行きます行きます行かせてください!!
顔をただ赤くするばかりでヌユンがなんの返事もしないので、ユイは耐えきれなくなっていった。
「別に嫌ならいいんだよ、嫌なら。だってさあ、無理して来てもらってもボクは嬉しくないもん。やっぱり、一緒に行きたい! っていってくれる人と行きたいもん」
唇をつんと尖らせる仕草はベタではあるが子どもらしさがあり、ユイのキャラからするとあざとさすら感じるものである。
ヌユンはユイのそんな仕草を見て、赤かった顔を一気に青白くして何故か焦りながら答えた。
「行きます行きます行かせてください!!」
ヌユンの返事を聞くと、ユイはにんまりと目を線にしながら八重歯がちらりと見えるくらい口角を上げて笑顔を作る。そしてヌユンに嬉しそうな声でいった。
「ふふん。ボクと一緒に食事がしたいって事よね。よろしいよろしい素直でよろしい。それじゃあ、一七時に
ヌユンは平素の顔色を取り戻すと、最後の言葉になにか引っかかるところがあったのか眉間に皺を寄せた。
「説明しないといけない事……ですか? それって今じゃ駄目なんですか?」
相変わらずの笑顔のまま、ユイはいう。
「まあまあ、当日になれば分かる事だから、焦らないの焦らないの。それにさあ、じらされた方が楽しい事ってあるでしょ?」
そして楽しそうに、ふふふと声を漏らした。
「楽しいのは先輩だけじゃないんですか?」
ヌユンは率直に思った事を口にする。
「当然ボクは楽しいけど、これは努力次第でヌユンだって楽しめる状況かもしれないじゃない?」
「それはどうでしょう……」
「そんな事いわずに。もっとMになってみなさいっていってるの!!」
突然に下衆な発言をして、悪戯な顔でヌユンを見るユイ。
「ちょ、何いってるんですか!」
再びヌユンの顔が赤く染まる。
「わわー、ヌユンが怒ったー。っていうかさぁ、ヌユンはそっち系の話って苦手なの? えー、すっごいかわいいんですけど」
相手の弱味を握った悪党でもそんな顔はしないのではないだろうかと思える程、ユイはにやにやとしてヌユンの赤く染まっていく顔を見ている。
その表情からは正直なところ悪意しか感じられない。しかしユイは楽しんでいるのだろう。後輩とのやり取りというものを。学生時代には経験できなかったそれを。
「いや、別に怒ってなんてないですよ。それに、そっち系の話が苦手とかありえないですから。何歳だと思ってるんですか? もう自分だって大人なんですから、それくらい経験だってありますから」
「えー、ヌユンのえっち。性欲モンスター」
「何でそうなるんですか! それに女の子がそんなこというもんじゃないですよ、全く!」
「女の子が。とかって差別じゃないんですかー? 保健体育のヌユン先生、どうなんですかー?」
「あー! うるさいですよ! もう! 先輩ドSですか!」
「この程度でドSだなんて思わないでちょうだい。とだけ、ボクはいわせてもらいまーす」
「先輩、ちょっとは攻撃の手を緩めてくださいよ」
「っていうかさぁ、ヌユン、経験あるっていったよねー?」
「あっ、いや、まあそれは……」
「どんな事をしたのかなー? ボク分からないなら教えてー? なにをなにして、なにしたのー?」
「あー、もう! この話は終わりにしましょう」
ヌユンがそういうと、ちょうど終業の
ユイはヌユンの肩をぽんと軽く叩き、「それじゃあ、二九日はよろしくねっ」と一言添えると手をひらひらと左右に振って、返事も聞かずにその場を後にした。
去り際ヌユンがなんともいえない表情をしていたのをユイは不思議に思ったが、深く考えることはしなかった。
それはユイの興味が、
マーフという人物が自分に声を掛けてきた事。
それをユイは大変光栄に思ってはいたが、同時に不可解さも感じていた。
現代において古典推理小説を執筆する人間がほぼいないとはいえ、アガサ・クリスティやコナン・ドイルの作品に比べると圧倒的に筆力の劣る文体、トリックの甘さ、探偵役のカリスマ性の弱さなど、列挙しだすと枚挙にいとまがない程にユイの作品には過去の名作と比較して良いと思える点が皆無なのだ。
当然素人が書いた小説だと割り切って読むには良いのかもしれないが、古典推理小説愛好者というのはプロのミステリィ作家の作品を愛する人間である。
そのような人々なら、ユイのような二流の
その良いと思える点が皆無の作品でさえ書けるだけマシだと思える程に、彼らは古典推理小説に飢えているのだろうか?
もしくは、こんなくだらない作品を書いている奴はどんな人間なんだ、と冷やかしを入れたいだけなのかもしれない。
そう考え出してしまうと、ユイは混乱して訳が分からなくなってきてしまう。
「とりあえず、行ってみたら分かるかなぁ。本当に歓迎されているのか、それとも冷やかしなのか。本当に歓迎されていたなら、先輩として立派なところをヌユンに見せつけられるってもんだしね!! それに美味しいご飯も食べられるっていうじゃない。一石二鳥ってやつだよね、これは。結果、万々歳って事だよね。ああ、楽しみだなー、ヌユンと一緒に美味しいご飯だなんて。えへへ」
ユイは長い独り言を、誰も歩いていないロッカーまでの道すがら呟いた。
ユイは料理の事を想像する度に口内に含む唾液の量を増やしていく。それなのににやにやとしているせいで口の端からは今にも涎が垂れそうになっているが、今のところそれはなんとか口内に留まっていた。しかしそれも時間の問題かもしれない。
結局まだ見ぬ素晴らしい嗜好の料理へと思いを馳せるユイの中で、マーフの真意を測る気持ちは霧散していく一方であった。
しかし本当に考えなければならない問題である、本来祖父のものであったはずのミステリィの書籍がそこにあったとして、どのようにすればユイ自身の手の中に戻ってくるのかについてはひたすらに思考を巡らせ続けている。
ユイにとって、それはなによりも優先すべき問題だからだ。
一番シンプルなのはお金での解決であるが、それが出来るのであればもうすでに実行しているだろう。
今のところユイが考える中で最良の手段としては自らを最後の古典推理小説家として
小さな希望であればある程、それを蔑ろにしてしまえば本当に希望の灯火は消え去ってしまう。当たり前とは思えても、小さな希望を持ち続けるのは存外難しいものなのだ。しかしユイは、祖父との愛という頑丈な鎖でその小さな希望をしっかりと繋ぎ止めていた。
それはきっと、今回の機会を逃したとしても変わる事はないのだろう。
ユイはロッカールームに辿り着くと、ポケットから小さな鍵を取り出しロッカーを開けた。ロッカーの中にはユイの相貌からは似つかわしくない、モード系の服が現れた。
ユイは着ていた何の特徴もない黒いパンツスーツを、慣れた様子で脱ぎ去る。そして濁りや不純物の少ないその白さを伴う肌に黒を重ねていく。
まず黒いレギュラーフィッティングのデニムパンツに、細い脚と小振りな臀部を仕舞い込んだ。
そのデニムパンツの上に、こちらも黒いシャツのような素材感だが透け感があり、軽い印象を与える膝の少し下まで丈のある
巻きスカートのフロントに付いているボタンを少しだけ開けてスリットを入れたようなデザインにする事で、そのまま着用するよりデニムパンツの存在感を損なわずにいる。
しかし腰部分のゴムでウエストが強調されたせいで、ユイの腰の細さが目にいくのと同時にくびれの無さにも目がいってしまう点に関してはどうしても残念だといわざるを得ない。とはいってもその組み合わせのセンスの良さは確実なものであるといって良いだろう。
次は上衣へと移行していく。
やはり黒色で薄手のタートルネックになっているロンTを着ると、こちらもやはり黒色のノースリーブシャツをさらっと重ねていった。
巻きスカートの丈とほぼ同じ位置まで裾のあるそれは、背面が
前面の生地は
その上に羽織るカーディガンのようなものは、右肩から右足の付け根の辺りまでの独特な位置にジップが付いていて、生地はスウェット。色はいうまでもなく黒だ。
ドロップショルダーでビッグシルエットであるために、それのジップを閉めずに着用すると前面が
背面には一本、さりげなく細くて白いラインが入っていて、それがモード感を更に際立てている。
全体が黒で統一されているのにそれぞれの部分において素材が違ったり透けが存在するおかげで、黒い服にありがちな重たいといった印象を全く感じさせない。更にレイヤードが効いているので、軽いといった印象すら受けるほどだ。
「さってとっ。帰りますかー」
ユイは幾重にも重なった黒を翻らせるが、低い身長のせいで歩幅が狭く颯爽といった印象は受けない。
ぽてぽてと廊下を歩いて、歩いて、歩いて、なんとか会社を抜け出す。
ユイにとって正直楽しくない仕事をどうにか乗り切る
ここからが今日という一日のスタートだといわんばかりに、ユイは颯爽と……ではなく、ぽてぽてとネオン街に踏み入り陽気な陰を作り出す。
今だけ、ユイは意図的に祖父の書籍の事を忘れて、純粋に無垢な楽しみに染まる事を選んだ。
誰しも、悩みを忘れる瞬間というのは必要なのだ。
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