第四章ー5:紅鷹国の歴史
聞いた瞬間の蝶華の瞳が見開かれた気がした。実際、蝶華は動揺していた。
明琳の父と母を始末した皇帝こそ、先帝の生き残りの蝶華と星翅太子を捕獲し、責め苦を味あわせた男だったからだ。
残虐で、唯一可愛がってくれた東后妃すら、愛さず。だが、確かその皇帝は変死を遂げ、祥明殿で東后妃と共に眠っている。
やがて光蘭帝さまが幼少即位し、今に至る。それが紅鷹国の歴史だった。
目の前の羊に奇妙な縁を感じて、自然と涙が浮かんだ。同時期に、同じ苦しみを背負っていたとは思わなかったのだ。
「あ、ごめんなさい。どうしましょう、止まらない」
「寒いせいです。中に戻りませんか」
はらはらと磨かれた頬に涙が毀れては消えてゆく。蝶華は指先でそれを押さえるが、それでも溢れた涙はゆっくりと指から逃げていくかのように、滴を落す。明琳がゆっくりと庭から移動したので、蝶華の足も、元の後宮に向いた。
お気に入りの長椅子に自分の温石と厚手の衣をかけながら、蝶華は明琳を座らせる。
「大丈夫、落ち着いた。ねえ、気になっていたんだけれど。あなたの胸、片方だけ大きくない?」
「ああ、そうだった。忘れていました」
明琳はよいしょ、と胸に手を突っ込むと、白いかたまりを取り出した。
貴妃の胸から饅頭が出てきたのである。蝶華は当然ながら、言葉を喪っている。
「この饅頭を、光蘭帝さまは美味しいって言ってくれたんです。……はい」
驚いたまま、蝶華は目の前に差し出された歪な物体を見つめた。形などなく、丸めただけだ。それでも、鼻先に近づけると、ふんわりと甘い餡の香りがした。
「まさか、あんなことしたあたしに作ったの?」
「明琳の御饅頭食べたら、めっちゃ元気になっちゃいます! わたしの御饅頭に何か特別なものがあるなら、蝶華さまだって元気になっちゃいます」
震える貴妃の手の平に、少し暖かい饅頭が乗せられた。蝶華は涙顔で笑うと、頬を近づけた。
「温かいわね……うん、戴く」
千切って、口に放り込む。侍女たちが見たら即効で奪って捨てるだろう。高級菓子には程遠い。それでも、ひとくち、ひとくち、進めていく。
と、蝶華の手が止んだ。
「す、すみません!おっきいですよね……白龍公主さまはばくりと食べてしまいますけど! 蝶華さまのお口にはでっかい。今度はちっちゃいの作って来ます」
「白龍公主さまがばくりと……?」
呟いた蝶華は両目を瞑りーーーーー・・・・・・・・・。
ばくり。
顔を突っ込むようにして、蝶華はそれに齧りついた。饅頭の打ち粉が顔に張り付いて、粉雪のように光り、慌てて明琳がそでで頬を拭い始める。当然ながら、蝶華は咳き込み、今度は置いてあった水差しからコップらしきものを手に、蝶華に差し出す。
んく、んくとノドを鳴らして水を流し込み、人心地ついた蝶華は食べかけの饅頭を机に置いて、そっと遠くを見やった。
「西の祥明殿……」
見える。決して近づいてはいけない場所だ。黒光する瓦を葺いた建物はかつての豪華さを謳う様な黄金。それも錆びてしまっている。
「蝶華さま。あの建物は怖いです」
「光蘭帝さまが皇帝になると同時に現れた華仙人さまたちは、まず皇帝一族を殺した。東后妃さまは、光蘭帝さまの父親である夫と、その祖父を大層恨んでいたそうなの。その皇帝一族が住んでいたのが祥明殿。多分華仙人たちが消したのだわ。そして、光蘭帝さまは即位してまず、あの宮を封鎖した。今では誰も近づけないわ」
「あの建物、なぜか怖いんです。いっぱいいるみたいで」
言いながら明琳は首をかしげていた。確かあそこで何かを見た・・・・・・・・・。
「本当はあそこに閉じ込めてやろうとしたけど。白龍公主さまがあんたとは何もないから止めろって。あんたはムカつくけど、それ以上に白龍公主さまに嫌われたくはないから」
いつもの気丈な貴妃の顔に戻った蝶華は、「はふ」と吐息をついた。
「ごめんね、あたしはどうしても、光蘭帝の子を産んで、お役に立ちたいの。そうして、いつかきっと、あたしもこんな下界は捨てて、綺麗な場所に連れて行って貰うの。約束してるの。こんな世界はもう嫌。だから、光蘭帝さまの子さえ産めればあたしは」
明琳は何も言えなかった。後宮は地獄で、二度と出られない場所だと言う。そんなところにずっとい続ければ、蝶華妃や光蘭帝のように、逃げ出したくもなるのだろう。
明琳は蝶華の整った指先を見やり、手を掴もうとして、自分の粉のついた手をごしごしとおしりの辺りで綺麗に磨いて、そっと重ねた。
「白龍公主さまに云うべきです」
「えっ…」
明琳の封じていた少女の部分がゆっくりと目を覚ました。蝶華は明琳の瞳を改めて見つめる。
「貴女の眼、変わったわ。何て澄んだ瞳―――――……」
「打ち明けるべきです!…それでも、光蘭帝さまの子供を産まれるなら、わたしは何も言いません。でも、今の蝶華さまは御可哀想です」
いつもの蝶華なら、「可哀想ですって?!このあたしに!」と激昂し、そこの几帳を蹴飛ばして「この無礼な小羊を放り出しておしまい!」と甲高い声を上げるのだろう。
だが、力が出ない。怒りの力が出ないのだ。
――この饅頭のせい…?
蝶華は静かに首を振った。傍にいて、ずっと願っても絶望を与え続ける華仙人の姿が浮かぶ。白龍公主の冷たい死んだ瞳。今日こそは、抱いてくださる、明日こそは。横目で女を喰う公主を見続けた日々が脳裏に走馬灯のように浮かんでは消えて行った。
「無理よ。華仙人には愛を理解する事がないの。あたしが生かされているのは、便利だからに過ぎないわ。遊戯の大切な駒だからに過ぎない」
――ハラの中でイライラ虫がモゾリと蠢いた。怒りの矛先は蝶華妃じゃない。白龍公主だ。もう一発くらい、叩いておけば良かった。
「ならばお役に立って、一度でいいから、ちゃんと言われたい。愛情や優しさを望むのは人としては当然の事。相手が悪かったのよ。それでも愛してるから」
言い切ると、蝶華は静かに立ち去ろうとする。部屋を出る瞬間に、足を止めた貴妃は振り向かずに言った。
「頑張ってみる……御饅頭、美味しかったわ」
ようやくそれだけ言って、口を押さえて部屋を出たところで、准麗にかち合った。蝶華が慌てて涙を拭うも、冷評な声が降り注いだ。
「――裏切るなよ、蝶華…いや、呂后美」
その細い喉の前を男の手がひゅうっと動く。ぽたりと蝶華の白い首から鮮血が溢れて滴ってゆく。
警告なのだろうと蝶華は思った。
その出血は浅く、すぐに止まったが、蝶華は俯いたまま、暫く動かずに目を閉じていた。涙を溢れさせて後宮奥へと姿を消した。
腹の底の魔は断末魔の叫びを胎内に響かせ始めていた。
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