第二章ー6:皇帝の手紙?!

―――鬼ごっこは得意中の得意よ?と明琳は後宮の広い道を急ぎ、案の定迷ってとぼとぼと歩き出した。ふと、人気のない道に入ってしまった事に気が付く。


(ええと、こっちは白龍公主芙君さまの御宮の逆だから…西…)


 ――あ!


『西の宮を祥明殿と言い、何年も前の後宮異変の内乱のままの状態だ。誰も足を踏み入れない魔が住む宮だ』


 准麗の言葉を思い出して、明琳は振り返った。誰もいない。禍々しい気配だ。ぞっとして足を止めた。だが振り返っても、同じような宮と装飾で後宮入り二日目の自分が戻れるはずがなかった。


 ――幽玄になり、達者で暮らせ。



「うっく…」



 寂しさの上に、無情の光蘭帝の言葉が重なった。明琳は小さくしゃがみ込んで、肩を震わせて丸くなってしまう。冬の風が肌を苛めるかのように吹き、頬に痛みを残してゆく。


(おじいちゃん、あたし、帰りたい)


 幽霊扱いなんて。それなら、酷くてもどんなに過酷でも、光蘭帝の傍にいたい。名前を呼んでくれればいい。それだけで、嬉しくなる。


 でも、自分だって光蘭帝の御名を呼べなかったのだ。明琳は目を擦りながら、そっと呟いた。


「ひしょう…さま」


 瞬間、誰もいない宮で破裂するような音が響いたが、明琳は辺りを見回し、それは空耳だと判断した。西の宮には誰もいない。そうだ、人がいる方へ行こう。誰かに出逢えればなんとか……そう思ったのに。


(誰もいません…)


 ――こっちよ。


「誰か呼びましたか?」


 明琳はおそるおそる足を進めて、何かに足の甲に乗られて飛び退いた。


(な、何だ…蜥蜴か…鼠かと思っちゃった)


「こんにちは~…」


 お宮を留守にして、泥棒に入られないのかと心配になるが、ここは安全な後宮だ。自分の住んでいた街とは違う。


 ふとガランと音がした。足下を見た明琳は危うく腰を抜かしそうになる。―――骨だ!


 震えながら見れば、あちらこちらに骸骨が転がっている。


(そうだ!ここは内乱のまま放置されているお宮で…)


明琳はふと正面に眼を向け、眼を疑った。女性が一人、立っているが、透けていた。



「ゆ、ゆ、ゆ。幽霊さんだーっ!」



 もうどこにでも走って逃げるしかない。この宮を離れる方向に、走れーっ!




そうして泣きながら来た道を引き返して、心配で探していたらしい星翅に出逢った明琳は泣き顔で腕に飛び込んだ。後で聞いたら、星翅は馬小屋や草叢を探していたらしい。失礼にも程がある。


「幽霊などと…お疲れなんですよ」と微笑まれて、明琳はもう一度だけ西を振り返った。


この後宮で、星翅は唯一の味方であることを、明琳はやがて悟る。

そうして、陽は高くなるころには、幽霊の存在を明琳は恐怖のあまり、忘れてしまったのだった。



 ぞろぞろと妃賓たちが歩いている廊下は、その色とりどりの衣装で、咲き乱れる花園のように艶やかだ。明琳と星翔は幾度となく妃たちにすれ違った。


「朝の拝謁が終わったようです…僕は光蘭帝に『拝謁までに華羊妃を離れに連れゆけ』と命令を受けていたのですがね。まあ、白龍公主に見つからないだけ良かったやも知れません……噂をすれば何とやらです」


 星翅は悪態をつき、すぐに頭を深々と下げた。


「白龍公主芙君さま」

「まあ、小羊貴妃」


 後ろをしずしずと歩いていた蝶華がふふんと髪をかき上げる仕草をする。


「残念ね。幽玄になるのですって?―――――んっふ、短い間でしたわ。御機嫌よう。あたしは夜の準備をして、光蘭帝をお迎えするのよ、どきなさい」


「では、今宵は蝶華妃がご指名のお相手でしたか」


「当然でしょ。貴妃が徳妃や賢妃に負けてたまりますか。ああ、貴方は気にしなくて結構。貴妃としてなんて誰も歓迎してないもの」


 忙しいわと蝶華は心なしか軽い足取りで磨かれた回廊を纏足のすり足で歩いて行くのを寂しそうに明琳は見送った。あんな風に自信に溢れていたら、光蘭帝は自分を幽霊になどしなかったかも知れない。ただ、ただ、蝶華が羨ましかった。


「明琳だったか」


白龍公主がふいに名前を呼び、「こんな事をする義理はないが」と明琳の手を掴みあげた。


「白龍公主、ここは皇帝のお宮でございますよ」と牽制しかける星翅の足を眼力で止めた公主は袖に手を突っ込み、明琳に屈みこんでそれを手渡した。書状だ。



「光蘭帝からの書状、確かに渡したぞ」



 ―――え?


「俺は頼まれただけだ。幽玄にと命令はしたものの、今更に惜しんだ書状だろう。なあに、大人しくしてりゃ、こっちの女官が尽きたら俺が迎えに行ってやる」


 間近になった白龍公主の瞳は白く濁っている。ぞ…と明琳は肩を震わせ、それでも瞳を逸らせずにいた。その耳元に口元を寄せると、白龍公主は囁いた。


「無碍に牢屋に放り込んだ俺からの詫びだ。受け取って貰えるな?光蘭帝には伝えておく。内密にとの事」

「これを、光蘭帝さまが?」

「いいな、確かに伝えたぞ。光蘭帝はおまえが気に入ったのだろう」


(わたしを…皇帝さまが…気に入った…)


 信じられない話だ。でも、それならそれで嬉し過ぎる。(御饅頭を届けたい)なんて強く思う。こくこく、と胸に手紙を当て、何度も頷く明琳に僅かに微笑んで、白龍公主は去って行った。


「ではもういいですね。おや、公主からの手紙」


 明琳は赤くなってばっと隠したが、星翅はその手を押さえて、すいっと紙を抜き取り、「光蘭帝さまの字」と呟いてすぐに明琳に返すことにした。なるほど、幽玄になれ、などと言ったものの、惜しくなったらしい。


 そのまま、正気に戻ってくれればと星翔は強く願った。



 以前の光蘭帝はあんな男ではなかったはずだ。武勲に優れ、時には民衆と共にその土地を周り、遷都の計画もあったはずだ。

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