第四章ー6:恋コロロの昏君(おばかさん)
「誰ですか!わたしの部屋を粉だらけにしたの! あれ? わたしですか?」
いや、粉は全部片付けるようにしている。にっくき鼠がでるとも限らないからだ。しかし酷い惨状だ。袋の半分の薄力粉がこぼれ出て、しっかりと作りこんだ皮まで伸びている。さらにさっき受け取った道具も粉塗れで洗わないといけない。更に光蘭帝から贈られたまま放置していた品々も粉塗れ。
「もう! やんなっちゃう!」
自室で(蝶華さま、上手く行くといいな)などと考え事しつつ、のんびりしようと帰ってきたら、部屋が荒らされていた。多分嫌がらせの貴妃か、それとも白龍公主の悪戯か。
明琳はぷりぷりしながら、まず粉袋を持ち上げ、手を止めた。けほ、と声がして、ぶるぶるとそれは頭を振った。
長―い髪に金色の光が煌めく。粉の合間から、光蘭帝が顔を上げた。
「そなた、戸口に粉袋を積み上げて何とする。あまりの衝撃で落ちた」
「光蘭帝さま!」
「しっ」
大声を上げた明琳の口を光蘭帝が塞ぐ。辺りを見回して、更に明琳を抱き込んだ。どすどすと見回りの兵士の足音が響き、それは明琳の部屋をこつこつと去って行き。
「見つかると厄介だ。一つ、国事を放り出して来たのでな。悪い貴妃め」
「ええ? わたしのせいですか!」
そうだよ、と笑って、光蘭帝は粉だらけになった自身を一生懸命叩いている。が、払うと言うよりは叩き込んでしまっているのに気が付いた明琳が手を出した。
「躓くなんておかしいです。あんなに武道が出来るのに」
「駆け込んだ拍子にだ。今頃黄鶯殿では大騒ぎだろうな。光蘭帝さまがいなくなったってね」
「だ、駄目です!……御饅頭ならあげますから! お帰りください」
い や だ。
そう言った唇が明琳の頬に滑り落ちた。
「そなたと居たい。そのために規律を破った私を後世では
「昏君ですよ」
明琳が頬を光蘭帝の胸に摺り寄せて、おや?と顔を上げた。
「皇帝さま、あったかいです」
「ああ、温石を抱いていたせいだろう」
明琳は耳を当て、唇を震わせた。温石のせいではない。とくんとくんと浪打、全身に流れる命の暖かさだ。凍りついたような指先も、わずかだがぬくもりを伴っていた。
「そなたの事を思うと、身体がなにやらポカポカして来て………」
「そんな粉だらけで寝ないでください!……ああもう、髪をお結いできません!」
「いいよ。今の私は光蘭帝を忘れたただの飛翔だから」
光蘭帝は床に足を延ばして、少し照れたように微笑んだ。まるで悪戯に成功した少年だ。明琳は嬉しくなって、その伸びた膝に飛び乗った。
嬉しい。
光蘭帝さまが元気だ。
「明琳、先程は大人げない振る舞いをしたことを陳謝する。白龍公主に笑われて、怒りで剣を抜くなど、武官としても、皇帝としても、まだまだ甘いと悟ったよ」
「怖かったです」
自分の胸元で震える羊の頭を撫でながら、皇帝はこんなことを言う。
「そなたを震え上がらせるのは面白い。だが、先日に引き続き、そなたと白龍公主は供に居過ぎではないか。相談なら遥媛公主だっているのに」
ぶつぶつ。口の中でブツくさやって、光蘭帝は明琳を覗き込んだ。
「これに懲りて、私の傍を離れぬ事だ。また何をし出すかわからぬぞ?」
「その言い方! 白龍公主さまみたいで嫌です!」
言葉を喪った光蘭帝など構わず、明琳はそうそう、と手を叩いた。何気に貴妃の衣装を少し捲り、その下の足を撫でていた光蘭帝の瞳が楽しそうに煌めく。
「蝶華さま、白龍公主さまに気持ちを打ち明けるそうですよ」
「……………」
光蘭帝の顔から笑みが消えた。あ…と明琳は口を押える。考えたら、蝶華は貴妃だ。貴妃が他の男と密通は処罰を意味すると教えられている。慌てて両手を振った。
「なんて事はないですぅ! わぷ」
ぎゅうっと明琳を自分の胸に抱き寄せて、光蘭帝は低い声で続けた。
「蝶華が白龍公主を慕っているのは当に知っている。華仙人に愛は通用しない。と言うか、知らないのだろう。私も久しく忘れていた。愛しいと思う気持ち、大切だと感じる心を」
「光蘭帝さま」
じいっと綺麗な鳶色の瞳を見ているうちに、自分の胸もトクトクと騒ぎ出して来た。どうしよう、皇帝さま綺麗で素敵…。
――女はいずれ光蘭帝の種を欲しがるさ。
白龍公主の不埒な言葉を思い出して、俯いた。何を言えばいいのか、言葉が出て来ない。
「ん?」
明琳の異変に光蘭帝が気が付く。その手が頬を擦った時でさえ、明琳の胸はトクトクと鳴くのだった。手が離れると、治まる。明琳は改めて自分を愛でている男を見つめた。
すっきりとした白い頬に、高い鼻梁、梅の花のように優雅で誇り高そうな上唇に、貴妃以上に光る下唇……そして見透かされそうな鳶色に悲しみを刺し込んだような瞳に厚い上瞼と下がり気味の眦。
(光蘭帝さま、こんな顔してたんだ)
ぺたぺたと最初は髪、頬、眼、鼻、唇…それから首、首筋を擦った時など、光蘭帝は僅かに顔をのけ反らせて見せた。
「め、明琳?」
「ん……美味しそうです」
見えた鎖骨に指だけでは足りなくて、舌を這わせようとして、正気に返った。
「あ、あたし! 別に何かしようとしていたわけではないです!」
「何を言っているんだ。そなたは貴妃だ。それに、皆、私を愛したがる。何の不思議もないよ」
眼が丸くなってしまうような台詞も、光蘭帝が言うと、真実味がある。明琳はおずおずと聞いた。
「例えば……わたしからキスしてもいいんですか」
「構わぬ」
「こうやって手でさわってもいいんですか?」
「ああ、構わぬ」
「皇帝さま。明琳の足のつけねをちょこちょこ擽るのを止めてください。ゴソゴソくすぐったいです」
「…………そなたには男として教えることが山程ありそうだな」
低―い声で囁いたその時、怒りで染まった蝶華の声が響いた。
「おどきなさい! あの子羊…っ…どこにいるの!出ていらっしゃい!」
光蘭帝が立ち上がり、ズイと部屋から姿を見せてしまった。
「貴妃が怒鳴るな……何があった。そなたが声を荒げるのは珍しい」
そうですかぁ? と明琳は首を傾げる。蝶華は涙目で睨むと、皇帝の足の影にいた小羊を引きずり出した。
「い、いたっ…痛いです!」
「あんたのせいよ! あんたの…………っ」
騒ぎで衛兵と、皇帝を探していたらしい遥媛公主と准麗に見つかった。
「光蘭帝さま! こんなところに! さあ、国事にお戻りください」
「ち。致し方あるまい。……明琳」
”蝶華を頼む”
皇帝は明琳に囁いて、しぶしぶ部屋を追い立てられるように出て行った――。
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