第二章ー4:小羊を抱きしめて、眠る

 鋭い瞳に射抜かれた明琳の喉が、ひゅっと鳴った。


「お、御饅頭……ちゃんと作ります……」


 何故かそんな言葉を口にした明琳に光蘭帝はゆっくりと首を振った。


「この後宮で食物を作ることは禁じている。……あの饅頭は私も忘れる。そなたも幽玄となって、達者で暮らせ」


 引きとめる暇もなく、明琳の手が動かなくなった。頬にわけもわからず涙が毀れる。その様を何故か真珠を零す月下の人魚のように捕えた瞳がゆっくりと瞬いた。


「……そなたを巻き込む事を許せ。もう、呼ばない。私は一度遠ざけたものを呼ぶことはない。明琳、馬鹿げた後宮に引きとめたことを陳謝する」


 ぴょこ、と蝶華妃が結った頭が揺れた。頭上に宝珠を飾られた髪は緩く丸められ、色気の足りない丸い頬を上手く隠して、大人びて見せている。少しでも皇帝に気に入って貰えるように―――蝶華は「不本意」と何度も口にしたけれど。


「幽霊になるのなんか嫌です」


「そなたはこの後宮の恐ろしさを知らぬのだ。元々私はそのつもりだった。貴妃にし、褥に呼ぶ。そうして、意にそぐわないと言えば、そなたへの華仙の興味はなくなる。何故、こんな後宮に来たのだ」


「おじいちゃんが御饅頭を届けるって。皇帝さまは私が作った御饅頭が不味くて倒れて、わたしは」


 急に牢屋での事を思いだして、足先が冷たくなった。そう、怖かったのだ。遥媛公主さまに抱きしめられても震えは止まらなかった。



「ぎゅうってして下さい」

「ぎゅう?」


 聞き返されて、明琳は頬を膨らませた。


「もういい! こ、怖かったんですっ……それなのに、なんで幽霊になんなきゃいけないんですか?……怖かったの、怖かった……」


「悪かった。白龍公主が初めて憎らしくなったな……」


 ふわり、と高級な香とともに、皇帝の上唇が瞼を滑った。


「それでも、私は華仙人から逃れることは適わない」

「逃げればいいじゃないですか」


「……出来ぬと言うに。いいか、明琳……何故に笑顔になる。私は楽しい話をしたわけでは」


「名前、ちゃんと呼んでくれました」


 光蘭帝の瞳に一瞬だけ虹の色が過り、また元の闇の色に戻って行った。だが久方ぶりに訪れた嵐は胸に吹きすさび、何かを残してゆく。


「そなたの笑顔は嫌いではないな」


 寝椅子に腰を掛け、長い脚を投げ出して、皇帝は少しだけ無邪気な顔を見せた。微かに動く度、白い衣が揺れて、夜を陰る。光蘭帝は肘掛けに肘をつき、そのまま夜空に視線を向けた。


「夜の遊戯がないのなら、私は静かに夜を過ごすしかなさそうだ。私の子を孕む気がない貴妃を抱くことは出来ぬよ」


「寝ないんですか? 夜ですよ?」


 明琳が皇帝の前ににじり寄り、椅子から毀れた襦袢を抓んで引いた。銀糸を駆使して編まれた腰紐と帯の合間から、白い肌が見える。


「遥媛公主さまが言ってました。「一緒に寝りゃいいんだよ」と。眠りましょう。お疲れのようですし」


「寝るとは何だ。そなたはおかしなことを言う。やはりどうあっても眠れない私への嫌がらせに神は小羊を寄越し給うたのか?」


「眠れない?」


「どうあってもな。眠る事を躰が許さぬ。華仙人と交わってからか。だがあれは私には魔の魅力をかき立てるものだ」


 ふと気づいた。皇帝の瞳は静止したままだ。眼窩の下には何もない骸骨のようにも見える。幽玄と言うなら、光蘭帝の状態を指すのではないのだろうか……眠らない皇帝…恐ろしい華仙人。そして貴妃という争いの種。明琳は口にした。


「わたし、家に帰りたい……」


 御饅頭作りは嫌だ、弟の面倒は嫌だ、遊びたい、働きたくない、お洒落したい……明琳の我儘はたわいもない日々だからこそあった。すべて取り上げられて、すべてを無くすのだと、明琳は涙を溢れさせて皇帝の前で手を付いた。


「おうちに帰りたい……お願い。もうこんなところ、嫌」


「手紙を書くことを赦そう。幽玄と成り果てても、すべての妃の面倒は見ている。そなたの饅頭屋も皇帝の召し抱えの御用達の商店に取り上げてやる。代わりにそなたが後宮に残れ。幽玄となって達者で暮らせ。これは皇帝命令だ。華羊妃」


 もういい? と光蘭帝は顎を拳にして肘掛けにおいた腕に乗せ、会話を打ち切ってしまった。いくら明琳が泣いても、光蘭帝は顔色を変えない。ふつうなら、泣いている人には優しくするものなのに。やっぱりここは何かがおかしい。


 明琳はじっと動かない皇帝の傍に座り込んだ。ぺたんと座ると、本当に自分は矮小だ。目の前の方は矮小どころか、選ばれた人間なのだ。その人が自分の饅頭を褒めてくれた。



 ―――――明琳、そこの御饅頭を作っておくれ。

 ―――――やあよ。手が汚れるもの。



 そんな生前の祖母とのやり取りが浮かぶ。大嫌いだ。饅頭なんて。饅頭を作るおじいちゃんも、おばあちゃんも父も母も――――でも。


(光蘭帝はわたしの作った御饅頭をまず、食べてくれた)


「皇帝さま」


 気だるげな双眸が鬱陶しさを醸し出しながら開く。


「幽玄になるくらいなら、傍にいます。下町の御饅頭娘は貴妃なんて似合わない。それでも、ちゃんとお仕事します。……教えてください」


「教えろって……? 私好みのやり方について来られるか。第一身長が足りぬ」

「小っちゃいと出来ないって決めつけるんですか?」


 むっと膨らんだ頬の明琳が突如浮いた。光蘭帝は抱き上げて、膝に座らせたのだ。子ども扱いして! と抱き上げた腕を拳で叩く小羊を抱きしめて、光蘭帝は目を閉じた。


「これで精一杯だろう。そなたは私の足に足を巻き付けるわけでも、手をついて受け入れるわけでもない。ああ、愛らしい熊猫のような…暖かいな…うん…」

「光蘭帝さま?」


 すーすーすー……


 ―――――眠ること知らないって…寝てるじゃない…。


 あふ…とあくびを噛み殺して、明琳もウトウトと眠りの気に引き込まれてゆく。そんな二人を物陰から、二つの人影が凝視していた――

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