これただのカプレーゼじゃないね

 ジャックが置いていった薬の効果は覿面てきめんで、ユイは一〇分もしない内に体調が良くなっていた。しかしヌユンの余計な言葉のせいで機嫌は悪い。

「ヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌い」

「すみませんって何度も謝ったじゃないですか……もう勘弁してくださいよ」

 食堂に向かう道すがら、ずっと呪詛の言葉を唱え続けるユイに謝り続けてヌユンはへろへろになっていた。

「でもこればっかりはヌユン・A・オーエが悪いと思うなあ。女性は繊細やって知ってるやろ? それやのに気にしとる事いうたらあかんわ。ヌユン・A・オーエやって気にしとる事あるやろ? それいわれたら嫌やろ? もう大人なんやから相手の気持ちを汲み取ったらんとあかんで?」

 そんなヌユンに追い打ちをかけるジャック。

「それならジャックこそ気持ちを汲み取ってくれてもいいじゃないですか。今落ち込んでるって分かりますよね?」

「自分は機械やからええねん。これは人間の話やから」

 ヌユンがうなだれるのを見て、機械でありながら楽しそうに笑うジャック。

「そうだそうだ! ジャックはいいんだよ! それにボクだって好きでこんな体に生まれてきたわけじゃないんだからね!」

 ユイはない胸を仰け反らせて、威張ったようにしながらそういった。


 三人——二人と一体——は、がやがやとやかましく廊下を食堂の方に進んでいく。廊下には食事のいい匂いが充満していて、ユイは口内にあふれ出すよだれを音を立てないように飲み込んだ。しかしそれは飲み込んでも飲み込んでも、止めどなくあふれてくる。

ジャガイモの甘みが飽和して空気として逃げ出した中に見え隠れするバターの芳醇さが、獣臭さの少ない鶏と人参や玉ねぎなど数多の野菜から丁寧に抽出されたであろうブイヨンと混ざり合う芳香。ジャガイモのポタージュの匂いだ。これだけでスープの前に提供されるアミューズとオードブルも相当なレベルのものだろうと容易に想像出来る。ユイは知らず知らず早足になっていた。それはヌユンも同じようでユイの呪詛の言葉でへろへろだったのが嘘のように今は元気になって歩を進めるので、ジャックだけペースが変わらず結果として二人はジャックを押すような形になった。

「どないしたんや二人とも。そんなに押さんでええやろ」

「だって! ジャガイモの! 甘い匂いが! もうそこまで、我慢できない! そうだよねヌユン!」

「そうですよね先輩! このブイヨンの奥深い匂いは絶対おいしいに決まってます! 早くこの匂いを口腔から鼻腔まで送り届けたいです!!」

 興奮気味に語る二人は共になかなかの美食家である。

ヌユンの実家は小さいながらも有名なレストランで、美食電子書籍グルメブックに何度も掲載されたことがあるほどだった。そこの料理を作る両親の料理を小さな頃から食べているヌユンの舌は当然肥えているといっていい。

ユイは特に家柄がどうのといった事はないのだが、休日に美味しいと評判のカフェやレストランなどに赴くのが趣味であり、昨年は一年間でなんと三〇〇件程の店を巡っている。そんな事もあり職場の美食女王グルメ・クイーンを自称していたユイは、ヌユンの登場以来その座を死守するべく日々邁進しているのだが、それは今は関係がない話なので詳しい内容については割愛する。

 二人はジャックを急かしながら食堂へと歩みを進め、先程いた部屋よりも大きな、それでいて豪奢な意匠をまとう扉を見る。

「この先にジャガイモの甘みが……」

「この先にブイヨンの奥深さが……」

 ジャックはそんな二人の様子を見て、私生活補助労働機らしく、ゲストを喜ばせようとしているのか急いで扉を開けた。


 扉の先には色彩豊かで空腹を促進させるような芳香を放つ料理の数々……ではなく、六人の人間がいた。

 人数のわりに大きすぎるのではないかと思えるサイズのテーブルが大仰なほど目立つようにライトを当てられ、部屋のど真ん中で無理矢理に存在感を放つように設置されている。テーブルに当てられた照明が明るすぎる為、ユイからはそこに座る六人の顔はよく見えない。

 ユイが、どこに座ればいいの? と尋ねようとしてジャックの方を向いたとき、六人の内の誰かの声がした。

「どっちだ?」

 それを皮切りに、六人が同時に喋り出した。

「あれが」「本物ですの?」「てっきりおばあさんが来るのかと思ってましたよ」「分不相応じゃないか?」「あら、かわいらしくて良いじゃない」「ゲストなんだから、分不相応であっても構わないとは思います」「それで、結局どっちのやつなんだ?」「あの小学生みたいなやつだったりしてな」「それはなかろう」「まあどっちでもいいですわ」「どっちでも良いということはなかろう」

そんなざわめきを掻き消すように、この中では圧倒的に通りの良い声が食堂に響き渡った。

「皆さん、落ち着いてくださ〜い。ユイ・ロクメイカン様の事が気になるのはとても、とても!! 分かります。ですが!! 彼女は私たちより若くこういった場に慣れてはいない事と思われま〜す。まずはこの場に慣れていただき、私たちの集まりの趣旨を理解していただく事が先決なのではないでしょ〜か? ユイ・ロクメイカン様、失礼致しました〜。皆さんあなたの書く古典推理小説のファンであるが故に、どうしてもあなたの事が気になって仕方ないのですよ〜。う〜ん!! さあ、まずは食事をゆっくりと食べていただいて〜、交流を深めようではありませんか!! ご友人のヌユン・A・オーエ様もこの機会に是非ぜ〜ひ、古典推理小説への造詣を深めていただければ幸いで御座いま〜す。ジャック・コステロ、お二人をお席にご案内しなさ〜い」立ち上がり間延びするような口調で長々と語ったあと、付け足すように男は言った。

「申し遅れました〜。私があなたをお呼びさせて頂いたチューン・マーフと申します〜。以後お見知りおきくださいませ〜」

 テーブルを照らしている明るい光と深いお辞儀のせいで、ユイからはマーフと名乗る男の顔はいまだ確認出来なかった。ユイは少しだけ膝を落としてマーフの顔を覗き込もうとする。と同時にマーフは顔を上げた。

 テーブルを照らす光とは対照的な、薄暗がりの中に奇妙な仮面が浮かび上がった。その仮面はアフリカや東南アジアの民族が儀式の時に身につけるような、日本人からするとなにをモチーフにしているのか分からないタイプの、まるで魔物や悪魔をごちゃ混ぜにしたようなデザインが施されていた。この場に相応しくないのは私じゃなくて主催者自身なんじゃないの? と言いたげな視線でマーフを見るユイ。

「ユイ・ロクメイカン。ヌユン・A・オーエ。席はこっちやで」

 ジャックは訝しげな視線を向けるユイを特に気にする事もなく、当然の作業の一環として席に案内する。とりあえず席に着くユイ。そしてその右隣に座るヌユン。席に着いたものの好奇の視線に晒されているせいで居心地が悪い。それはヌユンも同じなのか、若干俯き気味になりテーブルを見るともなく見ている。

 マーフは二人の様子などお構いなしに、嬉しそうな声で高らかにいう。

「さあさあ〜。お二人も席に着いた事で〜す。楽しい楽しい古典推理小説の宴を開催致しましょ〜。かんぱ〜い」

 その言葉を合図にして、テーブルの周囲を囲んでいたメンバーは、食前酒が入ったシェリーグラスを持った手を軽く上げる。ユイとヌユンはそれを見て、急いでシェリーグラスを持つと、他の者と同様に軽く手を上げた。


周囲にある豪奢な扉が一斉に開いた。そして美味である事を主張するようにかぐわしい香りを放つ料理を、配膳専用労働機ウェイターが二人の後ろに運んでくる。蓋がしてあり中には何が入っているのかはまだ分からない。

 ユイは思った事をこそっとヌユンに伝える。

「あんまり歓迎されてる感じじゃないみたいだけど、料理だけは存分に味わって食べようね。料理にはなんの罪もないんだから」

「あっ、自分はもともとそのつもりですよ」

 ヌユンはさも当然といった感じで、いってのける。

「さっすがヌユン!!」

 きゃっきゃと楽しむ二人の後ろでジャックがごそごそと動いている。そして一皿目の料理が後方より姿を現し、ユイの前に置かれた。それと同時にジャックがいう。

「アミューズは、トマトのカプレーゼや」

 次にもう一つ同じものがヌユンの前へ置かれると、ユイとヌユンは顔を見合わしてぱっと笑顔になった。

 急いで乾杯に合わせた為にまだ口を付けていなかったシェリーグラスの中には、薄く透き通りほぼ無色に近いが微かな金色を身に纏った上品な液体がきつすぎない発泡をグラスの中で遺憾なく披露している。それはいつまでも見ていられそうではあったが、ユイは覚悟を決めてその薄いグラスを薄い唇に添えてそっと流し込んだ。

グラスの中にいた時とは別物であるかのように、おとなしかった発泡がにわかに色めく。それを飲み下すと喉に心地好い刺激が残り、俄然食事への欲求が高まっていった。ユイはもう一度グラスを口へ付けると、中の液体を全て流し込んだ。

 さあここからが本番だと心の中で意気込んで、ユイは目を輝かせながら前に置かれた皿を見た。

 皿に置かれたカクテルグラスを模したような食器——正確な名称は分からない——には、目に飛び込んでくるような鮮やかな赤とピンクのトマトだけではなく透き通る玉葱も一緒に入れられていて、その上にはモッツァレラチーズではなくカッテージチーズが多すぎず少なすぎずの見た目の美しさを損なわない絶妙な分量でまぶされていた。

その純白のカッテージチーズに迫るのは黒胡椒の魔の手。無垢な白に容赦なく降り注ぐ黒の侵略。その行く末は、口に含んでみてからのお楽しみとでもいうようにバジルの葉が白と黒を覆い隠す。

 これは居ても立ってもいられない! とユイはいくつか並んだスプーンの中から外側に配置されたものを手に取ると、それをカクテルグラスを模したような食器の中に急ぎながらもそっと差し込んだ。スプーンの滑らかな曲線の中にトマトと玉葱、黒胡椒に侵略されしカッテージチーズが収まる。もともとそこが自らの場所であったかのように。

その美しく纏まった色彩を口に運ぶと、ユイは目をとろんとさせ頬に手を当て声にならない声を漏らした。それは艶めかしい吐息となる。視界の端に見えるヌユンも、大方ユイと同じ反応をしてアミューズに手を付けている。

「これただのカプレーゼじゃないね」

 ユイが呟くとヌユンは頷いた。そしてもう一度スプーンを口へと運んで咀嚼そしゃくして、ゆっくりとそれを味わい嚥下えんげする。

「トマトが程良い大きさにカットされているのは当然の事として、カッテージチーズとトマトのお互いに種類の違う酸味を喧嘩させずにうまく中和させているのが黒胡椒の存在ですね。でもこれ他にも何か隠されてそうな気がします……」

 普段口にするカプレーゼとの違いはなんだろうか? とユイは考えていたが、オリーブオイルにその謎が隠されているのではないかと思い至る。

「オリーブオイルの方に何かあるかもしれないね」

「その可能性は大いにありますね」

 二人は料理そのものに感動し楽しみながら食事をしているが、周囲のメンバーは特に感動する様子もなく黙々とアミューズを胃に納めている。そこに楽しそうな雰囲気は微塵も感じられない。

食事はコミュニケーションでもあるとユイは考えているので、この場の雰囲気はユイの苦手なものであった。しかし先程ヌユンと料理を満喫しようと決めたので、周囲の事は気にしないように努めた。


 ユイとヌユンはあまりの美味しさに、そのカプレーゼをぺろりとたいらげてしまった。とはいっても、元々がアミューズであるのでたいした量ではないから当然といえば当然なのだが。満足そうに、唇についたオリーブオイルをぺろっと舐め取るユイ。

するとタイミングを見計らったように一品目の料理がのっていた皿が下げられ、二品目の料理がユイの前に現れた。

「次は鯛のタルタルガトー仕立てやで」

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