第5話 学校
エレベーターは5階で止まった。サラリーマンと、美也子と同じ制服の女子が乗り込んでくる。
「あ、おはよう」
「おはよう真由香ちゃん」
同じマンションに住み、同じ高校に通う野沢真由香だった。いつものように長い髪を二つのおさげにしている。
小学六年生の時、野沢家がこのマンションに越して来てからの付き合いで、中学校も同じだが、クラスが一緒になったことはない。特に時間を約束しているわけではなく、エレベーターで出会えば一緒に登校するのが自然な流れだった。
付き合いが長い分、美也子は真由香に親近感を感じていた。
大人しい子なのだが、真面目で人の悪口を言わない、観察眼があり空気をよく読む。
一緒にいて楽だ。
停留所でバスを待っていると、真由香が遠慮がちに聞いてきた。
「ねぇ、美也子ちゃんって東京の大学行くの?」
「えー? ついこの前高校に入学したばっかなのに大学のことなんて考えてないよ」
「そうだよね……。ごめん、もうすぐ三者面談だから、ちょっと悩んでて」
「真由香ちゃんは東京に行きたいの?」
「うーん、そういう訳でもないけど、美也子ちゃんはどうするか気になって。その辺り、決めてるのかなって」
「……正直に言うと、東京行くか迷ってる」
父方の祖父母は東京にいる。どうやらそれなりに裕福なようで、美也子の学費はそこから出ている。
そして、大学からは祖父母宅に下宿し、東京の大学に通ったらどうかと数年前から祖父に言われていた。それを真由香に話したことがあった。
「学費出して貰う以上は、そうするのがおじいちゃんたちへの恩返しかもね。でもお母さん寂しがるかなぁって……。名古屋だって大学いっぱいあるし、三者面談ではそう言うよ」
「でも遊ぶところは東京の方があるでしょ? 就職先だって」
真由香が俯く。美也子も黙った。祖父にも同じことを言われた。
「就職先のこと考えるなら、愛知の方がいいかも。自動車関係でさ」
美也子はとっさに思っていることを言う。母もそうだし、亡き父もそうだったからだ。だが直後にハッと思い至る。
「自動車かぁ……」
案の定、真由香は嫌な顔をした。彼女は車が苦手なのだ。
バスやトラック等、作業車は平気という。
普通自動車のフォルムが強い生理的嫌悪感を催すらしい。
タクシーにも乗りたがらない。
轢かれた経験などがあるわけでもなく、自分の感覚がおかしいだけだと真由香は言っていた。
「私、美也子ちゃんと同じ大学に行きたい」
ふと、小声で真由香が呟いた。嬉しいような、複数な気分だ。大学選びを友人関係で決めるのは如何なものかと思う。
真由香が美也子と一緒にいることに、ここまで執着しているとは意外だった。高校を決めるときはこんなことを言われなかった。同じくらいの学力の二人が同じ高校に通うことになったのは、ごく自然なことのはずだ。
「ありがとう。私も真由香ちゃんと離れるの寂しいから、もし東京の大学に行くなら相談するね」
当たり障りのない返答をしておいた。まあ、一緒の大学に通うのも悪くはない。
そうこうしているとバスが来た。通勤通学の時間帯のため、そこそこ混んでいる。人の隙間を縫って、二人で奥へ詰めた。
混み合いざわつく車内での会話は億劫で、美也子と真由香はしばし沈黙を続けた。
真由香に触発された美也子の思考は進路のことへ向かう。
東京へ行くかどうか、正直、数年後の自分がどのような選択をするのか分からなかった。今はまだ高校一年生の五月で、もう少しだけ、大学や就職のことは現実逃避したいと思う。
しかし、東京に行くとして、家を出れば母は本当に寂しがるだろうか。重荷が降りて、すっきりするのでは。再婚のチャンスも出来る人かもしれない。
もし、祖父母の家に下宿することになったらエイミはどうしよう。本人が良いと言っても、ずっとぬいぐるみのふりをさせるのは非人道的ではないか。
それ以前に、エイミと共に暮らす内にクリスデンの記憶が戻るかもしれない。そうしたら進路も何も関係なくなるのか。母を捨てて元の世界とやらに戻るのか。
暗い思考に、美也子の表情が陰る。
「美也子ちゃん……どうしたの?」
不意に真由香の声がかかった。背の低い彼女は、普段伏し目がちの目を見開いて、真っ直ぐ美也子を見上げていた。
「よくないこと考えてた? それになんか疲れてるみたい。寝不足?」
美也子は動揺を苦笑で隠した。
「うん、遅くまでマンガ読んでたからかな」
嘘の理由を答えたが、真由香の鋭さには舌を巻く。彼女は美也子をよく見ている。過去に何度か、美也子自身さえ自覚のない体調不良を言い当てられたことがある。
美也子は自然と我慢する癖を付けていた。自分が体調を崩すと、母の仕事に差し支えるからだ。
真由香の指摘で、大事に至る前に病院へ行くこともできた。
「体調不良じゃないなら、いいけど……」
真由香は納得していないようだった。
バスは十分程で高校前に着いた。別クラスの真由香とは昇降口で別れる。教室の前まで一緒に行くことはない。
こういうさっぱりした性格の真由香が、大学でも美也子と一緒にいたいと考えているというのは、やはり意外に過ぎた。
「おはよう、千歳さん」
下足箱のところで、背後から声を掛けられぎょっとする。
「あ、おはよう……」
気配なく立っていたのは同じクラスの工藤だった。学級委員を務め、教師からもクラスメートからも頼りにされている彼女が、存在感に乏しいはずがない。何故だか意図して気配を絶っているのだと気づいて美也子は不気味なものを感じた。
そもそも工藤から美也子に挨拶をしてくるようになったのは、ゴールデンウイーク明けからだ。それまではクラスメメイトとして必要な時に言葉を交わすのみだった。
工藤は美也子に悟られないように近づき、その割には気さくに声を掛けてくるのだ。
「今日は、雨は降らないのかしら」
会話の内容はいつも当たり障りがない。なさすぎて突飛ですらある。
「天気予報では夜に少し降るかもって」
「そう」
微笑して、颯爽と去っていく。行き先は同じだが、美也子は同伴を厭い少しその場に留まることにした。
工藤が声を掛けてくるのは、美也子が一人の時だけ。教室に入ってしまえば、『奇行』に遭遇することもないだろう。
教室に着くと、ホームルームまであと五分ほど。隣の席の佐原愛奈とおしゃべりする。彼女とは入学式以来、仲良くしていた。
「ねぇ美也子ぉ~、映画観に行かない?」
「ああ、愛奈の好きな俳優が出てるやつね。今日から公開ってテレビでやってたね」
「そ。明後日はどう?」
やや急な誘いに美也子は考えた。エイミとは明日の土曜日にゆっくり話せばいいか。日曜日は友人の付き合いを優先してもいいだろう。
「いいよ。どこの映画館にする?」
「ショッピングモールのとこ行こうよ。まーくんが送迎してくれるって~」
まーくんは愛奈の彼氏で、大学生らしい。
「いいの? ってゆうか『まーくん』と一緒に行かないの?」
「まーくんはさ、その映画に興味なくって、送るから友達と行ってこいって~」
愛奈は朗らかに笑った。年上の彼氏がいる彼女は時折ひどく大人びて見える。
「で、映画のあと家に来ない? その日は親いないから気を遣わないでいいからさ~」
親がいないなら、なおさらまーくんを誘うべきではないのか。自分の下世話な思考に美也子は思わず苦笑した。
「いいよ、行く行く。愛奈の家初めてだね、楽しみ」
直後、教室に担任が入ってきたため、計画の詳細は休み時間に持ち越しとなった。
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