どこの馬の骨か知れない相手なんですのよ!

 ジャックが紹介するそれは、円柱型に形取られた鯛とハーブのタルタル——きっとセルクルを使ってその形に仕上げたのだろう——の上に、人参と胡瓜が散らされていて、その横にはイタリアンパセリが添えられている。ただそれだけの事なのに、ユイの目にはそれがとても美しく見えた。円柱型のそれは染み出るオリーブオイルで海を作り出している。そこに浮かぶ誰の侵入も許さない絶壁の島には、生命の強さすら滲ます緑とオレンジによる色彩の妙があった。

 前人未踏のその地に一歩踏み入るユイ。スプーンがそっと地表をえぐり取る。それは少し震えながらユイの口腔内へとそれがもともと決められた道程であるかのように、迷いなくすっと落とし込まれていった。

 ユイは再び感動する。見た目だけではなく、味にも色彩が存在しているのではないかと勘違いしてしまう程に、それぞれが存在感を主張しながらも手を取り合って喉を通り抜けていく。素材一つ一つの味が良いのだろうとは思うが、それが組み合わさると足し算ではなく掛け算で、いや、累乗で美味しさが増えていくのをユイは実感していた。

「ああ、私はなんて幸せなんだろう」

 ユイは心の中でそう思っただけのつもりだったが、それは無意識に口を衝いて出ていた。恥ずかしさを覚え頬を赤らめる。

「そうですね」そういってからヌユンは唇の端を片側だけ吊り上げていう。

「しかもこれタダなんですよね! 本当に最高としかいいようがないですよ! 先輩が先輩で良かったと初めて思いました!!」

「いや、さすがに一言余計なんだけど」

「じょうだんですじょうだん」

「すごい棒読みなんだけど」

「きにしないきにしない」

「もうなんなのさ。全くもう」

 ヌユンはくすくすと笑っている。ユイは怒ったり不快になったりした訳ではないが、あくまでも建て前上の行動としてぷいっとそっぽを向いてみせた。ヌユンは相変わらず笑い続けている。

 自分の行動一つで笑顔になってくれる人が居る事にユイは幸せを感じた。幸せになると人間は会話をしたくなるのかもしれない。ユイからは自然となんてこともない言葉が湧き出してくる。

「さっきのも美味しかったけど、これもまた絶品だよね。もうただただ美味しい」

「本当に美味しいですね。あのマーフって人は、毎日こんな食事を食べてるんですかね?」

「ボクだって色々食べ歩いたりしてるけど、こんなに美味しい料理が毎日食べられるっていうなら、もう家から一歩だって出ない!! 断言してもいいよ。絶対に家から出ないよボクは!!」

「いやいや、なんの決意表明してるんですか。安心して家から出て下さい。先輩の家でこのレベルの料理が出る事はありませんから」

「ボクは将来、ミシュランで星を取る店のシェフと結婚するって決めたよ」

「あまりにも唐突すぎますから!!」


 なんやかんやとくだらない会話を続けて合間に料理を食べていると、気付けば皿の上にあった絶壁の島は姿を消していた。すると今回も見計らったように皿が下げられた。

「次はあれじゃない?」

 ユイが確信をもっていう【あれ】を、ジャックが持ってくる。

「次はジャガイモのポタージュや」

「待ってました」

「待ってました」

 ユイとヌユンは揃って声を上げた。

 目の前に現れたジャガイモのポタージュは先程廊下で嗅いだものと同じ匂いであったが、近くにあるのでより濃密な芳香を鼻腔へと運んできた。

 ユイとヌユンはその白く濁った海に身を投じる。海は二人を包み込むように体を温かくし、そして胃と心を同時に満たしていく。その海は二人を離さない。いや、海というよりは沼と表現した方がより真に迫っているかもしれない。その沼はずぶずぶと嵌まりこんでいくようにユイを取り込んでいく。匂いから想像した味の遙か先までの魅力を内包したそれは、二人の中に幸福の先の至高を与えた。

 ユイは興奮気味にポタージュについて語り出す。

「舌にまったりと残るけどくどさは無くて、濃厚なのに喉に引っかからないこの感じ。これはまさに最高峰のポタージュって感じだよ! なかなか出会えないと思うなぁ、これには。もう料理を超えて芸術といえる一品に仕上がってるね!」

「おい、さっきから喧しいぞ!」

 食堂に響く威圧感のある声。

 ユイはすくみ上がり喋るのを止めると、声の主に目をやる。食事をしている間に目が慣れてきていて、照明があまり当たっていない暗い部分もある程度は見えるようになっていた。視線の先には見覚えのある顔があった。見間違えかもしれないとユイは思ったが、やっぱり見間違いではないと気付く。

 その男は政治家のアイダ・フータローだった。政治界の重鎮であり、国のトップとも昔から付き合いがあるだけでなく、裏では暴力団とも繋がりがあるともいわれている為に、ニホンの黒幕などといわれる事もある男。

 それがユイと同じテーブルで同じ料理を食べている。ここは本来自分たちのような若造が来る場所ではないのだとユイは思い知らされた。ユイはアイダに聞こえるかどうか分からないが小さな声で、「すみません……」と謝って静かにポタージュを啜る事に専念した。ヌユンも右へ倣えで、「すみませんでした」と言葉にするが、どこか不満気であるように思える。

「今時の若造は静かに飯も食えんのか」

 アイダは怒りが収まらないのか、ぶつぶつと小言をいい続けている。

 ぶつぶつ。

 ぶつぶつと。


 それからの料理は味こそ美味しくはあったが、何かが物足りなかった。トマトのカプレーゼを食べた時、鯛のタルタルガトー仕立てを食べた時、ジャガイモのポタージュを飲んだ時にはあったはずの何かは今ここからはすっぽりと抜け落ちていた。

 ユイはそれを悲しく思うのと同時にヌユンをちらと見たが、物足りなさが補完される事はなかった。それを少しでも紛らわせようと、ユイは改めて周囲の人間に目をやる。今なら周囲の人間をある程度は観察出来たからだ。

 ユイの正面にはマーフと名乗った仮面の男が座っている。彼はどうやって料理を食べるのだろうかとユイは思っていたのだが、なんて事はなかった。単純に仮面の顎の部分を鼻の下辺りまで引き上げて、口を露わにさせているのだから。拍子抜けともいえるが、一方で何故仮面を着用し続ける必要があるのかと新たな興味がユイの心に飛来した。ミステリィで仮面の男なんて存在がいれば入れ替わりがありそうだなとぼんやり考えながら、視線をマーフの左側に移行させた。

 そこにはアイダが座っている。恰幅の良い体を豪奢な椅子にどんと置いていて、それはどことなく熊のような凶暴な獣が檻の中に押し込まれているような滑稽さに似た感情をユイに抱かせた。

 そして視線をマーフの右側へ。そこに座る男は、丁度空いた皿からユイに視線を移してにこりと笑った。ユイも微笑み返す。その人当たりの良さそうな顔から、まさかとユイは思った。彼は紛れもなく映像作家のライオネル・エトーだった。時代遅れといわれたフィルムの魔力で名声を取り戻した男。ユイも彼の作品はいくつか見た事があった。それは彼もまた、ユイにとっては住む世界の違う相手だという事を強く意識させた。

 マーフは、ユイがきょろきょろと周囲の人間を観察しているのに気付いた。

「そういえば〜」仰々しく両手を広げていう。

「ユイ・ロクメイカン様とヌユン・A・オーエ様に〜、みなさまをご紹介していませんでしたね〜。失礼しました〜。まだお食事をなさっている方もいらっしゃいますので〜、僭越ではありますが私の方からご紹介させて頂きま〜す」

「あっ、ありがとうございます」

 ユイは軽く頭を下げる。それとほぼ同時に若い女の声がした。

「ちょっとよろしいかしら? わたくしはそんな女に名前なんて教えたくなくてよ。わざわざ身分を明かす必要なんてないんじゃなくて?」

 声のした方、ユイと同じ並びの向かって左側の方に目を向ける。金色の髪をくるくると巻いてふんわりとさせたいかにも金持ちそうな女は、ユイと同様に華奢な体躯で身長も低い為に比較的幼く見える容姿だった。しかしユイと違って胸は大きく顔も猫というよりは犬的な印象を受ける。ユイとはまた違ったタイプの愛嬌を持っていた。しかしその愛嬌とは異なり、言葉には棘があるが。

「それでは〜、お名前は後々仲良くなってからということで〜。他の方はご紹介させて頂いてもよろしいでしょ〜か?」

 マーフの発言に反応するものもいれば、何の反応も示さないものもちらほらと見受けられる。反応を示すものも頷く程度の小さな反応ではあるが、犬のような印象を受ける彼女とは違い反対までするものはいないようだ。


 古典推理小説愛好者の集いが定期的に開催されているというのはインターネット上の噂などで目にした事があった——そして実際に参加している——ユイだが、果たして本当に定期的に開催されているのかな? と思えるほどに、この場の空気はひりついていて、協調性や仲間意識のようなものはほとんど感じられなかった。

 一部を除いて。

「あらあら、とても刺々しいじゃない、あなたらしいといえばらしいけど」

 その刺々しい犬のような女の手前、ユイの左側一番近いところ——とはいっても間には二メートルほどの距離がある——にいるのは美しい大人の女性。この顔にもユイは見覚えがあった。

 彼女は舞台女優のヴァイオレット・オキノだった。普段演劇やミュージカルなどのいわゆる生の舞台作品を見る事がほぼ無い、そんなユイでも知っているビッグネームの女優が隣にいたのだ。

「うわあ。えっ? 本物のオキノさん? えっ、すごい綺麗だぁ」

 ユイは小市民らしい反応をする。

「ふふ、ありがとうね、ミステリィ作家さん」

「ヴァイオレットちゃん! なに仲良くしてるんですの? どこの馬の骨か知れない相手なんですのよ!」

 犬のような女は、オキノになんの気兼ねもなくきゃんきゃんと喚きちらす。友人と呼ぶには年が離れているようにも思えるが、友好関係に年齢の差なんて関係ないのかもとユイは思った。しかし友達があまり多いとはいえないので、年の離れた友人という存在に対して全くぴんときてはいないのだが。

「そんないい方しなくてもいいじゃない。ねえ?」

 オキノは大人の余裕を纏った笑顔でユイを見る。演技なのか素なのか分からないその笑顔に、ユイはぎこちない笑顔で答える事しか出来なかった。

 オキノがユイに笑顔を向けたからなのか、一層敵意を剥き出しにして犬に似た女はユイを見ている。

 ユイはそんな犬女から目を逸らすとマーフを見た。マーフは何が楽しいのかは分からないが、ははははと声を食堂に響かせて笑っている。笑っているといっても表情は仮面に隠れていて見えていないので、声だけでの判断ではある事を付け加えておこう。

「結構けっこ〜。若い女性たちの楽しそ〜な声というのは良いものですね〜」なんとも的外れな感想を口にするマーフは続ける。

「ご存じかもしれませんが〜、そちらの女性はヴァイオレット・オキノさ〜ん。女優さんで〜す。隣の女性……名前は控えさせていただきますが〜、彼女とオキノさんは腐れ縁というやつみたいで〜す。そうですよね〜、オキノさ〜ん?」

「そうね。良くも悪くもって感じではあるけど」

 オキノはくつくつと笑った。

 犬女は、「ちょっと何笑ってるんですの!」とオキノに突っかかる。


 アイダ以外の参加者たちも有名な人物が多く、先にユイが気付いていた通りの人物たちであったが、犬女とは別に男性の中にも一人だけ誰なのか分からない人物がいた。

 ユイよりは年上に見えるが若い部類に入る男で、ユイとヌユンを舐めるような目で見ている。その男はデイ・トレーダーのサイ・クアルトというらしく、見た目からはちゃらちゃらとした印象を受けたが、特になにかを語ったりした訳ではないので、それは想像の域を出ない。ユイは人の名前を覚えるのがどうも苦手なので——それもこれも、欧米の真似をして姓名の順序を入れ替えるなどと国が決めたせいだ——今一度この場にいるメンバーの事を頭の中で整理し始めた。

 最後に出てきた葡萄のデザートテリーヌをつつきながら。

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