第二章ー7:華仙人

「すまない。念のために開けさせてもらったが、確かに主君の字だった。良かったですね。間違いなく光蘭帝さまからですよ」


 元通りに丁寧に手紙を織り、その小さな手に渡すと、明琳はにっこりと笑った。


「それでは僕の用は消えました。やれやれ…あいびきなんて一国の皇帝がすることですか。大概にするようお伝えしなければ」

「だめ。ナイショにしてって言われましたから……お願い、星翅さま」


 さま?と星翅が目を瞠る。だが、目の前の小娘は両手をすり合わせ、懸命に願いを口にした。


「……それで、光蘭帝さまが目を覚ますなら……蝶華の解放もしてやらないと…」

「解放?」


「蝶華は好きで貴妃になったわけではありませんから。僕たちは先帝の血筋の呂李家の者。幼かった蝶華は今は亡き光蘭帝の父の慰み者として、僕は奴隷として、命を助けられた。そうして蝶華は幼かった光蘭帝の添い伏しの大役を戴き、光蘭帝の元服と同時に貴妃になったのです。兄の僕もそのまま奴隷から、武官へと成り上がりましたが」


「そいぶし?」


「皇帝の元服時に夜のお相手をする女の事ですよ。蝶華は光蘭帝の男としての能力を開花させたのです。わかりますか?」


 わかりません。


 明琳は短く答えると、胸を押さえた。


 理由は分からなくとも、これだけは分かる。蝶華さまと光蘭帝さまは並大抵の仲ではないという事…それだけで、もやもやとしたものが胸に渦巻いた。相手は皇帝と、貴妃。明琳は小さな手で手紙をそっと開いた。


『宵の刻、そなたに逢いに行く。場所は黄鶯殿の中庭にある東屋。見張りは置かないで置く。良いな?』それに走り書きの署名。これは間違いなく、光蘭帝が自分に当てて書いたものだ。何度も流暢に書かれた「光蘭帝」の名前部分を磨かれた爪でなぞる。


 皇帝さまが、書いた…ご自分のおなまえ―――――……


「場所はどこです?――黄鶯殿ですか…では、宵の刻に僕を訪ねなさい。それとも、今から行きますか? 後宮の夜は暗く、危険ですよ」


「有難うございます」





 では…と男について、ちょこまかと歩く羊の姿を天空から天女が見つめていた。遥媛公主山君である。その真下には准麗が控えている。大きな羽衣と芭蕉扇をゆったりと構えて、遥媛公主は言った。


「あの小娘は蝶華と真逆の気を持ってるな……物凄い陽の気だ。うざい」


 あの蝶華の陰の気すらを凌駕するような。准麗が大剣を一振りし、霞を薙ぎ払った。


「ふん? 白龍公主が皇帝からの文を預かっただと? 馬鹿も茶番もここまで来ると驚きだ」


遥媛公主は薄い赤髪を束で揺らして、音もなく地上に降り立った。


「准麗、あの子を護ってやりな」

「御意」


 さあて、いよいよ動くか、馬鹿華仙人が……そう忌々しげに呟くと、遥媛公主は久方ぶりに白龍公主の天界での名を口にした。


「思い通りにはさせぬ。蘇芳蓮華…おまえの種の算段など、とっくにつけているさ」



 天帝の素質を持つ、光蘭帝に自らの種を受け入れさせた方が、勝つ。公主の位の上の席は一つしかない。天帝候補だ。厳しい道士の修行を得て、ようやく公主の位まで上り詰めた。さあ、いよいよ…と言うところで、あろうことか、地上の呪詛にかかり、天界に戻るための羽衣を奪われた。それが遥媛公主山君と白龍公主芙君…二人の華仙人の争いは余年500年も続いたままだ。


(光蘭帝……僕はおまえが欲しい…いいや、すべての仙人は飛翔を欲しがるだろう)


 もう少しだ。


 もう少し……そのためには、明琳が必要だ。遥媛公主は空を見上げた。光蘭帝を華仙に連れ帰るには、華仙にするしかない。


 ―――――眠らず、喜ばず、愛情を捨て、愛欲を操作さえする、人非ざる存在に。そのために腹に入れた怨念は置いていって貰わねば。





「ここですね…うん、覚えました」


 明琳は星翅に案内された東屋までの道を反芻して、聞いた。


「でも、どうしてこんな場所。皇帝さまのお部屋でいいと思いません?」


「光蘭帝は外での逢引を好みますから…あのー…僕にその説明を求められても…」


 何だか星翅が困っているので、明琳はこれ以上聞くのを止めることにした。その笑顔は憎らしいほど、眩しい。




****


 花瓶が割れた。蝶華が振り回した芭蕉布が命中したのでさる。


 見てしまった。白龍公主の明琳を見る目。あれは、いつもの病気だ。白龍公主さまはまた貴妃を消す前に、彼のやり方で愉しむつもりなのだろう。だが、明琳に関しては少し違う。


「相手なら…あたしがするのに…どうして明琳なのよ!」


 白龍公主芙君に触れたのは一度だけだ。それも幼少で、光蘭帝もまた皇太子で、東后妃さまが急逝した夜。二匹の悪魔が宮殿に舞い降りた。


 あまりにも美しくて、天女が降りて来たのではないかと思ったものだ。


 魂をあの時、抜かれたのかも知れない。


(明琳、あたしはおまえを許さない…)


不安が貴妃の胸を埋め尽くす。靑蘭殿の回廊。

その遠くから憎しみの赤眼で見つめている女は蝶華と云ふ。

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