第二章:落とされた後宮の黒い闇

第二章ー1:華羊妃・明琳

 朝の拝謁。皇帝は夜を明かした部屋を出ると、黄鶯殿に入る。そこは巨大な龍が描かれた壁画で、伝承にしかないような宝玉をふんだんに使った装飾具は惜しげもなく王座を飾り立てている。その金の壺には、四季折々の花が密かに挿されている。天界に等しい皇帝のおわす場所。その椅子を中央として、両端に武官が立つ姿は圧巻だ。随員の先触れが終わると、光蘭帝は立ち上がる。武勲のあった者への昇格の報告、処刑や敵国の情勢を語り、最後に妃賓に向き直ると、朝の拝謁はいつもながら静まりかえる。


「…今夜の牀榻への」


(寝坊しちゃった!)


 遥媛公主に用意された部屋の寝台はふわふわで心地よくて、夢も見ない眠りを貪って、あっという間に朝。使わされた女官に揺り起こされて、これも用意されていた衣装を何とか着たものの、裾が長すぎる。ずるずると引きずって歩くしかなかった。


「こら!」

「すいません! 寝坊しちゃったんです!」


 門衛とモメ始めた明琳に呆れた声が降り注ぐ。蝶華だった。


「まあ、小羊が紛れ込んでいるわ。おどきなさい。その子は貴妃ですわよ」

「蝶華さま」


 ―――――きれい。


 蝶華は黒地に白い華を縫い取りした上掛けに、腰紐かわりに玻璃の瑠璃玉を繋げた帯飾り。胸元の開け具合は程よく品が良く、見える肌は白く琥珀のように輝いていた。小型の芭蕉扇をゆったりと仰ぐ姿はまるで天女。手入れがされた唇はふっくらと健康そうな椿を思い立たせる色合いだ。


「おはようございます」


「感心ね……ほほ、その着物は何ですの? かかしがぼろきれまとっているわよ」

「着られなくって……この服わたしには大きいみたい」


 一切の嫌味を受け止められない明琳に蝶華の顔が僅かに怒りに染まる。だが、当人は何度も自分の衣装チェックに余念がない。


「無駄ですわ。どうせ今夜は」


 その時ざわめきが起こった。蝶華と明琳は慌てて光蘭帝に視線を向ける。玉座に気だるげに座り、眠そうな目で皇帝が二人を見つめている。その口元には時折木苺が宛がわれ、何の疑問も持たず、僅かに開いた口腔に押し込まれる。


 やがて皇帝は腕を上げ、明琳を指すかのように指先を向けた。


「今夜の夜伽は貴妃・貴妃名を……。華羊妃。そなたに決める。良いな? 宵の刻に牀榻に来るがいい」


「光蘭帝さま! どういうことですの?この貴妃はまだっ」


 寝所に呼ばれなければ、その分の機会はなくなる。抗おうとした蝶華の前に、短剣が投げられ、ぐさりと床に刺さり、蝶華は震えあがって足を止めた。


「白龍公主さま」


 白龍公主は投げた方向を見ずに、言った。


「俺の躾けがなっていないと言われる。皇帝の拝謁時に近づこうなど、貴妃の名折れだ、蝶華。俺を失望させるな。顔に当たらなかったのを幸運に思え」


「以後気を付けますわ」


 蝶華は良く似合う黒い肩掛けを揺らし、寂しく口を開くと、唇を噛んで顔を背けた。


 ―――――変だ。


 蝶華の態度は皇帝に選ばれなかったからじゃない。白龍公主に叱られた貴妃はまるで子供のようだった。これではまるで。


それにしても。


 白龍公主と遥媛公主は光蘭帝の横にそれぞれ立ち、特にお互いの目線も合わせない。白龍公主はただ立っているだけなのに、恐ろしい迫力。遥媛公主もふわふわと足を宙に浮かせて、高く組んでいる。天人なのだ。

 集まった人々の視線はどうしても二人に向いてしまう。

 後宮には素敵な人がいっぱいと明琳は呟き、自分を見下ろした。



 小っちゃい。子ども、みじめ。…そんな言葉をたくさん浮かべて哀しくなる。



「小羊」


 真横で凛と背筋を伸ばした蝶華が明琳を見ずに声をかけた。


「第一貴妃として、おまえを野放しには出来ないわね。そんなズルズルで光蘭帝のお相手などさせられるものですか。覚えておいき。おまえの失態はあたしに繋がるのよ。あたしは馬鹿にされるのが何より嫌い」


「皇帝の相手、ですか?」


「んまあ! やっぱり聞いてなかったのね! あなた名前呼ばれたじゃない。華羊妃って」


「わたしの名前じゃなかったです」


「あなたよ。いい? 後宮では妃名で呼ばれるの。本名を知れば呪詛にかかる。そして素性を知られれば今度は命取りになる。おまえも偽名を戴いたなら、その名前を名乗る事ね」 


「蝶華さまの本名もあるのですね?わたしは明琳。羊じゃないです」


 蝶華はちらりと明琳を見やると、くるくるにまいただけの髪をぐしゃりと鷲掴みにして見せ、泣きそうになる貴妃の手を引いて、宮をゆっくりと退出する。蝶華の指先は桜貝のように光っていた。よく見れは首飾りも、纏足靴も、恐らく香料さえも、蝶華は手を抜いていない。


(わたしだってオシャレしたかった!)


誰に言うでもなく、恨み言を腹の中にぶちまける。


(こんな風に綺麗で、笑っていられれば、いつか皇帝さまも笑うかな?)



変だ。と思った。光蘭帝をしきりに頭に浮かべる、自分が変だ。

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