第三話:寝不足の光の皇帝

 聞けば毎年冬の雪が降ると、饅頭を宮殿に届け続けて来たとの祖父の話だ。どうして雪なの?と聞いても、答えは返ってこなかった。


 それでも、幼少に祖母が雪になると饅頭を入れた手籠を下げ、急いで出て行く後ろ姿は記憶にある。


 ――明琳、おまんじゅうを作るんだよ……。


それが祖母の最後の言葉。

 また涙が溢れてきた。早くしないと御饅頭が凍ってしまう。

 速足で歩いて、息を切らして街道を抜けたその向こうには。


「わあ…」


 視界が開けたそこには、白雪に覆われた銀に輝く大水法と、凍りかけた噴水があった。


 凍った水は太陽の耀を浴びて、きらきらと輝いていた。


 僅かな緑に覆いかぶさった白い雪。金の龍を模した灯篭に溶けかかっている雪の靄。よく行われる氷雪祭りよりずっと美しい雪の庭に明琳は思わず感嘆の声を上げて、口を押えた。美しい外観に加えて、なんて雪が綺麗なのだろう?


 そういえば、いつしか雪は止んでいる。


「豪華な庭園ですっ」


 雪が解ければ更に素晴らしいであろう木々と花たちは今は雪の中で眠っているが、明琳は不思議とその春の雪解けを瞼に浮かべる事が出来た。春の花々の咲き誇る間を色取り取りの蝶々が羽ばたき、蜜蜂が甘い蜜を零し、更に花たちは甘く咲き誇る……こんなに広い庭園だもの、きっと鮮やかで綺麗な事だろうと思う。


 明琳はうっとりと庭園に思いを馳せており、後ろににじり寄った人の気配など気づかない。その明琳を蔑むような声が庭園に響いた。


「――誰だ…私の目の前に小汚い小羊を連れ込んだ愚か者は。斬る」


 不機嫌を声にしたらこうなります、というような猛獣の唸るような声。


(ヒツジ?)と辺りを見回す。ややして呆れた嘆息の後、また声が響いた。



「そなただ、そなた。眠れぬ私への嫌がらせか」



 相手がちょい、と自分の頭の横で拳を作って見せる。目の下にはくっきりとした大きなクマが頓挫しており、顔色は青白い。


 ――なんか不機嫌そう…。



「誰か。庭園の羊を放り出せ。せっかくの遊戯をそなた、何をしでかした」


 眠そうに瞬きを繰り返した後、相手は背中を向けてしまった。その豪華な上掛けに刺繍された赤い鷹の紋章にようやく気付く。赤い鷹は皇族の証。そして上掛けの肩の部分に下げた金銀。気品のある高い鼻梁に、どことなく気高そうな瞳。


 ――もしかして皇帝さま?紅鷹国の第9代の皇帝光蘭帝さま?


 明琳は慌てて籠を差し出した。


「ほ、蓬莱都軒ほうらいとけんから来ました。お、御饅頭をお持ちしました!」


「ん?…饅頭? 母が好きだった?まだその風習は続いていたか」


 長い髪を鬱陶しそうに揺らし、相手は告げた。


「もうその饅頭を喜ぶ者はここにはおらぬ。……私には不要の産物だ。持って帰るがいい」


「そんな! おじいちゃんが腰を痛めて一生懸命作ったんですよ?」


「どこのジジイが作ろうと、私には関係がない。ならば捨てる」


 むっと明琳の眉が吊り上った。羊よろしく束ねた髪を揺らして、ずいっと前に進み出る。


「なんだ」


 更に短い腕を突き出した。


「受け取ってください。一生懸命作ったんです! 私達は毎日一生懸命なんです!」


 ぱち、と眼が僅かに見開かれた後、少しだけ驚いたように明琳を見下ろした。



「そなた、滅法小さいな」

「む、むか…っ…御饅頭! 置いて行きますからね!」


 相手が優雅な仕草で庭に降りて来た。雪だと言うのに裸足だ。不思議な事に、それがすごく似合っていて、銀の帯はまるで設えたように雪の中で映えていた。気品があるのに、野性的。そのギャップがまた更に…そして瞳。


 ――何て引き込まれそうな美しい瞳をしているのだろう。


(綺麗ですぅ)


 雪解けの太陽の下で、彼は少しだけ眼を見開いた。


「ああ、あまりに小さいから。羊が迷いこんだかと思ったら人間だったか」


「わ、わたしのことを言っていたんですか!」


「悪い。万年の寝不足のせいか、頭がはっきりせん。それに何故羊が喋る? 蓬莱饅頭は食したことがないが」


 言いながら皇帝の手は早速籠をまさぐっている。まさかと思って見ている目の前で、皇帝は不格好な饅頭を掴みあげた。


「あ! それは!」


 明琳が伸ばされた籠を引っ手繰るより早く、手が不格好な饅頭を口元に寄せ、光蘭帝は一気にそれをがぶりと獣のように口内に押し込める。


 ばっくん。


「何やら奇妙な味だ」


 皇族には似つかわしくない豪快な齧り方。もしゃもしゃとかみ砕いた後で、彼は眉を潜めて口元を押さえた。


「世界が歪む。そのくせ腹の底から暖かい何かが体内を満たし…………っ」


 ぐらりと大きな身体が伸し掛かるように倒れて来て、明琳は慌てふためいた。


「あ、あの…っ…重い…っ…え?」


 スースースー……耳元に届いたのは安らかな寝息である。


(寝てる…?)


そう、弟たちが寝付いた時のような。揺り起こすと、相手は僅かに目を開け、麗しいみずみずしい唇でぼそりと呟いた。



「私は光蘭帝……天命名を光蘭帝、名を…」


「こ、皇帝さま…?」


「如何にも」


光蘭帝はぞっとするほど美麗な目を弛ませた。

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