第一章最終話:白龍公主芙君の迷宮と皇帝との再会
「俺の宮は迷宮だからな」としぶしぶ白龍公主が口を開く。(まるで迷宮だ)と思った瞬間に答えを聞かされたことに、明琳は驚いた。試しに違うことを考えてみる。
散らばってる女の人が気になります、
遥媛公主さまと仲が悪いのかな、
ここまでは蝶華さまが…、
華仙人って偉い人?
「…ああ、散らばっている女官らは俺が吸い上げたからだ。え? ああ、遥媛公主は俺の敵だ。蝶華が連れて来た? あの悪戯好きの悪女貴妃。あとでお仕置きしてやる…そうだ、後宮からは逃げられぬ。華仙人の俺すらも。華仙人とは何か? …何故知らぬ!愚問に答える慈悲はないぞ」
面白い。心で一つ考え事をする度、白龍公主は応えて来る。喋らないでも伝わる。なんて楽ちん…なんて言っている場合ではない。明琳はじっと隣の男を見上げた。
―――――悪いことすると、仙人に食われるよ―――――おばあちゃんの口癖を思い出す。そう言えば、御饅頭を作っていたのはおばあちゃんだった…。
「仙人さん?」
「いかにも。俺が白龍公主芙君だが?」
だるそうな声。ああ、皇帝さまと白龍公主さまはとても良く似ている。ようやく止まった涙を指で擦って、明琳は双眸を白龍公主に向ける。
「この紅鷹国の遥か上空の異次元に、我らの国がある。それを桃源郷と呼ぶのではなかったか…俺と遥媛公主は供に華仙界から召還されているんだ」
ひょい、と明琳を抱きかかえると、地面を一蹴り。ふわりと身体が浮く。ナナメに明琳を抱きかかえた白龍公主は靑蘭殿の門に辿りつくと、明琳を降ろし、お礼を言おうとしたところを素早く消えて行った。その時に大きな布を振りかぶるので、その衝撃で明琳はころんと転がってしまう。また門衛がじろりと睨んで自分の頭をつんつんと叩いて笑った。
―――――もう!この髪型やめよう。
転がった拍子に髪がほつれたのに気がつく。惨めさで、明琳はまた泣いた。分からない事だらけだ。そもそも貴妃とは何だ。偉いのか、どうなのか。どうして自分が貴妃なんかにならなければいけないか。お饅頭をちゃんと作るから、帰りたい…と明琳が呟いた時、かさりと音がした。
幾人かを連れ歩いていた皇帝だった。ここは皇帝の宮殿だった?
地理感のない明琳はもう一度周りを見回す。金の龍の灯籠で、あの庭園だと分かった。
―――――最初に出会った場所だ、ここ…!
「光蘭帝さま」
「そなたは饅頭の羊…」
確かに合っている。だが省略し過ぎている。明琳は眉を上げてしまった。
「みんなで羊、ヒツジって! わたしは少明琳と言うんです!」
「明琳? また何という奇妙な…いや、愛らしい響きの名を…そうそう。そなたの饅頭、すべて平らげたぞ。美味であった」
「あれ、食べたんですか!二個落とし…」
口が滑った。また『落としたお饅頭を食べさせるなんて!』と蝶華の怒る姿を眼に浮かべて、首を振った。
「そうか? ああ、でも、最初のものが一番美味だった」
「それ、わたしが……」
光蘭帝の眼がおや?と言うように大きくなり、ふっと優しさを帯びた。
「そうか、そなたが……」
謝らなきゃいけない。落としたお饅頭を渡したこと。急に頭が冴えてきた。それなのに。
「饅頭美味しかったですか?」
考えもしない言葉が口を次いで出た。光蘭帝が「そういえば」と首を傾げて見せる。さすが皇帝。人の話を聞いてくれないらしい。
「私はあの饅頭を口に入れた時、魂が揺さぶられるような強烈な眠気に襲われ、初めて眠りを知ったところだ。そうか、安らぐとはああいうことを言うのだなと。ん?何か質疑をしに来たか」
―――――初めて眠りを知った?
明琳はいいんです、と慌てて取り繕って踵を返した。だが、その腕をがっしりと掴まれてしまう。
「どこへ行く。確か私はそなたを貴妃にと言ったはずだが?」
きゅっと締まった薄い唇に形のよい鼻。何より気品のある目元とその顏立ち。そして常に不機嫌そうな瞳。
どうして笑わないのだろう…。
試しに自分が笑ってみたが、光蘭帝の表情は変わらない。
「お断りします」
にっこりと笑って、明琳は続けた。
「あたしは笑顔がすき。いっつもそんな不機嫌な顔した皇帝さま見てると悲しいもの。どうやって楽しく過ごすんですか?」
「こうやってだ」
くい、と顎を抓まれた明琳の眼が更に大きくなった。
「どうだ? 楽しいだろう?」
アゴをつまむのが楽しいのかと聞き返して見る。更にきょとん、としたヒツジの眼に嫌な予感を感じた皇帝が顔を傾けた。
「そなた…いくつだ」
「もうじき15歳です」
「
そうは言われても、明琳の眼は見開かれたままで、光蘭帝の冷たい手が明琳の双眸を隠し、唇に何かが触れた。指じゃない。もっと冷ややかで、吸い付くような感触だ。
冷たい。でも、蕩けそうな氷菓子。高くてあまり買えないあれに似ている。
ちゅ、と音を立てて唇と片手が同時に離れた時、明琳はまだ呆然と目を開けており、皇帝が脱力した。元々光蘭帝の声音は男にしては細い方だ。だが、端々に含有された優は隠すべくもない。それなのに彼は微笑みすら見せない。目の前で明琳の足がそそそと動いた。
「……何故下がる」
怪訝さを滲ませた声で、光蘭帝が一歩進むと、明琳は二歩下がる。いっそ壁際まで追い詰めてやりたい衝動に駆られながら、皇帝は吐息をついた。
口元を押さえたまま、明琳は一歩二歩と視線を光蘭帝に注いだまま、下がるのだ。
「丁度良いな。准麗」
とす、と背中が何かに受け止められ、慌てて上を向くと、笑いを堪えている准麗の姿があった。准麗は袖に腕を通し、一礼して膝をついて見せる。
「光蘭帝さま、臣下より恐れながら申し上げますが、貴妃苛めなど心技体の心に反する行いではないかと存じます」
「……そこまでいう事はなかろうよ」
「いえ、武勲の剛の者としては、見逃せません。まだまだ心が甘いようですね…?」
説教を感じ取った光蘭帝がひらひらと手を振った。
「もういい。私は何もしていない。この羊がチョコマカと逃げるのだ。こうまで逃げられては何もしないわけにいくまい」
変な理屈である。そして皇帝は言った。
「その小羊を正式に貴妃とする。従って朝の拝謁には馳せ参じるよう、遥媛に伝えよ」
「御意」
皇帝は言うと、襦袢を引きずり、金の髪を揺らして颯爽と廊下に消えて行った。
「そういうわけだ。これから貴方はこの後宮の貴妃として暮らす事になる。現在の貴妃は蝶華を入れると二人。つまり、貴方と蝶華妃しかいない。徳妃、賢妃を抜きんでる存在だ。遥媛公主さまがきっといい貴妃名をつけてくれるだろう」
何度も瞬きを繰り返す羊に、准麗は言った。
「何としても、光蘭帝の子を身ごもってもらうぞ」
―――――子?
こども?!
「あ、あたしがコドモを生むんですかーっ」
「それが貴妃の仕事だ」
後宮から出るな、貴妃として暮らせ、子供を身ごもれ?
(もうわたし、パンクしそうですっ)
「さすれば、すべての悲願は叶うだろう―――――」
深夜、庭の蓮の葉が揺れた。
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