第六話:火花を散らすふたりの仙人


 紅鷹承后殿。牢屋は皇帝の宮殿の真下にある。雪の寒さも手伝って、岩壁は冷たく、時折蜈蚣が目の前を這って消えていった。


 隅っこには鼠が食い散らかしたような黴びたパンが転がっている。その横には.......。


その冷たい石牢で、明琳は泣きじゃくっていた。鼠は苦手だ。それだけで帰りたくなる。


『ここに入ってろ!』と乱暴に突き飛ばされた牢屋。何がどうなっているのかわからず、面食らう。だから饅頭は嫌だ。ロクなことがない。


「誤解なんですってば!」


 がしゃがしゃと鉄格子を揺すってみる。


『うるせえ!』と番人に怒鳴られて、身体を竦めた。


 聞いたことがある。皇帝一族は残忍で、すぐに人を処刑すると。だから街では帰ってこない商人はすべて「処刑された」と諦めるしかないのだ。


 それに、この場所には二度と来たくなかった。冷たい牢屋。そこに二度も入ることになるなんてもう二度と嫌だ。


(あたし、どうなっちゃうのだろう…)


 お饅頭に毒なんか入れていない。それでも、皇帝さまが倒れたのは事実。


 明琳は手を何度も見る。皇帝の感触は確かにあった。ただ、あまりの冷たさに死んでいるのではないかと心臓を跳ね上げた。そのくらい、光蘭帝には体温と言うものがなかった。


「どうなっているの。おうちに帰りたい…」


 ぐす…ずず…明琳の鼻を啜る音が聞こえる度に、看守がため息をついている。屈強な男の泣き声には鞭を振るってしまいたいところだが、小羊が背中を丸めて小刻みに震えているのだ。鬼でない限り、困惑するのが人と言うものだろう。


「帰りたいよ……っ」


 めえめえとばかりに小羊がまたしゃくり上げる。その泣き声に看守の声がかぶり始めた。


「この国の刑法の中でも、皇帝毒殺は即死を持って贖う。まさか饅頭に仕込むたぁな。光蘭帝がおめめつぶってたおかげで、保留になったんだとよ」


「わたし、毒なんか入れてません!」


「嘘付け、皇帝さまは未だに目覚めないと言うではないか。西の仙人さまがかんかんだとよ。それに、蝶華ちゃん怒らせちゃ駄目でしょ」


 明琳はぴたりと動きを止めた。


「蝶華ちゃん?」


「頭を蝶々みてーに結ってる第一貴妃さんよ。大層な別嬪さんよォ。光蘭帝の野郎、あの蝶華ちゃんしか夜に呼ばねえのよ。子を孕むのは彼女だろ。ち、つまんねえ賭けすんじゃなかったぜ。ま、そのお方がカンカンでな、お前さんを処刑するって言い張ってんだとよ」


「あたし、何もしてないのに?」


 あっさりと殺されてしまうの?


 明琳はその台詞を言えず、代わりにぎゅっと両目を閉じた。嫌だ、死にたくない。死にたくない。その思えば思うほど、溢れ出る生気を感じる。うん、わたしは死ぬわけには行かないんだと言い聞かせて、鉄格子を握った。


「皇帝さまに会わせてください」


 牢番は頭に来ることにせせら笑った。


「なんで笑うんですか!」

「馬鹿言うなよ。俺は牢屋の番人だぜ? なら今生の別れで俺と熱い夜を過ごすか? それでいいなら、鍵は俺が持ってる。ほうら」


 重そうな音を立てて、牢屋の扉がゆっくりと開く。


「あ、開きました」


「だろ?……ふふふ…よく見ればあんた可愛いな…」


 なんだなんだ。


意味もわからないぱちくりと開いたままの羊の目に、欲に染まったオトコの顔が映る。


とぐらりと目の前の男が前のめりになり、白目を剝いて、倒れ掛かって来た。小柄な明琳は逃げる術がない。


 叫びを上げそうな口を手で押さえられ、目を閉じたままの足元がふわりと浮く感触がした。


「これで後宮にて穢れはなしか? 嘘ばかりを。あの門衛」


 キン、とまた剣を仕舞った音で明琳は眼を開け、すぐに片手が眼に当てられたが、しっかりと見てしまった。


男は口を貫かれ、鮮血の中で息絶えていた。


「あ…あぁ……」


「大丈夫? 少し我慢して」


 耳元で雅な芳香と共に優しい声が降る。明琳はゆっくりと目を開けた。


「暴れるんじゃない。准麗、ご苦労だった。後始末を」


 は、と礼服を着た男が跪く。明琳は震える体を更に小さくして、しっかりと抱き上げている女性の着物にしがみ付いていた。ここは空中だ。屋根が見える。有り得ないことに明琳は空を飛んでいた。横で女性が笑っている。これは夢だ、これは、夢だ…。


「お、降ろしてください…っ」


「いいから、大人しくしていな。しっかし大胆だねえ…まさか饅頭に毒とは」


「あ、あたし…饅頭に毒なんか……っ」


「でも光蘭帝は間違いなく倒れたよ?」


 その言葉に明琳が不安そうに遥媛を見上げる。遥媛公主は聖母のように優しく微笑み、明琳をのぞき込んだ。何となく明琳は視線を下に向けて、また戻した。


「それに、あたしは饅頭が嫌い。おうちに帰りたい……これは夢だ。わたし、死にたくない…!」


「心配しなくとも、きみがもう殺される事はないよ。元々あの発布は皇帝の命令じゃない。きみを殺したがってるのは淫乱な龍と、そいつに飼われた憐れな蝶々だけだ…言ってる側からお目見えか。しっかり捕まっておいで」


 言って彼女は天空から鋭い目で地上を睨んだ。その視線の先にはある男がいる。華仙界の白龍公主芙君と呼ばれる男である。長い髪を垂らし、白龍は低く呟いた。


「遥媛公主……」

「白龍公主……」


 二人は憎しみを込めて、同時に叫んだ。



「貴様に光蘭帝は渡さぬぞ!」

 

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