Mの悲劇
先輩。ちょっと、みんな変じゃないですか?
重たく連なる雲の隙間から月が一瞬だけ顔を覗かせると、その光は窓から遠慮がちに差し込み壁に出来た赤黒くグロテスクな紋様を妙に神々しく浮かびあがらせた。その紋様は壁の手前に置かれた机に備え付けられた椅子にもたれ掛かる男の頭部の後ろに、上部が大きくなっている歪な円形を描きだしていた。
描きだしているとはいっても、それは偶然の産物であり、描こうとして描いたものではない。だからこそ余計に神々しく見えるのかもしれないが、見る人間によって印象は様々なのだろう。ヌユンはそれを見て声を失っていたが、ユイはそれを見て絶叫した。その声を聞いて満足でもしたのか、再び月は雲に隠れていく。
梅雨が明けたにも関わらず、雨が激しく降り、風が窓を強く打つ。そんな六月の終わりが目前に迫った日に、ユイに訪れた衝撃。目の前の惨状。それは今日の集いの主催者であるマーフの血液と脳漿。そして仮面ごと打ち抜かれ額に空洞を穿たれたマーフの死体が一つ、こちらを向いて座っている光景であった。
ユイは絶叫しながらも、周囲をしっかりと観察していた。壁に付着した血液と
そして不自然に部屋のど真ん中に置かれた、高級そうではあるがリプロダクト品と思しきボールチェアが一つ。どこのメーカーのものかは分からないがボディがなにかしらの金属で出来ており、この館の中では妙にアンバランスで異質といわざるを得ない。更にそのボールチェアが異質さを増幅させる要因となっているのが、ボディの中。人間が座る位置に設置されている、本来そこにあるはずのクッションだったり張り付けられた布だったりが全て取っ払われている。そして剥き出しになったボディの内側表面に見える削れたような傷。その傷は上から下まで一直線に付いていて、まるでボールチェアを左右で分断しようとしているようにも思えた。
そしてマーフの手に握られた拳銃。
ユイはそれらを一瞬の内で
ヌユンはユイの絶叫の陰でこそりと何かを呟いたが、さすがのユイもその呟きがなんであったのかを聞きとることは出来なかった。
ユイの絶叫を聞きつけて今日の集いに参加していた人間たちが一人、また一人と駆けつけてくる。彼らはマーフが死んでいる姿を見ると、皆一様に唇の端を上げた。ユイはそれを見逃さなかった。
そしてマーフが付けた仮面も、唇の端を上げ不気味に微笑んでいた。
「主催者からの挑戦状……という事ではないかと、儂は思うのだが如何だろう?」
その場にいる全員が、声の主であるアイダへと目をやる。その全員からの視線を一身に受けようとアイダは怯む事などなく、それどころか一人また一人と自分から視線を合わせていき向き合おうとする姿はさすが政界の重鎮といった風情であった。ユイはアイダの不謹慎な台詞ですら何故か説得力があるように感じたが、実際に人が死んでいるのにと思い直すと怒りと不快さが入り交じった感情が胸にこみ上げてきた。
「
そんなユイの気持ちなど構いもせずに、無駄に多くの装飾品を身に付けた名称不明の女がいった。ユイは女の表情を窺う。一見した様子ではふざけている訳ではなく、本気でこの事件の謎をこの女自らで解いてみせようとしているのだろう。
「悪くはないのですが、僕も探偵役がいいですね。ワトソン君も嫌いではないですが、やはり探偵は憧れですから」
エトーはそういった。彼もまたふざけている風には見えない。ここまでの三人の様子や言動から、ユイは嫌な予感が胸の中で靄がかかるように広がっていくのを感じた。
「先輩。ちょっと、みんな変じゃないですか?」
そして、それはヌユンも同じようだ。まだ口を開いていない二人の男女を交互に見るヌユンの目は、何度も瞬きを繰り返している。ユイは、きっと……と思う。
「まあ。それなら、わたしも探偵がいいかも。あなただけが楽しもうなんてずるいわ」
オキノは名称不明の女の肩に手を置く。
「そんな事いってる間に、みんなさっさとトリックでも見破れよ? 今のところ俺が一番探偵に近いんじゃねーかな?」
やはり有名舞台女優のオキノも、クアルトと名乗ったデイ・トレーダーの男も、本気でこれを小説の中の事件だとでも思っているのか、殺されたマーフを推理の対象としか考えていない事が見て取れた。
更にいうと、この内の誰かがマーフを殺している可能性が高いはずなのに。
「儂は部屋でゆっくりと推理させてもらおうかの」
アイダは部屋を出て行こうとしている。もしアイダが犯人だとしたら、証拠を隠し持っている可能性もある。なんならそれを隠されてしまう事だってあり得るだろう。ユイはその点に気付き、誰よりも早くアイダを引き留めた。
「ちょっと待ってください!!」
この場の全員の目がユイを射抜くのでユイは尻込みしてしまう。しかし、ここで引いては意味がないと自らを鼓舞すした。
「みなさん、一回考え直してみてください。これが小説の出来事じゃなくて実際の殺人だってちゃんと分かっていますか? さっきから探偵役だとかワトソンだとか、そんなふざけた事いって、マーフさんに失礼だと思わないんですか? 確かに犯人は見付けないとダメだとボクも思います。だけど人として最初にしないといけないのは、マーフさんを弔う事なんじゃないですか? そんな素振りの一つも見せないなんて絶対におかしいと思います!!」
ユイは後半、怒りに任せて喋っていた。
「そういう、貴様はどうなんだ?」
その怒りの炎を即座に消すかの如く、横から水をかけるような冷たい声でアイダがいうと、それに賛同するように一同が頷いてみせる。
そしてクアルトが口を開いた。
「えらそうな事いってるけど、人が死ぬ事を一番考えてんのは、あんたじゃねえの? 小説の中で何人殺した? いってみろよ」
「でも、それは小説だから」
「現実じゃなかったら何人でも殺してんだろ? それじゃあ一番殺しに関して詳しいのはあんただろ? それに、今一番怪しいのはあんたとお友達だって事分かってる? あんたら二人でトイレ行ってた間、俺たちずーっと食堂にいたからな? アリバイがないのはあんたらだけなんだよ」
ユイは言葉が出なかった。それも仕方ないだろう。自分よりも年上の人間五人に
完全なアウェイというのはこういう状態の事をいうのだろう。ユイは黙り込んでしまい何もいわずに一同をちらちらと見ている。その様子に気を良くしたのか、下品な笑みを浮かべるクアルト。
「なんにもいえなくなってやがる。そんな事なら最初からでしゃばらねーで黙ってりゃいいんだよチビが」
「ねえ、クアルトさん。チビとかは今関係なくないですか? 撤回して先輩に謝ってくれますか?」
そういって剣呑な目をしてみせたのはヌユンだった。
「なんだお前? そのチビの恋人かなにか? まあそんな事あるわけねーか」
へらへらと馬鹿にしたような態度を取るクアルトを、ぞっとするような目で睨みつけるヌユン。
するとクアルトはさっと目を逸らして、「つまんねーの」と一言吐き捨てると部屋を出ていこうとした。
「待て」
その言葉の後に咳払いをして、アイダは場を取り仕切る。
「若者同士の諍いなど日常茶飯事。これといって気にする事もあるまい。しかしだ、このまま部屋を出て行ってもらっては困る。もしお前が犯人だったら証拠を隠されるかもしれんからな。儂は犯人ではないといい切れるし、なにより部屋で一人じっくりと推理がしたい。その女が儂を引き留めたのも、証拠を隠す可能性があると踏んでの事だとみえる。そこでだ、そこの
扉の横に立ち尽くしていたジャックがアイダの前に移動する。
「それじゃあ、やらせてもらうな。あと、気軽にジャックって呼んでくれてええんやで」
茶目っ気を出すジャックをアイダは相手にしない。機械なので溜息を吐くなんて事は無いが、少し残念さが滲み出しているようなそんな風に思えた。しかし、それはユイの勘違いだろう。
人間でいうと胸に当たる部分から、ジャックは小さいながらも
「なんも問題は見当たらへんわ」
ジャックが振り返り、一同を見回していう。
「そういう事だ。それでは、儂は失礼するよ」
アイダは姿勢良く大股に歩き、部屋を後にした。それに続くように、オキノはジャックへ近付く。
「それじゃあ、わたしも透過をお願いしていいかしら? わたしも、部屋で一人、ゆっくり推理する方が性にあっているし」
「ちょっと待ってや。すぐ透過するわ」
先程と同じように、オキノへと光を照射する。こちらも問題はなかったようで、頷くジャックの姿を見てオキノは、「それじゃあ」というと、舞台女優らしく優雅な所作で廊下へと向かっていく。
「ちょっと! ヴァイオレットちゃん、一緒に考えないんですの?」
名称不明の女が焦ったようにいうが、オキノはそれを意に介さず優雅に笑って、「ミステリィは一人で考えた方が楽しいわ」といい残し廊下の先へと姿を消した。
その後、先程部屋から出て行こうとしたクアルトが透過を受けた。透過の結果、何も問題が無いと分かるとすぐに部屋を後にした。
アイダとオキノ、クアルトが部屋から去り、残されたのは五人——四人と一体——。
ライオネル・エトー。
名称不明の女。
ジャック・コステロ。
そしてユイと、その同行者であるヌユン。
残ったメンバーはオキノに続いて部屋を出る事はなく、それぞれがお互いを観察するように視線を彷徨わせている。このままここにいても何も変わらないなと思い、ユイは勇気を出して、「あの……」と小さい声を上げる。
「今ここに残っている人たちで食堂に移動しませんか? いつまでもここにいたところで何の解決にもならないと思うんです。まずは警察に連絡しましょう。それと犯人がこの中にいる可能性もあるだろうし、一人にはならない方が良んじゃないかとボクは思うんですけど……」
エトーはにこにこと笑いながら、「まあ妥当なところじゃないですか」と女に向かっていう。女もまた、「まあ古典推理小説でもよくある展開ですわね。よろしくてよ」と同意する。
「それやったら、ここには警察が来るまで誰も入らんように。警察には自分から連絡しとくで、とりあえずは食堂まで行こか」
窓を強く打つ雨の音が妙に耳に残るのは、鋭敏になっている神経のせいなのかもしれない。重たく連なる雲の隙間より、月が再び顔を覗かせる事はあるのだろうか。
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