第三章最終話:愛おしい夜

「明琳?」


「……光蘭帝さま、自分で行きたいって言いましたよね…」


 白龍公主の言った通りの事が行われている。光蘭帝はここを見捨て、自ら望んで天人になり、すべてを手に入れるためにすべてを捨てようとしているのは明らかだった。


「小羊、さァ、どうする?」


 楽しんでいるような声音が夜空に響く。



「東后妃とは光蘭帝飛翔の母親だ。そして娘、恐らくお前は華仙の者だと俺は言った」


「だから違うって! わたしは仙人なんかになりたくないし、普通の人間です!」


「騒ぐな。気づかれると言っても」


 遅いか。


 その言葉に明琳が慌てて地上に視線を向ける。紺碧の龍が描かれた黒の長裙。肩に金糸で幾つもの房を垂らした皇帝衣装は見るものを恍惚とさせる。その衣装の上には普段は縛り上げている長髪が降りていた。


 まるで、この世のひとじゃないような、瞑の気配。


「明琳……何故そなたがそこにいる?もしや、聞いたか……」

「はい、聴こえました!」


 遥媛公主と准麗は冷静に光蘭帝を見やり、公主に捕まったままの明琳を見上げる中で、光蘭帝の冷淡な声が飛んだ。


「白龍公主。貴妃を私に」


 白龍公主は諦めのため息と共に、高度を下げた。「おいで」と開かれた腕の前で、明琳は拳にした手を胸に当て、肩を震わせる。


「皇帝さま、自分で行きたいって言いました」


「ああ、言ったな」


「どうしてですか!」


 空中で明琳の落した涙が、光蘭帝の足元に落ちて地面に消えてゆく。天女落涙…と准麗が呟き、遥媛公主はいつしか高度を上げている。その前で、明琳は唇を震わせた。


「どうしてだと?」


 その時の光蘭帝の瞳は忘れないだろう。哀しくて、すべてを諦めたような耀が眼の中に宿り始めた瞬間を。


…それでも…



(綺麗です…かなしいのに、綺麗です…)


 光蘭帝の瞳は涙顔の羊を宥めるかのように、優しい光に変わり、その奥の滾らせた赤い炎は愛しい貴妃をしっかり抱いている男に向けられる。


「白龍公主。何故明琳を。明琳には近寄るなと言ったはずだ」


「ああ、俺の飼い猫が羊を苛めていたんでな。聞きたいこともあった。心配しなくとも、俺は明琳を抱いたりはしないさ」


 聞いた遥媛公主はふわりと宙に溶けるように、紅月殿の上空に消えて行った。


「明琳」




 ――明琳。




 その白龍公主の声に、光蘭帝は攻撃的な瞳を露わにした。先程の哀しい雰囲気をかなぐり捨て、帯剣している長剣を抜き、空中に浮かぶ華仙人に向けて刃先を掲げ。


青竜刀が月光を跳ね返して、尊大に、鈍く光った。まるで獣のように、頭上の仙人に向かって光蘭帝は唸った。


「白龍公主、いつから私の妃をそう呼ぶようになった! 私の妃を返してもらおう。でなければ、羽衣は一生手には戻らぬと思え」


 ぴく、と白龍公主が目を見開いた前で、光蘭帝は妖艶に笑って見せた。


「天に還りたいのだろう? 明琳を放してもらおうか!」


(白龍公主さま?)


 白龍公主の竜顔は、血の通っていない陶器のように強張り、白めいていた。


 そうだ。白龍公主さまは言っていた。羽衣を返して欲しいと。ただ、それだけでいいと。


  白龍公主が明琳を抱きかかえていた腕を外す。地上へまっさかさまに落ちた明琳を准麗がしっかりと抱き止めた。ぶるぶると震える小羊に「私以外の男に抱きついた罰だ」と光蘭帝は言い、愛おしそうに明琳の頭をゆっくりと撫でる。


「そなたは私のものだ。そして私の貴妃だ。私には、そなたを幸せの絶頂に置く義務がある」


「ぜっちょう…ですか」


「名を呼べ。私の名前を呼べばいい」


「光蘭帝さま……ひしょうさま…」


「そなたの喋りはゆっくりで、聞き取りやすいぞ。……白龍公主、見逃してやる。どのみち貴様と私は一蓮托生なのだろう。この魔、ある限り――…」


 白龍公主は何も言わず、背中を向けた。


「あ、あのっ、白龍公主さま」


 明琳は光蘭帝の腕から抜け出すと、降臨してきた白龍公主に深々と頭を下げた。


「助けてくれて、ありがとうございました。わたし、暗闇が苦手なんです」


 両眼を思い切り開いた白龍公主は物を言わずに去って行く。その後ろで光蘭帝は妬けつきそうな心を抱え、明琳を睨んでいるのを、准麗は静かに視認していた。



「そなた、白龍公主に怯えていたのだろう? 何故謝る」


「ハイ。でも、さっきは助けてくれました。光蘭帝さま、この世界にだって綺麗なものや優しいものがきっとあります。探しましょう」


「さがす?」


 明琳は目を伏せ、ぱっと煌めく瞳を開けて見せる。


「どっちがたくさん見つけるか、競争です。わたしは見つけました。お月様が綺麗です。夜風が気持ちいいです。星が美しいです。光蘭帝さまが撫でてくれました」


 光蘭帝は准麗と顔を見合わせると、笑った。


「何で笑うんですか!」


「ああ、すまぬ。では、私も。目の前の小羊が頬を膨らませて涙目なのが素敵。一生懸命で、そうだな……愛おしいと言えば良いか」


「愛おしい……」

 光蘭帝はくるりと踵を返し、ぼそりと「聞き返すなよ」と呟く。



(ああ、わたし。初めて光蘭帝さまも、少年なんだって思いました…)



*******


「蝶華妃が?」


 准麗は事情を聴くなり、眉を寄せた。


「ええ……でも、何か事情があったと思うんです!蝶華さまにも、何か悩みがあるのかも。准麗さま、蝶華さまはもしかして白龍――――」 


 ひょい、と明琳の前で人差し指を曲げて見せた。


「今は光蘭帝のご機嫌を取る方がいいよ。嫉妬なんて出来たんですね、皇帝」


「准麗。それは嫌みか、忠言か」


「諫言と思うが宜しいでしょう」


「明琳、今夜は私は誰とも約束しておらぬ」


 ――はい?


 光蘭帝は少し顔を赤くし、言った。


「皇帝たるもの、貴妃なしでは夜は明けない。そなたが来るがいい」


「はい! 御饅頭作って行きます」


「いらぬ。そなたは身一つで来ればいい。そなたが私の甘い菓子だ」


「わたしが、お菓子ですか?」


「やり方が解った。それを実証して見せよう。私の相手はみな身長が高かったからな。星翅太子に古代文書をひっくり返させ、過去、小柄な貴妃を扱った文献を探させた。なぁに簡単な事だった。そなたが上になれば良かっただけのこと」


 准麗が咳き込んでいる前で、明琳は首を傾げていた。


 久々に穏やかな、嵐の前の静けさの夜を、光蘭帝と明琳は手を繋いで越えるのだった。

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