第二章ー5:幽霊からの逃亡

 膝からずりおちた小羊の気配に一時の安穏から目を覚ます。明琳はバランスを崩してずりおちても、目を開けず、疲労の顔で眠ったままだ。


 ――相当神経をすり減らしているのだろうな…。こんな小柄な身体だ。

 よくよく考えればこんな小柄な羊相手にどう夜の遊戯を行えばいいのだ……光蘭帝は明琳を抱き上げ、寝椅子に座らせ、自分の上着をかけたところで、目を光らせた。


「……覗きか、遥媛公主」


「見るつもりはなかったんだ、僕は」と赤髪の仙人が一人、遥媛公主山君が芭蕉扇を優雅にはためかせる。上唇が陰唇に見えて、光蘭帝は僅かに目を反らせた。仙人の色香は堪える。だからこそ、華羊妃が愛らしく見えるのだが。


「良くない気を追っていたら、貴方の宮殿に踏み入っていた。その貴妃は…はは、可愛いこと。貴方の苦労が目に見えるような小柄さだ」


「ああ、私は大柄な女の方が相手にしやすい性質だから。膝に乗せてようやく格好ついたと思ったら。遥媛公主、私はやはりどこかが狂っているが、明琳といると、戻れる気がした」


 やれやれ…と母親のような仕草で、遥媛公主が寝入ってしまった小羊を抱き上げる。


「その子は既に幽玄だ。遊戯には関与せんよ、ムダだ、遥媛公主」

「ならば僕が貰ってもいいでしょう? 光蘭帝」


 ――名前、呼んでくれた…明琳は嬉しがったが、名を呼ばれるという事は、運命を握りつぶされるに等しい。皇帝は「お前の好きにしたらいい」と言うのみだった。





「戻られたら困るんだよ」と遥媛公主は聖母の顔で呟く。


 そう、何のために光蘭帝からすべてを取り上げるのか。さて、困った小羊ちゃんの扱いはどうしようか…とその無邪気な寝顔をのぞき込んで、頬を撫でた。





 陽が射している。後宮の窓はすべてが大きい。明琳は特に日当たりのいい南の宮紅月殿にその身を横たえていたから、尚更だ。目を覚まして、慌てて辺りを見回しても、明琳にはここがどこかすら分かるはずがない。高級そうな漆塗りの柱に、八角形の天井に大きく描かれた龍と金銀に染められた虎がいるのをぼんやりと見やる。


―――――ここは後宮。…でも、皇帝さまのお部屋じゃない。


「お目覚めですか。華羊妃」


 ………ああ、そうだ。わたしのことだ。気が付いた明琳はゆっくりと起き上がった。口に流れていた涎を慌てて拭き取って、耀を見やると、独りの青年が座ってこちらを見ているのに気が付いた。


「どなたですか」

「私は星翅太子……名こそ大層なものですが、光蘭帝の使い走りのようなものです。光蘭帝より、貴方を離れにご案内するようにと」


 朝の拝謁に出て来ない幽玄として達者に暮らせ。光蘭帝の言葉を思い出して、唇を噛んだ。


「嫌です」


 明琳は目を擦ると、両目を瞑って蝶華を思い出した。悠々と貴妃を務める蝶華さま。何かが変わるかもとその口調を真似てみることにした。


「わたしは離れになど、行きませんわ。…朝のご、ごあいさつにも出ますし、き、貴妃のわたしに何て物言いをな、なさるのかしら」


 つっかえた。全然恰好がつかない。明琳は笑いを堪えている男を涙目で睨んだ。


「それはもしや蝶華の真似ですか」


 見透かされた恥ずかしさで、明琳は俯いてしまう。膝に皺の寄った衣装を拳で握り締めた小さな指が震えているのに星翅は気が付く。


「すみません。やはり、蝶華は妹ですので。つい気が付いてしまって…ちなみに蝶華はわたし、ではなくあたし、と言いますね。『あたしは離れになど行きませんわ!朝の拝謁には出ますし、貴妃のあたしに何て物言いをなさるの?!白龍公主芙君に言いつけるわよ』です」


(うわあ完璧っ)


 どうです?と星翅は少し照れくさそうに笑い、明琳を見下ろした。その優しそうな目元は蝶華と同じく、少々吊り気味。蝶華より優しく見えるのは、目の色だろう。薄い茶色の瞳は陽だまりを思い出させた。良く似合う金色に紺の縫い取りのある宮廷の衣装は宦官とは違う。皇帝の傍で働く女官と武官はランクが違うのだ。


「妹?兄妹で光蘭帝に仕えているんですか?」


 そうです、と優しく星翅という男が頷く。ようやく、心から安心できる優しい笑顔に出会えたと、明琳の顔が少し、明るくなったところで星翅が言った。


「荷物はありませんね? あちらにはゆったりできる部屋をご用意しました。生涯暮らせるだけの給金は国から出ますし」


 明琳も笑顔になって言った。


「昨日の大御殿に向かいますね」


 また男はもっと優しい笑顔になった。むむ、と明琳は根性を入れ直してまた笑顔になった。しかし再度説得を繰り返されてしまった。


「ですから離れにお引越しと言っています。行きましょうね」

「わたし、行きませんわ」

「我儘を言わないようにね」

「わたしは幽霊になどなりたくない。なら、お役目、果たさなきゃでしょ」

「あのですね……あ!」


 星翅の眼が疲れたように少し曇る。その好機に小羊がばっと飛びのく。


明琳の腕を引こうとしたところで、逃した。目測よりずっと小さかった貴妃はタタタタと走って庭に飛び出してしまう。


「ごめんなさい!」

「華羊妃さま! また白龍公主芙君などに見つかれば! お、お待ち下さい! すみません、光蘭帝さま! この星翅、小羊貴妃を逃がしてしまいましたことをお許し下さい…っ…お待ちなさい! なんと足の速い!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る