第七話「ピンクマダム、降臨!」

 いよいよ、勝負の時が来た。


テラス席の方から現れたピンクのネオン……いや、自分の妻の姿を見て覚悟は決まった。


 今日の打ち合わせ次第で、今後の日曜日が穏やかに過ごせるかどうかが決まる。下準備は完璧、のはずだ。


 先週の打ち合わせ終わり、妻に内容をプレゼンテーションするとかなりの好反応だった。その後も事あるごとに、「あの物件の夜景は一味違う」「まるでドラマのような内装だ」と、呪文のように唱えてきた。


その度に妻は喜び、自分の好きな俳優が出演しているドラマがいかに素晴らしいかを、私の四倍以上の時間をかけて説明してくるのだ。


普段なら話半分にタイミングを見計らって逃げるのだが、これも新居獲得と自分の休日を確保するためと、全身全霊を込めて話しを聞いてきた。


おかげでまったく見てもいないドラマのセリフを完璧に言えるようになったのだから、人間の記憶力には何歳になっても驚かされる。


「お待ちしておりました!」


 突然、咆哮のような声が聞こえたので、教頭は手に持っていたアイスコーヒーを落としそうになった。最高の接待を、と目の前の男には伝えていたが、どうやら気合いを入れ過ぎて空回りしているようだ。


 営業の男は、私にも見せたことがないような笑顔で妻を迎えて席へと案内する。間接的に妻と自分の立場の違いを見せられたような感じがして少し気分が下がったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


すべての意識をこの打ち合わせに集中させて、何としてでも妻の口から「YES!」の三文字を言わせることが私の使命なのだ。


「待たせたざますか?」


 典型的なマダム用語を放ち、まるで王様のような態度で妻はどさっとソファに座った。その重量を測るかのように、ソファが激しく上下する。


「いえいえいえ、滅相もございません!」


 男はこのホテルの従業員以上に深々と妻に頭を下げると、片手を上げてカフェのスタッフを呼んだ。そして妻の好きなフレーバーティーである、フランボワーズをすぐさま注文する。


この辺りの打ち合わせも、ばっちり仕込んでいる。大事を成すには、こういった小さな気配りが大切なのだ。


 営業の男は、「失礼します」と言って椅子に腰掛ける。予定通りの資料を取り出すと、そこにはマンションの夜景が全面的に写った写真と、その下には私がリクエストして追記させた、「今だけ七八〇〇万円!」の赤い文字が街の光以上に目立っていた。


右脳に訴えかける写真のイメージと、左脳に訴えかける具体的な数字を入れることで、序盤からペースを掴む作戦だ。


「ふん」と鼻を鳴らして妻はその資料を手に取ると、ページをぱらぱらとめくり始めた。もちろん内容構成も抜かりない。


まずは妻が最も重要視している夜景のベストスリーショットの紹介から始まり、最新型ジャグジー付き浴槽、乾燥機能付きウォシュレット、そして愛犬と一緒に過ごせるペットルームなど……。


妻のこだわりポイント三六項目が、優先順位の高いものから順に紹介される構成になっている。さらに、資料に載せきれなかった情報については、ベストなタイミングで営業の男が説明を加えてくれている。


 最初は横目で資料を見ていた妻も、ページをめくる度に、表情が変わっていくのが手に取るようにわかった。


今日の打ち合わせのために、私がどれほどこの男と綿密な計画を立てたのか、きっと妻は想像もできないだろう。まるでスパイ映画さながらのリサーチを重ね、そして長年連れ添ってきた経験から、最も効果的な作戦を作り上げたのだ。


 私の思惑通り、妻が一枚一枚の資料を見ている時間は徐々に長くなり、途中からは相槌やひとり言を呟き始めた。

 

 よし、ここであのページが来る!


 妻の興味が最高潮に高まったのを見計らうように最後のページが現れて、そこには自分が指示して付け加えた決め手のフレーズ、「愛ある夜景を」が大きく記されていた。


あれだけ散々聞かされたドラマの名セリフを、勝手に拝借させてもらったのだ。


理想に見合った物件条件。さらには好きなドラマのシーンも思い出し、妻の顔には「YES!」と言わんばかりの笑みが溢れていた。いつ以来だろうか、こんな穏やかな妻の姿を見たのは。


 何もかも完璧だ。


 教頭は満足そうに大きく頷くと、営業の男に次の作戦のアイコンタクトを送った。すると男は咳払いをして、少し話しづらそうな面持ちを作った。


「以上が今回の物件についてのご紹介になるのですが、何分人気のある物件でして……。理想のお部屋を確保させて頂くためにも、来週にはお返事が頂けないかと……」


 再び男は咳払いすると私を見てきた。話し方、リズム、そして表情までもが打ち合わせ通りの演技に、「OK」というメッセージを込めてゆっくり頷く。


妻を見ると、予想通り目を瞑って「そうざますか」と唸っていた。これは、まんざらでもない時に見せる仕草の一つだ。そして魔女のようなアイシャドーを塗った目がかっと開かれたと思いきや、私に向かって言ってきた。


「こんなにも素敵な物件を見つけてくるなんて……見直したざますわ、あなた」


 妻のうっとりした視線に、若干の寒気を背中に感じなからも、「君に喜んでもらえて嬉しいよ」とお決まりのセリフを返す。


これでようやく平和な休日が訪れる。有名企業の舵を取る妻とはいえ、本気を出した戦略家の私に敵うわけないのだ。


「なに、これしきのこと。君のわがままにも、私なら全て答えよう」


 自分の懐の広さを伝えるために言ったつもりだった。が、直後の妻の顔を見て、私は言葉の選択を誤ったことに気付いた。


「…………わたくしのわがまま?」


 ただならぬ気配をいち早く感じ取ったのか、営業の男が口をぱくぱくさせながら目を泳がせている。それを見て、自分が感じた危機感が間違いではないことを確信した。


「あなた……わたくしのことをわがままと思ってらっしゃるざますか?」


 鋭い二つの眼光が自分を突き刺す。紫ともピンクとも言えぬアイシャドーが、その目に悪魔的な演出を加えていた。


「あーいや……そ、そういう意味ではない。断じて、違う。そう、違うんだ」


 クーラーが効いて快適なはずの店内で、額から汗が流れ始めていた。これは……非常にまずい。急いで妻の機嫌を戻さなければ、取り返しのつかないことになる。


「とりあえず落ち着こう」と出鱈目に言ってしまったことも災いして、「わたくしは落ち着いているざますわ!」と妻は雄叫びのように叫ぶと、立ち上がってこちらを見下ろした。


静まり返った店内。その怒りに満ちた目に、子犬のように怯えている自分が映る。


「あなたはこの条件を、全部わたくしのわがままだと思っているざますね!」


 あまりの迫力に声は出ず、金魚のように口が動くだけだが、貰えるのは餌ではなく妻の怒りだ。自分自身の発言で余計にヒートアップしてきたのか、悪魔と化した妻の言葉は止まらず、口調まで荒々しくなってきた。


「だったらあなたの条件も言うざますよ! 七千万だろうが、八千万になろうが叶えてやるざます。ただし、その結果どこかの誰かさんが死ぬ思いになることは、覚悟しておくざますよ!」


 脅しじゃないざます! と付け加えた妻を見て、いつか考えていた遺書を、そろそろ本気で書かないといけないのではと思った。


目の前を見ると、営業の男は完全に怯えていて膝が震えている。テーブルを伝わってくるその振動が、自分の恐怖をますます助長させる。やめろ、その膝を止めてくれ。


 妻はその後も、思いつく限りの罵倒を私に浴びせてきた。もはやそこに普段のセレブさは感じられず、ヤクザまがいの言葉まで出てくる始末。そうだ、うちの妻はこう見えても、若い時は元ヤンだったことを今になって思い出した。


怒濤に押し寄せる妻の言葉を、私は必死になって理解を示そうと、ただひたすらに謝り相槌を打って聞いていた。どうしてこんなことになってしまったのだ? 私の考えた作戦は完璧だったはず……。


気まぐれに発言してしまった一言で、こんな事態になってしまったことに今更になって後悔した。


 それでも一度築いたチャンスを失うまいと私は必死なって妻を評し、讃え、そして文字通り、拝んだ。


その甲斐あってか、気を利かせた店員が無言で水を運んできた頃には、妻の怒りも収まっていた。冷や汗と喋り続けて失った水分を取り戻そうと、教頭は一気に水を飲んだ。


そして疲れ切った両目を、全く話さなくなった目の前の男に向けると、「最後は頼んだ」と無言のメッセージを送った。


「そ……そ、それでは来週の日曜日に、最終の打ち合わせということで……よ、よろしいでしょうか?」


 男の上ずった声に、冷静さを取り戻している妻は「構わないざますよ」と何食わぬ顔で返事をした。

 

 とりあえず、今年一番の災害は去ったようだ。


 残ったフランボワーズを味わう妻の姿を見て、教頭はもう二度と地雷は踏むまいと固く決意した。


一時はどうなるかと思ったが、これで残すは来週の打ち合わせのみだ。少しでも希望の光を見出そうとするかのように、教頭は目を細めて眩しいテラス席を眺めていた。

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初芝オーシャンズ! 〜ファースト・ミッション〜 もちお @isshi

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