抜けたのだろう。纏足の麗しい足袋と靴はボロボロで、見れば顔も土で汚れている。


「と、取りあえずお顔を綺麗にしましょうか」


 いつもの綺麗な貴妃とは思えない。顔は涙で濡れているし、服も所々汚れている。


「……一度とて、白龍公主さまは私の事など見ていない。あのひとはね、もうあんたと、光蘭帝にしか興味がないんだわ! 取りすがって伝えたわ! なのに……」


 蝶華は震えて明琳にしがみついた。


「結局、あたしなんか見てくれないなら、死んだ方がいいと思ったの。でも、その前にあんたに恨み言……!」


「ごめんなさい!」


 ぎゅうっと明琳は蝶華を抱きしめた。

 聞かなくても分かる。蝶華を傷つけてしまった。皇帝が言いたかった言葉が甦る。華仙人は愛する心など持たない。

 

「傷つけてごめんなさい! それでもわたしは蝶華さまにどうしても言って欲しかった……」


 余計なお世話よ、と蝶華は言うと、がっくりと首を下げてしまう。


「それでも、言わなければ伝わらなかったから……ねえ、明琳、あたしはもう華仙人なんか好きになんない。光蘭帝をちゃんと好きになって子供を授かるわ……」


 蝶華は唇を噛みしめた。先程の狼藉の痛みが下腹を突き抜ける。『暇つぶしには丁度いいな。捨てる仔猫を甚振るのも悪くない』耳を潰してしまいたいような雑言。指が自分を好きにかき回した。

「何故に子を宿せない?」と言いながら、触れられた。その手を華仙人は「汚れた」と言い切り、「これで満足か?」と無理矢理絶頂を迎えさせられた蝶華を嘲笑う。



 ――何があったか、なんてこの子には言えないわ。貴妃の役割も分かってないのだもの。




 蝶華は小さい頭が都度揺れるのを、そっと押さえる。


「でも、すっきりした。あんたに泣いて貰えてちょっと救われたよ」


 明琳はぐしっと眼を擦り、一生懸命な瞳を煌めかせて言った。



「と、友達になりましょう! 蝶華さま」

「ともだち…?」


「わたしと、蝶華さまなら、素敵に友達になれると思うんです! 今みたいに、いっぱい白龍公主の悪口ゆっていいんです!あたしもいいます。光蘭帝さまの悪口を」


 蝶華の眼が輝いた。恰も孤高を見るような、気高い瞳。吊り上り気味の目元は凛と見えて、キツいと思った口角は揺るがない自尊心を現している。そうしてうっすらと塗った頬紅をさらに赤くさせて、蝶華妃は微笑んだ。


「うふふ、白龍公主さまの悪口? あなたは光蘭帝の悪口を?」

「はい。わたしもいっぱい聞いて欲しいんです」


 嫣然とした美姫の珠玉の笑みは天艶で、美しかった。


「素敵ね……」

「でしょ?」


 蝶華は微笑むと、明琳の頭をゆっくりと撫でた。まるで妹みたいに、愛おしく指が明琳の解れた髪をまとめ始める。


「やっぱり蝶華さまはお上手です」

「貴妃として身支度も出来ないのは、あんただけよ」


 出来た、と、手を離されて明琳は頭を触って違和感に気が付く。


いつもの羊頭。


「この髪型って子羊の……」


「あんたはそっちのが似合ってる。気取った貴妃の結い方なんて似合わないから、それがいいわ。その頭で、また御饅頭を作って持って来なさいよ」


 ―――おばあちゃん。



 少しずつ、蝶華の心に棲んでいる魔が消えてゆく。それでも、この愛は終わらないから。

 蝶華は真横に締まり上げた羊頭を満足そうに眺めて、立ち上がった。



「あたしにはやることがあるから、またね。――明琳。あれ? 名前違った?」の声にぶんぶんと頭を上下に振り続けた。



(蝶華さまが、初めてわたしの名前をちゃんと呼んだ……)


「お、御饅頭持って行くね! 蝶華さま」


 蝶華は最後に振り返り、貴妃たる気品ある微笑を振りまいた。それはかつての君臨した女帝の最期のようにも見えたが、天女さまと言いたくなるような神々しい微笑だ。魔をすべて振り払った蝶華妃の本当の笑顔はあどけなく、美しかった。


 明琳だけに見せた愛に焦がれた微笑。光蘭帝の分と、あと一つ。明琳の仕事が増えた。


 ――明日、最高の御饅頭を持って行こう。お友達になった蝶華さまに。


 


 しかし、明琳が蝶華に饅頭を届ける事は、二度となかった。


 翌日、氷の張った靑蘭殿の池の中で蝶華はその姿のまま発見されることになる。


 二度と動かないであろう、ほっそりとした手には、白龍があれほどに探していた羽衣がある。

 知っているのは光蘭帝と、同じ華仙人遥媛公主だけだった―――――……。


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