六月二九日の一七時のご都合はいかがかしら?
二一一八年、アガサ・クリスティやコナン・ドイルといった人物たちが築き上げた推理小説というものを書く人間は、ほぼ姿を消した。
そうして偉大な彼らの残した作品たちは、
一方で古典推理小説を凌駕する勢いで
空想推理小説は
空想推理小説が流布された当初は、まるで空想の中にのみ存在する道具のように思えるが実在する技術の中で最高峰のものを使用した道具がトリックに使われていていた。
それに対して尊敬の念を込めて、現実に存在していながらまるで空想の産物であるみたいだと、空想推理小説という文字でありながら、リアル・ミステリィという呼称を用いることになった。
しかし言葉の意味を履き違えた一部の人間たちの存在により、現代科学の域を越えた存在することのない架空の器具・武器・機械が登場してくる作品が増えていってしまった。
そういう経緯があり、いつしか本来の意味での
そんな推理とは名ばかりの内容である推理小説が流行の波に乗ることとなった影響は、読者というよりは作家に顕著に現れた。
売れないのにトリックを練り上げ謎を作ってまでしっかりとした推理小説を書くことを作家たちは放棄してしまったのだ。
作家たちは売れるが推理とは名ばかりの、珍妙な推理小説の皮を被った空想推理小説を一斉に書き出すことになる。
ご都合主義の展開ばかりを書きすぎたのか、いわゆる古典推理小説を書ける力量のあった作家たちは次第に技量を削ぎ落としていくことになる。
結果として古典推理小説を書ける作家は減ってしまい、今では第一線で古典推理小説を書くものはいない。
技量を磨くことを彼らは完全に放棄したのだ。
そして読者もまたミステリィの謎にたいして思考をする能力を衰えさせて古典推理小説を読む読者がいなくなっていった。
そしてそれを知っている人間自体が少なくなっていく事態が起こると、本当の意味での推理小説・ミステリィは表舞台からひっそりと捌けていってしまったのだ。
そんな状況でユイは、ミステリィとそれを教えてくれた祖父への愛を純粋に形にしようと思い、孤独であった学生時代に古典推理小説を書いてそれを
時代が時代なだけにその作品は
ユイは今はいないはずの古典推理作家として、そしてその時に書いた【愛のパズル】は約六〇年振りの古典推理小説作品として、古典推理小説愛好者の一人であるマーフに見初められたのだった。
ユイの下に、マーフから一通のメールが届いた。
<><><><>
拝啓
紫陽花の色が美しく映える頃となりました。
ユイ・ロクメイカン様におかれましては、健やかにお過ごしのことと存じます。
さて、来たる六月二九日に、当方が主催する
当日の他の参加者も、あなた様がご参加されるとなれば大層喜ぶことと存じます。それは当方においても差異は御座いません。ぜひとも万障お繰り合わせの上、ご参加くださいますようお願い申しあげます。
敬具
日時 二一一八年六月二九日 一八時
場所 旧
二一一八年六月一日
マーフ・チューン
<><><><>
マーフからこの連絡が来たときユイは社会人二年目で、自分自身の仕事だけでも手一杯だというのに後輩に当たるヌユンの教育も重なり、自宅にまで仕事を持ち帰り作業に当たる事もしばしばあった。
とはいっても本当のところは、ユイの無駄話やヌユンをいじる事に時間が使われてしまい、仕事が通常スピードで回らないのが原因なのだが。
そんな事とは気付かないユイは、鴨が葱を背負ってくるようなこの機会を無駄にするわけにはいかないと、指導の最中である後輩のヌユンを目の前にしながらもマーフに急いで連絡を返した。こうしてまた仕事に遅延が生じるというのに。
とはいえユイはユイなりに、その点について少し申し訳なく思っていた。その点といっても仕事中なのにマーフに返事を送っている事ではない。それについて、ユイは全く気にしてなどいなかった。
申し訳なさというのはヌユンにのみ感じるものであった。
それはユイが仕事にたいしてそこまで真剣に取り組んでいない事を意味しているのはいうもでもないが、同時にユイがヌユンに対して多少であれ好意があるという事を示している。好意がなければ、申し訳ないという感情は生まれない。
好意とはいっても恋愛としてではなく人間性としての好意だと、ユイはいつも心の中でわざわざ念を押している。わざわざである。
当然それは、当人のみが知る秘密なのだが……。
それはさて置き、ユイは古典的なメールの返信方法の作法というものを知らなかったので、マーフからのメールに『ぜひ参加させてください。参加費はいりますか? あと、友人を一人連れて行ってもいいですか?』などといった、簡素で慇懃無礼で不躾なメールを返した。
しかしそれでも、返信はすぐに来た。
<><><><>
ご参加の意志ありがとうございます。参加費は必要ありません。ユイ様は大切な来賓でございますので。
ご友人も是非ご参加ください。ご友人の分まで腕に縒りをかけた料理を作ってお待ちしております。
それでは、当日お会いできるのを楽しみにしております。
<><><><>
今の世の中、
しかしその分どうしても仮想空間側に集中力を使うことになるので、日常側の集中力は削がれてしまうのが難点ではある。
その結果ユイは、ヌユンの話や質問のいくつかに心ここにあらずな様子で答えてしまっていた。
それはマーフからの返信の早さに驚いたからという要因も少しはあったが、それよりも最初に届いたメールに書かれた言葉を見返して、その事実に気付いてしまったからという方が驚きは大きいのだろう。
ユイは一旦返信の意志を途絶えさせ、隣に立つヌユンに聞いた。
「ねえ、ヌユン。亜空間設定番号が自宅に割り当てられてる人間って、どんな人間なのかな?」
突然の質問にヌユンはユイを訝しそうに見るが、ユイはその視線から何も感じ取ってはいない。良くも悪くもユイは自身にたいする好意や悪意などといった、他者からユイ自身に与えられる心の機微といったものに恐ろしく鈍感なのだ。ユイの観察眼はあくまでも表層的な部分や、他者同士の心の機微に対してのみ発揮されている。
ユイの心が、自分自身を愛することを躊躇っているからなのかもしれない。
それはというと祖父の愛する書籍をユイが守れなかった事と、もう一つの過去の出来事に起因している。
祖父の愛する書籍を守るどころか、その書籍が金に変わっていった後になってその事実を知ったことで、ユイは祖父への申し訳なさをずっと心の中に抱いているからである。
祖父の愛する書籍を守れなかった事で、それすなわち祖父を冒涜していることになるのではないかという脅迫めいた気持ちが心の中で渦巻いて離れないのだ。いつまで経っても答えが出ない問題として、少しずつユイの深いところで、その暗く後ろめたい感情の残滓は堆積を続けている。もう十年近くにもなるのに、堆積が終わる様子はない。
それにより自らを苦しめ、ユイはそんな自分自身を愛していいのかどうかすらも悩み戸惑い続けているのだ。
ユイは表面上でこそ、明るく笑顔を頻繁に覗かせる明るい女の子といった風を装ってはいるが、その実内面は他の女の子に比べて暗いといえる一面も持ち合わせていた。
しかしそんな事を知る由もないヌユンは、鈍感にしか見えない先輩であるユイが、自身が向けている訝しそうな視線に気付いていないことにやや呆れたような顔をしながらもしっかりと答えた。
「そりゃ、当然あれじゃないですか? すごいお金持ちとか、土地の管理者とか、政界の人間とか。それなりの空間がないと、
ヌユンがいうように、通常は亜空間接続跳躍装置のような特殊な機械は、個人宅にあるものではない。それが自宅にある人間は、限られたごく一部の人間である。
だからこそユイは自身の認識を確認する意味も込めて、常識的なことをヌユンに聞いたのだった。
それにも関わらず、ヌユンの丁寧な回答をまた心ここにあらずな様子で聞いているユイ。
再び見せられたそんな態度もあり、ヌユンは隠すこともせず表情に不服をぺったりと張り付けた。
それなのにヌユンの様子を気にする素振りをユイは見せない。なんなら、更にヌユンの呆れや不服を増幅させようとするかのように突然質問を投げかけた。
それも、なぜか戯けた様子で。
「六月二九日の一七時のご都合はいかがかしら? ボクと一緒に、豪華な食事でもいかが? シェフが腕に縒りをかけた品々になるはずだよ?」
ユイ本人にはヌユンを呆れさせたり不服にさせようという意図がないので、余計に質が悪いのは当然いうまでもない。
しかし予想とは裏腹にヌユンは呆れたり不服そうにすることはなく、少しだけ耳を赤くさせて口を開いた。
しかし何もいわない。
そのまま口をパクパクと動かしたかと思うと、結局閉じてしまう。その仕草は照れているようにも見受けられる。
そんなヌユンの素振りを見て首を傾げるユイは、なかなかにかわいらしい。
ユイは小柄な体型もあるが、顔立ちも猫のような要素を孕んでいて、万人受けする顔ではないかもしれないがそれなりに魅力的といえるだろう。少し癖っ気のある髪質が生んだ自然なパーマは、ゆるふわというにはふんわり感が足りないものの、ゆるさはしっかりと存在している。それに比例するかのようなゆるさを全く含まない吊り目は、笑うと線のように細くなってしまうのが難点とも思えるが、それはそれで屈託のなさを演出して見せているともいえなくはない。唇の肉は上下ともに薄く、てかてかとピンク色に光っていて妙な色気を匂わしている。その色気があったとしても全身から発する猫っぽさと小柄な体格、それに加えて絶望的に小さな胸とくびれの欠片も存在しない幼児体型が色気というものの存在を希薄にしていた。だが、それこそがまさに一部の性癖を持った人間からすると魅力的に見えるのではないだろうかと、そう思えなくもない。
いや、確実にそうだと言い切ってしまっていいだろう。
そんなユイを見て耳だけではなく顔全体も赤くしているヌユンは、そういった種類の人間なのかもしれない。
いや、こちらも確実にそうだと言い切ってしまっていいだろう。
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