第二章ー2:蠢く後宮

「ここにいらしたのですね。遥媛公主さま」


 遥媛公主は准麗の声に振り返る。地面が嫌いな遥媛公主は決して足を地上に触れさせない。寝る時ですら、浮かんだままだ。


「天界に地面なぞない。両足をぺったりつけて生きるなど、不気味で仕方がない。やれやれ。光蘭帝も好きだよね」


 多分世界で一番の権力者で卑怯者。と遥媛公主は付け加えると、表情を険しくした。


「天人の僕でさえ、苛立つ程の臭気だな、ここは」

「光蘭帝の指示で、まだ解体も出来ぬままの宮です」


 西の祥明殿にはまだ処分しきれない骸がいくつも転がっている。そのうちの骸には異変があった。朽ちず、枯れずに眠っている麗しい皇后の姿。だが、その魂はとっくに取り出され、意思のない瞳はずっと宙を見続けるのみだ。光蘭帝の体内に入れるなんてね。全く男と言うのは残虐だ。その光蘭帝はどの貴妃に生ませるのかな」


 大柄な遥媛公主は腕を伸ばして、嘆息する。間違えて殺してしまった母親を、弔えずにいる光蘭帝は果たして強いのか、弱いのか。


「あの小羊、何かやらかしてくれそうだ。まあ、僕は天人らしく、高見の見物と行くか。決して白龍公主に明琳を殺させるな。まだ生きていたいだろう? 准麗」


「言われなくとも」


「取りあえず、また増えているな。僕は虫が大嫌いでね。蠢く姿が惨めじゃないか。飛べず、ただ地面を這うだけ。そんな状態で生きている地上って時折ぞっとするね」


 蔓延る虫に気がついた遥媛公主は掌の炎で一室を焼却する。生物に取り憑き、食い破る天界の炎だ。それでも、中央にいる東后妃の姿には変わりは無く。


 ―――――誠、天人とは恐ろしいが……手段は辞さない。


 准麗はかつての主人に膝をつき、その手を掴む。


「また、お会いできることを願っています」


 後方では、遥媛公主の衣擦れの音が響いていた。





 

「遅い」


 ンム~…皇帝が10度目の唸り声を上げる。その横に控えていた書官がゆっくりと窘めるが、光蘭帝の不機嫌さは徐々に酷くなる。


 そもそも貴妃の教育を施されていない小羊だが、時間を守ると言うのは以前の話だ。無人の牀榻を見て、光蘭帝はまず、言葉を失った。


「私が先に寝所にいてどうする!……まったく遥媛公主山君は何を教えているのだ。見張りはいい。…私は独りで今宵の妻を待つこととしよう」


 明かりを落した書官が分からないように笑いを滲ませた。


「よほど気に入ったのですね。結構な事です。蝶華を早く解放してやれますから」

「そうだな……だが何故に蝶華は私の子を宿さない?」


「兄の私が答えられるとお思いですか」


 それもそうだと夜空を見上げるが、この瞳にいくら月を映したとしても、輝きは見られない。ああ、すべての美しいものが苛つかせるのだ。光蘭帝は止まない頭痛を堪え、空っぽの寝所を睨んだ。今夜の貴妃はいつもとは違う。通常、皇帝が訪れる前に、貴妃は座って命令を待つ。


 ―――――それが、遅刻だと?


 ああ、苛々する。

 その時、僅かに月が陰り、小さな人影が廟を遮った。


「すみません…お支度で遅くなっちゃいました…」


光蘭帝の視線が止まる。自ら名付けた貴妃名華羊妃。緩やかな髪は真横ではなく、妃賓らしく、頭上で金糸を飾られて、縛り上げられている。


自分の大嫌いな色―――緑――――の着物にすら気づかず、ただ、見つめた。


明琳の愛らしさに囚われて。

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