fatalism

直人

fatalism

 世の中くだらない。いっそ死んでやろうか。そんなことを思いながら来た海に、あいつはいた。


 高二の冬の学校帰り。いつもと同じ一日だった。どいつもこいつもくだらない。

綺麗事を並べる先生、過度な期待をかける親、薄っぺらい友情をひけらかす友達。ああ、くだらない。そんな鬱の限界から市営バスに乗り込んだ。行き先は近くの浜辺。そこを選んだのには多少なりとも理由があった。人間は最初、本当に最初誕生したとき海から来たと聞く。だから海に帰ってやろうと馬鹿なことを考えついたわけだ。

 市営バスがゆっくりとバス停で止まった。この寒い冬の時期に海にこようというような変人は俺一人だったらしく、俺以外誰も下りなかった。角の丸くなったコンクリートの階段を下りる。ザザッという波の音以外何も聞こえなかった。周りを見渡してみる。誰もいないと思っていた浜辺に一人先客がいた。俺のような変人が他にもいたのかとちょっと見てみたい気がする。

 水平線上を見つめていたその人物は動き始めた。しかもこっちに向かって。もう帰るのだろうか。しかしこのバス停は30分に一本しかバスは来ない。時間的には中途半端だ。

「海、綺麗だよね」

 通りすぎると思っていたのにその人は突然話しかけて来た。同い年ぐらいだろうが、綺麗な人だった。外見だけでは性別の判断は難しく、声を聞いてやっと、ああ男かとわかる。色素の薄い茶色の肩にかかる男としては長めの髪、日焼けしていない真っ白な肌、瞳はほとんど色がなく灰色に近い。細身で、身長もそんなに高くない。真っ白なカッターシャツに黒のパンツ。どっかの学校の制服だろう。その人は一言で言ってしまうと、儚いという言葉がよく合うと思う。

「……うん」

 俺は答えに困ったが、それだけ答えた。俺はそんな気持ちで海を見ていなかったから。綺麗とかそんな風に思ったことは一度もなかった。

「見てみたかったんだ」

 急にその人は言った。

「海、見たことないのか?」

 この歳になって、推測でしかないわけだが、海を見たことがない人間なんているだろうか。

「うん。今日が初めてだよ。やっぱり綺麗だった」

 本当に嬉しそうに言う。表情からこの人が嘘を言っていないことがわかった。

「君は?」

「え?」

 反応できなかった。

「君はどうしてここに来たの?」

 答えに困る。この人はこんな綺麗な理由でここに来ているのに、俺の理由がひどく汚く思えた。

「くだらないから」

 だから言えないと言う。

「そんなことないと思うけどな」

「どうしてそんなことわかるんだよ?」

 出会って数分の男に言われる台詞ではない。

「僕がそう思ったから」

 勝手な理由。なのに悪い気はしなかった。

「……死のうと思ったんだよ……」

「そっか」

 納得したような答えを一つ。この人はそれ以上何も言わなかった。沈黙が暫く続いた。でもその時間が嫌じゃなかった。出会ったばかりの人と横に並んで海を眺める不思議な状況だとしても。

「……くだらないと思ったんだ」

 先に口を開いたのは俺だった。

「先生は綺麗事で俺を丸め込もうとするし、親は自分のことを棚にあげて色々強制するし、友達も表面だけで本気で付き合ってなくて……」

 その人はただ頷いて聞いてくれていた。

「で、頭ぐるぐる回って、なんで生きてんだろって考えてたら……ここに来てた」

「わかるよ」

 隣にいる人物は力強く言った。

「すごくよくわかる。理不尽な世の中が嫌になっていっそ死んでしまいたくなる……」

 俺は知らないうちに自分の胸の辺りに手を置いていた。心が痛かったのだ。

「でもね、僕は死なないよ。夢があるから」

「夢……どんな?」

「叶ったら教えてあげる」

 二度と会わないかもしれない俺にそれを言うか。

 時計を見ると後少しでバスが来る時間だった。

「俺帰るわ」

「僕はもう少しここにいる」

 もう死ぬ気にはならなかった。

「またこの時間ここに来れば会える?」

「うん。いつでも」

 そんな約束をしてそこを去った。今の出来事が夢だった気がして後ろを振り返る。そこにはちゃんとその人が手を振って立っていた。俺は振り返した。


 相変わらず世の中は嫌いだった。だけど、昨日の出会いが何かを変えてくれる気がしてならない。今日も海に行こうとしていた。やっぱり市営バスはゆっくり進み、海で降りるのは俺だけだった。もう約束のその人はいた。名前を呼んで駆け寄ろうとして困ってしまった。その人の名前を知らなかったのだ。聞くのをすっかり忘れていた。それに名前なんて固定されたものにあまり興味がなかったのだ。それよりその出会い自体が大切だと感じたから。

「あの」

「あ、こんばんは」

 その人が俺に気付き、普通過ぎる挨拶をしてきた。

「こんばんは」

 そのまま返した。

「あのさ、自己紹介まだだったよな。俺は諡第ニ高校二年の斉歳瑞樹」

 名前を知らないというのは会話をするのにやりにくいことこの上ないのでさっそく聞く。彼も高校生だろうと予想して、高校名まで名乗ってみた。

「僕は春原智哉。学校は殊佐高校。君と同じ二年生」

 殊佐高校と言えば超が付く一流の進学校だ。俺の学校も一応進学校と呼ばれているが殊佐とはレベルも規模も違う。そんな優秀な人が何故こんな田舎の海に来ているのだろう。同じ県内の学校とはいえ、結構離れている。もっと近い浜辺もあるだろう。地元とかそんな理由だろうか。

「智哉は何でこんな田舎の海にきてんの? 殊佐って遠いだろ」

「実家が近いんだよね」

 やっぱりそうゆうことらしい。

「学校は電車通学?」

「ううん。寮だよ」

 だったらおかしい。学校帰りにこんなところにいるのは。

「いいのか? こんなとこにいて?」

「……うーん。瑞樹って見事に核心を突いてくるよね」

 智哉が答えに困ったように言った。

「僕ね、今入院中なんだ。病院がこの近くだからここにきてる。学校は行ってないんだ」

「大丈夫なのか!?」

 そう言われると全て納得がいく。日焼けしていない肌も、細い手足も。消えてしまいそうで心配になる。

「大丈夫だよ。これでも昔よりは良くなってるんだ」

「そっか」

 さすがに病名までは聞けない。でもそこまで重い病気ではないようで安心した。

「ねぇ、瑞樹」

 智哉がもったいぶるように間を空ける。

「瑞樹は運命って信じる?」

 あまりに急な質問に俺は、

「は?」

 と返してしまう。

「そのような成り行きになると決まっていること。必然であること」

 すると、どこかの辞書から引っ張ってきたような意味を述べてくれたが、俺はそんなことが聞きたかったわけじゃない。

「何でまたいきなりそんなことを聞くんだよ」

「何でって言われても……ただ僕は信じてるから、瑞樹はどうかなって思っただけ」

 智哉に深い意味はなかったらしい。見ず知らずの俺にいきなり声をかけてきたり、会って二日のやつに秘密を打ち明けたり、本当に不思議な人だ。

「俺は……考えたこともないな。運命なんて」

 つまらないやつと思われるかもしれないが、智哉に嘘を付くよりましだ。

「運命はさ、良いことに使われがちだけど悪いことも運命なんだよ。例えば僕が生れつき病弱なこととか」

 智哉はいきなり語り出した。俺はそれを静かに聞いている。

「それでも僕は運命を信じてる」

「なんで?」

 信じたら何もかも決まっていることになってしまうのに。努力が無駄だって言われてるようなものなのに。運命は変えられないんだから。

「だから言ったでしょ。良いことも運命って。多分ね、瑞樹とここで会ったのも運命だと思うんだ」

 恥ずかしいことをさらりと言う。高二になって運命を語るやつ。

「ね、運命も悪くないでしょ」

 智哉が綺麗に笑った。美しいとさえ思った。体温が少し上昇した気がする。

「ああ。悪くないな」

 こいつの言葉は魔力を持っている。そう思った。今まで長年俺の中にあった固定観念をあっさり取り去ってしまうのだ。


 それからはほぼ毎日、智哉に会う日々が続いた。部活もやっていないし、頭が良いとはお世辞にも言えないが居残りをさせられるほど成績が悪いわけではなかったのでよっぽどの用でない限り彼に会いに行けた。最近では海を綺麗かもしれないとさえ思えるようになっていた。どういう心境の変化だよと自分に笑ってしまう。智哉は俺に読んだ本の話や聴いた曲の話をした。俺は学校の話やゲームの話をした。本や音楽に興味はなかったが楽しかったし、智哉が良いと思ったものなら俺も読んでみよう、聴いてみようと思う。彼もゲームを教えてくれと言った。

智哉は俺にとってなんなんだろうか。友達。そんな軽い関係なんだろうか。親友。出会ってまだ幾日も経っていないのに。弟的な存在。どちらかといえば兄か。

 ぴったりの言葉は見つからなかった。でも、心の奥底では気付き始めていたんだ。このなんとも形容し難い気持ちの名を。ただ気付いたらだめだと誰かが言っていた。


「智哉は何で毎日ここに来るんだ?」

「良い運動になると思って。病院の中ばっかじゃ飽きちゃうから」

 俺はなぜか心が痛かった。悲しかった。馬鹿みたいだ。俺は期待していた。ほんの少しだけ。もしかして、俺のことを考えてくれたらと。

「……それとね、」

 言うのを迷うかのように智哉が続けた。

「瑞樹と会いたいから」

「俺も」

 間を置かず、返した。俺は馬鹿だ。その一言を期待していたんだと心が言った。だってもう痛くないから。温かい気持ちだったから。

「俺も智哉に会いたいから毎日来る」

 それ以外に理由なんてない。

「嬉しいなぁ」

 そう言いながら少し頬を赤らめる智哉は可愛かった。

「同じ気持ちなんて嬉しい。瑞樹と話していると時間が過ぎるが早いなあって思うんだ。病院だとあんなに時間が過ぎるの遅いのに」

 俺も同じだった。学校では時計の針の動きは物凄く鈍く感じる。早く早くと訴えかけるがなかなか進まない。なのに、智哉といる時間はすぐに過ぎてしまってなんだか割に合わない。


 智哉に会う手段は海に行くことしかなかった。それゆえ、時々彼は幻なんじゃないか、これは夢なんじゃないかと思ってしまうことがある。智哉は携帯を持っていないし、入院中だから家に行っても仕方ない。病院の場所は多分わかる。しかし行くことは出来ない。相手からこうゆうことは言うものじゃないんだろうか。来ていいよ、とか。だから今日もどうしても海に行きたかった。あいつに会うために。  汚い。汚い世の中。綺麗なのは。


 もう空は暗くなり始めていた。智哉はまだいるだろうか。バスのドアが開くと同時にお金を投げ入れて、飛び出した。角が取れて滑りやすい階段を駆け降りる。

 目標のあいつは薄暗がりの中に淡く白く浮かび上がっていた。儚い、俺の小さな光。

「……智哉!!」

「瑞樹、待ってた」

 そう言ってあいつは微笑んだ。俺はそれだけで良い。あいつの笑顔さえあればそれでいい。俺の世界に光が射すから。

「寒かっただろ」

「ちょっと、ね。でも大丈夫。だって、瑞樹に会えたから」

 俺が来たからって温かくはならないよ。彼は俺が来なかったらいつまでも待っているつもりだったのだろうか。病人がそんな無理するほど俺に会う価値があるとは思えないのに。こいつは待っていてくれた。手の色が寒さで紫色になっている。そっと両手を取って、俺の手で包み込む。とても冷たい。芯まで冷えてしまっているようだ。どれだけ長い間一人でここにいたのだろう。智哉は綺麗だし、可愛いし、力弱そうだし、もしかして襲われないかと心配だ、とか思ってしまう自分が心配だ。

「瑞樹?」

 ずっと無言で手を握ってしまっていたのに気付く。

「あ! ごめん」

 おかしいよな。普通同じ男子高校生の手なんて握らない。でも、こんな寒い中ずっと一人で俺を待っていたと思うと嬉しさというよりも、愛しさが広がっていく。これはもう知らないふりはできないのではないだろうかというくらい俺の中での智哉への想いは大きくなっていた。しかし、どこかで普通でいることに囚われる汚い人間の一人である俺がいた。


 智哉は俺が行くと必ずもうそこにいた。必ず一人浜辺に佇んでいるのだ。六時限目で終わる日も、ちょっと早く五時限目で終わった日も。あいつは俺が来るとすぐに気付いてその温かい笑顔を向けてくれる。俺はふと気になってしまった。彼はいつからここにいるのだろうかと。ずっとここにいるのではないかと。また、もしかして見られては困る何かがあるのではないかとも思った。絶対俺より先にいて、帰りも俺の家に向かうバスの最終便より病院へのバスの最終便の方が遅いので帰るのを見たことがなかった。

 

 俺はその日、学校を昼から抜け出して海に向かった。智哉がいない以外はいつもと変わりのない海。しかし輝きは半減したように感じる。海の輝きは智哉の存在によって増すらしい。どうやら、まだこの時間には智哉は来てないようだ。

 バスが停車する音がした。お昼休みも終わる頃。まさかこんな早くから来ていないだろうと思ったが、バス停の方を振り返ると智哉がゆっくり降りてきた。あいつはこんな早くから日が暮れるまで海を見ているのか。だってここには何もないんだ。海以外には何も。言葉を失っていると、彼は思ったよりゆっくりと、そして手摺りに手を滑らせて階段を降りてくる。それに若干の違和感を覚えた。そのまま立ち尽くしていると、こちらに向かって歩いてきたがいつもの笑顔を向けてはくれなかった。もう見えていておかしくない。気付いていないのだろうか、それとも嫌われたのだろうか。心の辺りがひんやりしたのを感じた。いや、ほら、彼は目の色素薄いし、視力悪いのかもしれないじゃないか。

「智哉……?」

「……瑞樹! 今日は早いね」

 智哉はびくっと肩を震わせてから、俺の名前を呼んだ。やっぱり気付いていなかったらしい。

「ごめんね。僕、目悪いから」

 嫌われてないと分かってほっとしたの半分、新たな可能性に焦り半分。

「悪いってどのくらい?」

「この距離で俺に気付かないくらい?」

 彼はしばらく黙って、下を向いていたがその後決意したように顔をあげた。

「やっぱり嘘はよくないよね……ごめんなさい」

 智哉はきっちり九十度に腰を曲げて俺に謝った。

「本当はほぼ見えてない。分かるのは明暗くらいかな。あとは人の気配とか動きで大体は分かるよ」

 彼は暗い感じなんて全然なくて、あっさりと告白した。気を使ってくれているのかもしれないけれど。

「ずっと黙ってたこと許してもらえるとは思わないけど、もう言いたかったこと全部言っていいかな」

 まだこれ以上何かあるというのだろうか。許すも何も俺は全く怒ってなんていないのだけれど。とりあえず、最後まで話を聞こうと頷いた。

「好きだよ」

「は?」

「僕、こんなにも他人を想ったことないんだ。毎日毎時間毎分、瑞樹のこと考えてる。だからこれが好き、かなって」

 もう勘弁してくれ。頭がついていかない。なんだこの急展開。心の準備が全く出来ていない状態での告白。智哉のことは好きだ。この気持ちは他の誰とも違う形の好きだと思う。でも自分の中ではまだはっきりとは答えが出ていなくて。嬉しくないわけじゃない。今の彼は何か違うのだ。俺が今まで知っていた彼と。

「でも、この気持ちに対する返事はいらないから。瑞樹、困るでしょ? 僕ね、目が見えない僕じゃなくて、僕自身を好きになって欲しかったんだ。だから目が見えない僕じゃなく普通の僕を演じた。目が見えないって言ったら、絶対そこには同情や哀れみが入るから。同情や哀れみからじゃなく僕を好きと言ってほしくて……」

 智哉の綺麗な顔が曇ってゆく。綺麗な瞳に涙が溜まる。

「でも気付いたら僕のが瑞樹を好きになってた」

 彼は笑いながら泣いて、泣きながら笑った。そんなあいつが切なくて、小さくて、悲しくて。堪らなく抱きしめたくなる。

「可笑しいね。これも運命だね」

「……どっちかにしろ」

 衝動に駆られそうになる腕を必死に抑える。彼が今一番望まないもの、同情の類で抱きしめないために。まだこの気持ちをはっきり形容できない俺に抱きしめる資格はない。

「笑うか泣くかどっちかにしろ」

 ずっと笑ってきた君に泣いてもいいと伝えたくて。そういう俺も泣きそうで笑いそうだった。


 あの時の違和感は真実だと思ったものが嘘で、綺麗だと思ったものが虚偽だった、そんな気分のためだろうか。あいつは嘘をつかないと信じていた。真っ白な存在だって。でもそれはなんて身勝手な考えだったのだろう。自分の女神像のようなものを彼に押し付けて。自分だって簡単に嘘をつくのに。汚い人間なのに。彼を見ていなかったのは俺だった。知った気になっていた俺だった。

 次の日もいつも通りバスに乗り、海まで行った。でも海岸へと降りていく階段より先には行けなかった。そこにはいつもと変わらない智哉の姿があった。一人で座って海を眺めていた。ただいつもより小さく見えるのは気のせいだろうか。足を縮めて、両腕で自分を抱きしめて。俺には気付かない。だっていつだって俺から声をかけていたから。そう思い返したとき、例外を思い出した。最初に、本当に最初出会ったとき声をかけてきたのは智哉だった。あいつが声をかけてくれなかったら俺はお前に会えなかったんだ。こんな言葉に表せない、哀しくも嬉しく焦がれる気持ちも知らなかった。ああ、今すぐ伝えたい。

 階段を駆け降りる。滑りそうになる。最後の二段は飛び降りた。


「海綺麗だな」

 今度は俺から声をかけよう。君は海を綺麗だと言った。君が綺麗だというなら綺麗なのだ。

「瑞樹!」

「もう来ないかと思った」

 俺の顔を見て、一瞬すごく嬉しそうにしてくれたのに、すぐ弱々しい笑顔を浮かべた。君の綺麗な笑顔が見たい。日の照らすような温かさの綺麗な笑顔を。

「来るよ。何度だって来るよ。智哉に会えるなら」

 俺は人生で初めての告白をした。といっても僅か十七年の人生で、だが。

「智哉が好きだ。同情なんかじゃない。俺はお前を可哀相なんて思わない。もっと一緒にいたい、もっとお前を知りたいと思う」

 ただ智哉の瞳を見て訴えかける。俺の気持ち伝われって。

「智哉が海は綺麗だって言ったから、俺も綺麗だと思えた。智哉が運命を信じると言ったから、俺も信じたいと思った」

 智哉は途中から泣いていた。でも目は反らさないで聞いてくれた。

「それじゃあ、だめか?」

 ああ、その震える肩を抱きしめたい。なあ、俺が触れたらだめか。

「だめじゃない。だめじゃないよ。でもね、僕言ってないことがまだあるんだ! どうしても言えないんだ!」

 そんなに擦ったら赤くなるよってくらい零れる涙を掌で払う。それでも追い付かず頬を伝って地面まで落ちていく雫。

「……長くは生きられないんだ、とか? 病気が治らないんだ、とか?」

 こいつの思いが痛いほど伝わって、何が言えないのかまで解ってしまう。直接過ぎる言い方だとは思ったが、これ以上言えないんだと苦しむ彼を見たくなかった。

「瑞樹はなんで言いたいこと、分かっちゃうの」

 頬にあった両手をだらんと下ろした。力が抜けたように。

「好きだからじゃないか」

 ほろりと零れるような笑顔をくれた。

「・・・・・・僕の病気は多分治らなくて、僕は多分早く死ぬ。それは運命だ。だから受け入れてた。瑞樹と会うまでは。でも瑞樹と会うたびに、好きになっていくほどに、ああ奇跡が起こればいいのにって思うようになって。瑞樹とずっと一緒にいたいって。でもやっぱり僕は、運命を信じるよ。僕が病気で海を見たことがなくて、あの日海を見に行ったから瑞樹に会えた。瑞樹に会わせてくれた運命に感謝だってするよ」

 儚い君が堪らなく愛おしい。

「俺も感謝してもいい。その運命とやらに」

 細い手を取って引き寄せると、軽い智哉は俺の腕の中に収まった。そのまま腕を背中に回して、捕らえてしまう。

「あったかいね。離れられなくなっちゃいそう」

「いいんじゃない。離れるつもりなんてないし」

「瑞樹が辛くなるのに?」

「あのな、なんか俺が残されるみたいな言い方だけど。わからないだろう?俺だって明日隕石でも落ちてきて死ぬかもしれないし。みんな平等に明日死ぬかもしれない命だ」

 智哉は俺の腕の中でじっと聞いていた。それから笑い声を零した。

「なんか変なの。あの瑞樹からそんな言葉が出るなんて。出会ったときからは考えられないよね」

「俺も変わったんだよ。智哉に会って」

 笑い返した。すると自然と目が合って、初めての口づけをした。激しさも深さもない、ほんの一瞬の出来事。でもこんなに幸せな気分になるのはなんでだろう。

「もう僕死んじゃってもいいかも……」

 そう呟いて、擦り寄ってくる智哉が可愛すぎる。これはもう一度キスしてしまっても誰も責められはしないはずだ。


 俺たちは相変わらず海で会っていた。でも休日には病院に許可をもらって遠くへ出かけたりした。何か変ったことがあるかと言えば、触れていいときに触れることができて、抱きしめたいときに抱きしめることができるようになったということだろうか。

「夢、叶っちゃったな」

「夢・・・・・・ああ、初めて会ったときに言ってたあれ?」

 オレンジ色に海が染まる頃、ふと智哉が呟いた。ことん、と体育座りしたまま頭を俺の肩に乗せてくる。

「叶ったら教えてくれるんだろ」

「・・・・・・僕が本気で人を好きになって、その人に本気で好きになってもらうこと」

 言い難そうに、顔をほんのり赤くして打ち明けた。なんだか、こっちまで恥ずかしくなってくる。

「今更だけどさ、俺なんかでいいの? 正直に言うと、頭良くないし、顔も良くないよ」

 自分で言っていて虚しくなるが。騙すのは良くない。はっきり言っておこう。

「瑞樹は頭の良さで人を好きになるの? 顔で好きになるの?」

「……すみません! 俺が間違ってました」

 これは素直に間違いを認めるしかない。だって、俺は智哉のそんなところを見ていたわけじゃない。

「でも顔ってのはあるかもなあ」

「智哉、すごく綺麗だし」

「瑞樹もかっこいいよ! すごく」

 いや、分からないだろと突っ込みそうになったがやめる。

「あ、疑ってる! 分かるんだから」

 そう言うと、もたれていた頭を上げて左の掌で頬を、右の掌で顎の辺りを触る。それから顔のそこら中をぺたぺたやりだした。

「こうやって触れば分かるんだから」

 智哉の触れたところが気持ちいい。

「ほら、瑞樹はかっこいい!」

 誇らしげに告げるこいつが可愛くて可愛くて。俺の顔をまだ触れ続けていた手を両方とも掴むと、顔を智哉の顔に触れるか触れないかととこまで近づける。

「分かったから」

 そう呟いてやると、そのまま唇を智哉のそれに重ねた。

「僕ね、目は見えないけど、瑞樹は見えるんだ。瑞樹ってすごく温かい匂いがするから」

 温かい匂いってなんだと思ったが、智哉が言うからそうなんだろう。何よりそんなこと言ってもらえて嬉しいから、どうでもいいのだ。

「ねえ、瑞樹。僕はこの場所が大好きだよ。瑞樹とまるで二人きりの世界みたいなこの場所が」

「人は遥か昔海から来たんだよね。だったら死んだら、この海に帰りたいな。瑞樹のいるこの海に」

 いつかの俺と同じことを考えていた。死のうと思って海に来たあの日に考えていたことと同じだ。やっぱり俺達は違うようで、似た者同士なのかもしれない。

「じゃあ、帰ろうか。一緒に」

「そうだね。いつか一緒に帰ろうか」

 掴んでいた智哉の手は冷たかった。俺が触れているところが少しだけ温かくなった気がする。その時、確かに智哉はここにいた。俺の中に。


 それからどれだけ経っただろうか。彼は運命に告げられたとおり、俺より早く死んだ。俺たちは海以外では会わなかった。決めていたわけではないがなんとなく暗黙の了解のようなものがあった。後から聞いた話によると彼はかなり無理に頼んで海に通い続けていたらしい。俺は死に目にも会わなかった。彼が全てを親に打ち明けていてくれたから、好きな人がいるのだと、葬式にも行けたようなものだった。そうでなければ俺は彼の最後を見ることも出来なかったはずだった。棺の中の智哉はあまりに綺麗だった。すぐに目を開けて。あの優しくも儚い笑顔をくれるのではないかと思ってしまうほどに。だから俺は泣けなかった。


 お葬式も終わり、火葬も終わると俺は一人で海にいた。一人で見る海の寂しいこと。こないだまでは美しいとさえ思えた海はただの濁った塩水と化した。俺はポケットに隠していた、白いハンカチに包まれたお骨を取り出した。服のまま海へと入っていく。胸の辺りまで浸かるとこまでくると、お骨を載せた掌をゆっくりと海へと沈める。何度か波がその上を通り過ぎ、智哉の欠片を攫っていった。もう二度とは帰らない。俺はそこで初めて涙を流した。


 世の中くだらないかもしれない。いっそ死んでやろうか、とさえ思うかもしれない。でも確かに世界に光はあるのだと。あいつに会って、俺の世界は存在し始めたのだと。そんなことを思いながら来た海に、あいつはもういなかった。

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