第二章最終話:後宮の黒い闇
ほんの、興味の一端だ。その時、口に何かが当てられた感触に、
「……おまえ…何を…」
涙目で肩をむき出しにされた明琳は饅頭を手に、睨みあげている。明琳の怒気が爆発した。
中の餡が飛び出るほどに顔面に饅頭を押し付け、呼吸を塞ぐ。恐怖で震える体を叱って、多分一生で一番力を込めて。
「その御饅頭は光蘭帝さまにあげようと思ったんです! でも、貴方にあげます!」
「いるか! 俺は人間の施しなど受けない!」
明琳は唇を噛むと、ぽろぽろと涙を零し始めた。白龍公主は右手を動かす。ぽう、と一つの華が浮かび上がった。暗かった東屋に光が生まれる。
「覚悟するがいい……俺に饅頭を押しつけるなど! 天帝たるこの俺に! 死を覚悟しな!」
猛り度数はさっきの比ではなかった。小羊を確実に仕留めるために、白龍公主は夜を照らす華を生み出したことを悟って明琳は壁に背中をぶつけ、後ずさった。
「幸運に思え。最初の男が俺だという事を。天帝になったら、お前を飼ってやるよ。首輪をつけて、そうだな……その性格を去勢して、剥製にでもして飾ってやるか。それとも、暇つぶしの慰みかまあ、そのうち決めてやる。騒ぐなよ。女の叫び声はやかましい」
「ふぐっ…」
強い力で口元を押さえつけられ、明琳の涙が手に毀れるのを嫌悪感の眼で白龍公主は見つめた。
「つくづく不愉快な」
―――――光蘭帝さま―――――
唇をこじ開けられた明琳に白龍公主の容赦ない指が絡まるように入ってくる。それでも懲りず、明琳は転がった饅頭をまた白龍公主の唇に押し付けた。毀れた餡が口に入る。
「何をする!」
その時、ぴたり、と白龍公主の動きが止まった。(今だ!)と這い出て、息を整えた。
さんざん咳き込み、白龍公主は呆然と明琳を見やる。長い脚を立てて、呟いた。
猛っていた躰もあっという間に均衡を取り戻し、静かになっていた。
「――欲が、消えた? どういうことだ」
白龍公主は呆然と自分の手を見、まだがちがち震えている明琳を見つめた。
「そういえば、光蘭帝もおまえの饅頭を口にしたんだったな」
袂を合わせて、短い脚をすり合わせながら、まだ明琳は白龍公主を睨んでいた。寄って来たら終わりだ。先ほどまで、男の四肢に押し隠された。恐怖で、まだ足が震えている。
「そう睨むな」
足を晒したまま、白龍公主は呟き、すぐに立ち上がった。もう興味が為いとばかりに、瞳は平静に戻っている。
「興ざめした。おまえは何者だ、小羊貴妃」
「めいりん、です!」
「では明琳。これはおまえが作ったのか?」
明琳は答えずに泣き始めた。皇帝の笑顔が硝子のように脳裏に崩れてゆく。もう、饅頭を作るのは無理だ。せっかく作った饅頭は自分で壊してしまったから。
「調子が狂いやがるな。分かったよ、食ってやる」
白龍公主はかりかりと頭をかき上げ、その饅頭をばくりと口に含んだ。
親指の餡を舐め取って、白龍公主は少し遠くに視線を這わせる。大股で座り、足を広げたまま、完食してしまった。
「久方ぶりに食えるものがあったという感じだ。天界の味がした」
襲った相手が自分の崩れた饅頭を平らげてしまった。明琳はいつしか泣き止み、外の扉を叩く音に気が付いた。平らげたばかりの口元を拭った白龍が吐き捨てた。
「ふん、遥媛の飼い犬がきゃんきゃん喚いているのさ。いくらおまえの得意な武術とて、華仙人の結界が破れるものか。せいぜい足掻いていればいい」
長い髪を器用に縛り上げ、頭上で盛ると、白龍公主はさて、と明琳の前に膝をついた。
「光蘭帝の子を欲しいか」
「………いりません」
明琳はムカムカしながら言い返す。子ども、子供…蝶華も口にする。だが、白龍公主は首を捻ってまじまじと問うて来た。
「何故だ?女は皆、光蘭帝の種を欲しがるのだろう? 俺も同じだ。光蘭帝には俺の種を受け取らせる。遥媛公主に負けてたまるか。そのためには、お前に光蘭帝の子を宿されると困るのだ。その場合の子供は蝶華でなければ。分かるな? 命が惜しければ、決して光蘭帝と抱き合うな。――でなければ、今度こそ、犯す」
「抱き合う……あ、ぎゅー……のことでしょか」
「男女の睦みを知らない? あれほどの上玉だ。何れ自分から受け入れるようになる。それが女だ」
「そんなことはしません」
「どうだか。女は裏切るものだ。信用出来ないな。今夜は退いてやろうぞ」
ぱっと浮かんでいた華が消え、ドアの前で小さな破裂音が聴こえた。とたんにどかっと大きな音とともに扉があいた。月光が眩しい。その中から准麗が転がり込んでくる。
「准麗さま!」
准麗はすぐに飛びのくと、悠々と立っていた華仙人に向かって歯ぎしりするほど怒りを滲ませて、名を口にした。
「白龍公主芙君! かように華仙人というものは横暴だよ」
「羊、約束を忘れるな」
怒りで睨みつけて来る准麗には目もくれず、白龍公主は夜空に飛び上がり、見えなくなった。あとで、明琳はへたりと座り込んだ。
恐怖は去ったのだ。ほっとした途端、涙が浮かんだ。
「ご無事でしたか。遥媛さまが心配なさっている」
「無事じゃない……御饅頭だめにしちゃったし……今日はもう帰ります」
「では送ろう。遥媛公主に言っておく。それから、星翅が心配していた。光蘭帝に確かめるべきだったと。蝶華が知っていたのでね」
「蝶華さまが助けてくれた?」
違うと思うがな…と思いつつ、准麗は言葉を押しとどめる。あの勝気な猫はいつか飼い主に爪を立てるのか、それとも爪をもぎ取られるのか。
「今度、蝶華さまにも御饅頭をあげなきゃ」
呟きながら、明琳はもう一度着物の合わせ目と袂を強く掴んだ。
――女は皆、光蘭帝の種を欲しがるのだろう?
そうなのだろうか。
いつか、自分も光蘭帝の種を欲しがるのだろうか――…
その言葉は落とされた後宮の黒い闇となって、明琳を蝕んでゆくのだった。
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