旧阿嵩久里須邸へようこそ

胸なんて無いでしょ、先輩には

 一七時に玄図くろず町の、亜空間転移施設サブスペースセンターにあるカフェで、ユイとヌユンはおち合った。そこでヌユンに、自分が古典推理小説アナログ・ミステリィを書いていること。仮想空間インターネットに作品を導入アップロードしたこと。マーフという人物が拾い上げて評価してくれていること。

 それが要因となって古典推理小説愛好者アナログ・ヘビー・ミステリアスの集いというものに呼ばれたこと。

 そしてこの後一八時から、その会場となる旧阿嵩久里須邸きゅうあがさくりすていにヌユンを連れて向かうつもりであることを、なるべく無駄な情報が入らないように伝えた。


 ヌユンはその説明を最初の内は真剣に聞いているような様子であったが、話の後半になるにつれて徐々に表情が残念そうなものに変わっていった。

 ユイが全てを話し終えると、ヌユンは溜息を吐いてからいった。

「これから、その古典推理小説愛好者の集いってやつに参加するってことは分かりました。でもですよ、なんでわざわざ、自分なんかも呼んだんですか?」

 ヌユンはてっきり、ユイと二人で食事をすると思っていたのだろう。

 世間一般でいうデートができるのだと……

 ヌユンはあからさまに肩を落とすと、まだ熱そうに湯気が出ている珈琲が入ったカップを舌を火傷しないようにだろうか、ゆっくりゆっくりと口に近付けた。そのままカップで口元を隠しながら、ユイには聞こえないくらいの声でぶつぶつとなにかをいっている。

 そんな光景を目にして、「だってさぁ、一人で知らなにい人間ばかりの集まりに参加するっていうのは、ちょっと不安だったんだもん……それにヌユンだったら、きっと断らないだろうなってちょっと思ったんだもん。ボクみたいに頼りない先輩の話でも、ヌユンはいつもしっかり聞いてくれてるから……」とユイはヌユンの念仏のような言葉を気にも止めずに悲しそうな調子でそういった。

 そして目を細めると八重歯をちらりと出して、困ったように笑ってみせる。

 ユイのそんな表情を見てヌユンは、珈琲が入ったカップで更に顔を隠そうとした。しかし口の方に熱い珈琲が勢いよく流れ込んできてしまったのか飛び跳ねるように勢いよくカップから顔を離す。

 そして涙目になりながら、小さな声でいった。

「毎回思ってたんですけど、その笑顔、ずるいです」

 ヌユンは一度離したカップをまた口元に持っていくと、ユイから目を逸らした。

「えー?」

 さっきとは打って変わって、けろっとしたかと思ったら、素っ頓狂な声をあげてユイはいう。

「ボクが笑うとなんでずるいの? 別に美人のお姉さんが使う笑顔みたいな、あざとさとかないでしょー?」

 そうして首を傾げると、ずるいといわれたことの原因を探すように天井に視線だけ向けた。

「あざとさとか理解してるなら、先輩の、その……キャラとかも、理解してから、いってくださいよ」

「キャラ?」

 ユイはあごの下に手をやって、考え込むような仕草をしてから視線をヌユンに戻してそういった。

「そうですよ、キャラですよ。キャラクターの略語ですよ」

「それくらい、いわれなくても分かってるってばぁ!!」

 ユイはあごの下にやった手を、テーブルの上で重ねる。それと同時にヌユンも、逸らしていた目をユイに向けた。

 必然的に二人は目を合わせる形になっていた。

「それじゃあ、先輩のキャラを振り返ってみましょう」

「癖毛でしょ?」

「そうですね。しかも、中途半端な天然パーマ」

「吊り目でしょ?」

「そうですね。しかも、かなりきついレベルで」

「薄い唇でしょ?」

「そうですね。女性が吸ってる細い煙草くらい」

「美人でしょ♡」

「それはないです。キャラが成り立たないです」

「普通に失礼なんですけど……」

 ユイは不快を一滴、表情に垂らす。

「嘘が苦手なだけですよ」

「そうですかそうですかー。他には……」

 そういってゆっくりと、一本だけ立てた人差し指を動かすユイ。

 その指の動きに釣られるように視線を動かしていくヌユンだが、その指がユイの胸の前で止まると顔を赤らめて目を逸らした。

 そんなヌユンの姿を見て、ユイはいった。

「ヌユンって、ロリコンさん?」

「なんでそうなるんですか!!」

 ヌユンは赤かった顔をもうこれ以上は赤くならないのではないかと思えるほど更に赤く、真っ赤といえるくらいに染めて立ち上がると、あたふたと喚いた。

 周囲の人たちが何事かといった具合に二人を見るが、それを気にする素振りも見せずにユイは「まあまあ」とヌユンを落ち着かせる。

 さすがに大きな声を出しすぎたと思ったのか、ヌユンは後悔しているように身を縮めていってゆっくりと椅子に座った。

 すらりとして慎重の高いヌユンがちょこんと椅子に座る様子は、サイズのあっていないおもちゃの椅子に座らされるぬいぐるみのように見えなくもない。

 ユイはそんなヌユンを見て、口を手で隠しながらくすくすと笑った。

「そういう仕草一つ一つが、いちいちずるいっていってるんですよ……」

 そういうとヌユンは溜息を吐きながら、テーブル上にある猫の絵が描かれたソーサーにカップをそっと戻した。

 ユイはヌユンのその声を聞いていながら、聞いていない様子を装っている。


「それで」

 ユイは深く座っていた椅子から一度腰を上げ、浅く座り直した。

 体を前傾姿勢にしてヌユンに顔を近付けると、少しの上目遣いと少しの甘い声色であざとくいう。

「ボクのお胸に興味があるんでしょ、ヌユン君? どうなのかしら? 触ってみたいのかしら?」

「胸なんて無いでしょ、先輩には」

「な」

 ユイはヌユンが放ったまさかの一言に唖然として、口を半開きにして固まってしまった。

「あれ? 先輩? 生きてますか?」

 ヌユンはユイの目の前で意識があるかを確かめるように、手をひらひらと振る。しかしユイは、まばたき一つしない。

「さすがに胸は気にしてたんですね……」

 と、呟くヌユン。

 そうしてユイの肩を軽く揺すった。

 するとユイは我に返って、きつい吊り目を更にきつくきりりと吊り上げてヌユンを睨んだ。それは、ううるううると猫が威嚇をする時の表情そのものである。

「ヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌いヌユン嫌い」

 全身真っ黒の出で立ちで、呪詛のような言葉を息継ぎもせずに、目を吊り上げて、途切れさせずに言い続ける姿は、誰が見ても不気味だ。といいたいところだが実際のところ、それは滑稽でかわいらしさすら感じる。

 その事に本人は気付いていない。

「すいませんでした。さすがに、言い過ぎました」

 頭を下げるヌユン。

 しかし、表情自体は笑いをこらえているようにも見受けられる。

「また、ボクの胸が無いなんていったら、セクハラで訴えるし、呪うから」

「覚悟しておきます」

「しっかり記憶素子メイン・ブレインに残しといて」

「分かりました」

 その言葉を聞いて満足したのか、ユイは目を線にして八重歯がちらりと見える程度に口角を上げた。

「それじゃあ、今回は許しといてあげる」

 先程までの表情も今の表情も、見れば見るほどに猫のように思えるものであった。

 ヌユンもそう感じているのか、ソーサーに描かれた猫をちらりと見やる。

「ありがとうございます」

 ヌユンはカップをまた手に取り、珈琲をゆっくりと啜る。

 ヌユンの珈琲の飲み方もまた、猫の所作のように優雅と緩慢が共存している。

 猫っぽい人間同士が二人並んで一つのテーブルを挟んで会話をする様子は、さながら猫の井戸端会議とでもいった様相かもしれない。とそんな風に、自分が猫っぽいという自覚があるユイは感じていた。

 そう感じるとユイはなんだか楽しくなってきて、先ほど自分が受けた仕打ちの事などけろっと忘れて、再びいたずら心がむくむくと芽生えてきていた。

「それで結局、ヌユンはロリコンなの?」

 ヌユンは何も答えずに珈琲を飲み続けている。

 ユイも何もいわない。

 ただ返事をじーっと待っている。

 じーっと待っている。

 ヌユンの返事を。

 待っている。

 じーっと。

「そんなに待っても、先輩が期待するような答えは用意されていませんよ」

 ヌユンは見つめられることに耐えられなくなったのか、単純に沈黙の時間に負けたのか、そう口を開いた。

「ざーんねん」

 ユイは八重歯の間から舌をちろりと出してみせてからいう。

「もしロリコンだっていうなら、私にも少しはチャンスがあったりするのかなとか思ったんだけどなー。ヌユンちゃんは私なんかに興味はないですよねー。はあ、残念……」

「先輩。それ本当に思っていってますか?」

「ぜーんぜん!! これっぽっちも思ってないよ!!」

 ユイは右手で作ってみせた人差し指と中指の狭い隙間を、右目だけで覗き込むように見る。

「ですよね……」

 何度目になるか分からない、ユイの前で吐く溜息の回数を、ヌユンはまた一つ更新する事になった。


 ユイは学生時代にこういった友人ノリでのふざけた会話というものをあまりしてこなかったので、今回のようにヌユンとの会話が楽しくてついつい調子に乗りすぎてしまう事があった。しかしヌユンはというと、そんなユイに対して特に嫌な様子を見せる事もなく上手に立ち回っているように思える。

 たまにミステリアスな雰囲気を漂わせる瞬間があると社内でも話題にのぼる事があるヌユンは、人付き合いの苦手なユイにとっては珍しく接しやすい人間のようだった。

 後輩の教育係と任命された当初でこそ困惑の色を隠せないでいたが、今ではいいパートナーの片鱗を覗かせる程度には仲がいいと、端から見た人間でも分かるレベルになっている。


 実際のところヌユンが心の中でユイをどう思っているのかは分からないが——とはいっても感情豊かなヌユンの心の中はダダ漏れな気もするが——、それは別にヌユンに限った話ではない。

 誰の心の中であっても、それは他の誰かが窺い知る事なんて出来ないのだから。

 かといってユイは今楽しくやっている。そして本人がそれで満足している。となれば、きっと、それでいいのだろう。

 わざわざ相手の心の中を知ろうと、無粋な質問をしたりする必要はないよね……

 そんな風にぼんやりとユイが考えていると、学生時代の嫌な思い出が一瞬頭を掠めていった。すぐにその嫌な思い出を隅へと追いやるユイ。

 今が楽しいのだから良いじゃないか、と自分に言い聞かせてユイはヌユンを見る。

 テーブルを挟んで前の席に座るヌユンは、少しだけぬるくなって飲みやすくなったのであろう珈琲を、一気にがぶがぶと飲んでいる。

 それを見てユイも同じようにホットミルクが入ったグラスを口に付けた。

 程良く温かいそれを飲むと、今の幸せを体中に染み渡らせるようにユイの体はぽかぽかと温かくなっていく。


 幸せを知る事が、罪であるはずはない。

 それなのにユイは学生時代に不幸を経験したせいなのか、幸せを感じるとその陰に隠れている不幸を思わずにはいられない性分になってしまっていた。そして考えなくてもいい事であるはずなのに学生時代を思い出してしまう。

 ユイの頭に先程隅へと追いやったはずの学生時代の思い出の一端が再び蘇ってきた。



 <><><><>



 中学生の頃まではなんの悩みもなく友人との関係も良好だったユイであったが、高校生になり地元から少し離れた進学校--いまとなっては進学校というのが名ばかりのものだと知った--に通うようになると、今まで同じ学校で仲が良かった友達は誰もいなくなってしまった。

 新たな友人のコミュニティを作るのはなかなか難儀なものであるが、それを怠ると高校生活の三年間を楽しんで過ごすことが出来ないと思い、隣に座る髪を後ろで一つに結った少女に声をかけた。

「初めまして。ボク、ユイ・ロクメイカンっていうの。隣の席になったのも何かの縁かもしれないから、仲良くしてくれると嬉しいなあ」

 髪を後ろで一つに結った少女は、ユイをちらりと見やると鬱陶しそうな表情をして視線を逸らす。

 なんなのさぁ、無視なんてひどくない? とユイは内心思いながらも、さすがにここで悪態を吐いてしまうと周囲の同窓生たちにまで嫌な奴だと思われてしまう可能性があるのでその言葉をぐっと飲み込んだ。

 隣に座る髪の毛を後ろで一つに結った少女の事は諦めて、後ろに座るメタルフレームの眼鏡をかけた青年に声をかける事にした。

「初めまして。ボク、ユイ・ロクメイカンって」

「君、クラスの全員にそうやって自己紹介でもするつもりなの?」

 ユイが言い終わる前にメタルフレームの眼鏡をかけた青年は口を挟んだ。

 その青年からも鬱陶しそうな表情を向けられて、ユイは違和感を覚えながら答える。

「さすがに皆にするかどうかは分からないけど……でも自己紹介って大切な事じゃない? これから三年間同じクラスになる可能性だってあるんだし……」

「悪いけど、君みたいに友達を作る為にここに来てる人なんてごく少数だと思うけどね。とりあえず僕は君と友達になろうなんて思ってはいないから、構わないでくれるかい?」

 メタルフレームの眼鏡の青年はそういうと、机の上に置いてある複数の教科書に目を向けた。

 ここが由緒ある進学校——だと当時のユイは本当に思っていたことがバカバカしいと、今は感じている——だとは聞いていたが、まさかここまで勉学に熱心な人が集まっているとは知らなかったユイは、少し落胆したがそれでも全ての人がそうではないだろうと少しの希望を捨てずにいた。

 しかしもしかすると……という不安も拭えなかったせいで、前に座るツインテイルの少女に声をかける事は出来なかった。


 ユイは今年度一番高い成績で入学を果たしたので、入学式では生徒代表のスピーチをする事になっていた。とはいってもスピーチの内容は事前に教師が用意したものを読むだけで、特に達成感ややりがいが感じられる事はなかった。

 それでもユイは任せられた事については妥協せずにしっかりとやり遂げた。

 スピーチを終えて自分に割り振られたパイプ椅子へと戻ると、隣の少女——クラスの席でユイの前に座っていたツインテイルの少女——が小さく声をかけてきた。

「ロクメイカンさん、スピーチの時なにも見ないで喋ってましたよね? すごいですね」

 生徒代表のスピーチは原稿用紙二枚にも満たない文字数だったので丸暗記していた。ユイはそれを特段すごいとは思わなかったが、交友関係を築く上では謙遜が必要である事を知っていたので、「そんな事ないよ、もしかしたらどこか抜けてた言葉もあったかもしれないし」と嫌味がないように返事を返した。

「おい、そこ、喋るな」

 その時丁度横を通りがかった教師に注意されて、二人はお互いに顔を見合わせてくすくすと笑った。


 それがユイを弄び狂わせた、アキとの初めての交流だった。



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