第五章 管理省の調波官たち 5
その日、訓練が終わり、皆がオフィスに戻って簡単に片づけると、そのまま寮に帰ることにした。
いつも忙しそうに残業ばかりしていた凪乃も、今日たまたますることがないらしく、透矢がオフィスを出ると、とても自然な感じで後ろについてきた。
特に分けて帰る理由もないので、透矢も拒絶していないと、千紗が深い意味の笑みを込めた目で見てきたが、それは無視することにした。
探索庁から調波官の寮まで、さほど距離がない。普段なら、数分で帰れるのだが、ここ数日、加苗が家にいないので、夕食は自分で済ませなければならない。凪乃と一緒に夕食を買ってくると、街はとっくに夜の帳に覆われていた。
星のあまり見えない空の下で、人通りの少ない道を歩く。二人分の足音が空気に刻んでいく。こうして静かな道を歩いていると、ほかの音がしない分、足音がようやく聞き取れる。微かな凪乃の足音が、彼女はやはり生きてて、そこに存在していることを実感させる。
「な」
「………?」
目を向けずに声を掛けると、凪乃が顔を上げて見上げてきた。
「そういや、小雀の剣陣って、いったい何なんだ?」
「リスト、読んでないの?」
「読んでもよく分からねぇから聞いているんだ」
「そう」
無感情な声で答えると、ガラスのような目を前へ戻す。少し間を開いて、小さな口を開く。
「式の一種」
「それは知っている」
「魔法陣、数秘術、陣法、結界、剣術を基礎理論にして、十三の一人、
「俺、リスト読んでも分からねぇって言ったけど、お前リストと同じこと言って、俺が分かるって思っているのか」
「………」
透矢の指摘が一理あると思っているのか、凪乃が静かに瞬きをした。それが凪乃の乏しい感情表現の中でも相当分かりやすい部類に入るのだと、最近だんだんわかってきた気がする。
そして、説明を思いついたのか、また口を動かせる。
「中世ヨーロッパの立体魔法陣、カバラ数秘術、中国古代の陣法、陰陽術の絶界、ドイツ流剣術と日本の一刀流系統を中心とした剣術が基礎理論で、現代の式理論の立体構成設計や――」
「分かった。お前、説明するの諦めろ」
「ひどいね」
「ひどいのはお前の言語力だ」
まったく抗議するつもりがないらしい声で抗議され、透矢があっさりと白旗を上げた。
理論とか、そういう説明が必要なものは晴斗に聞くべきだった。
「まあ、いい。質問を変える。あの剣陣とやら、俺も使えるか」
「透矢が?」
「ああ、見たところ、小雀は調波刀で使っているようだが、やつらと戦ってたとき……挟み撃ちされたときだ。俺は一瞬、使った感じがした」
「………」
透矢の言葉を聞いて、凪乃が何か言い返すことがなかった。
代わりに、透き通った目を前へと向け、水銀のプレートに挟まれた柔らかい髪を、控えめに風になびかせる。
二対二の訓練の最後、透矢は挟み撃ちされた状態をどうにか乗り越えようとして、切断の攻性理論を剣陣のイメージで全方位に展開した。
日本刀の渦が外へと広がるように円を描いて斬り出したのを、凪乃も見ていたのだろう。その光景を思い返して、可能性について検討しているのだ。
「晴斗は、二十五式調波刀で剣陣を使っている。二十五式には、剣陣を誘発する式を予め記入してあるから」
「それは知っている」
「でも、照葉も剣陣を使える。九十九の剣姫も、調波刀ではなく、式が記入されていない刀で剣陣を編み出した。二十五式は、九十九の剣姫の剣陣を系統化し、管理省の戦力上昇のために作られたもの」
「つまり、やり方次第では、俺も使えるかもしれねぇってことか」
「うん」
小さく頷いて、言葉を続ける。
「剣陣は、理論上九十九種があって、今は全部解明されていないけど、透矢なら、使える」
「そうか」
「でも、いきなりでは使えない。わたしは使えないから、教えられない」
「小雀に聞けばいいだろう。何もお前に教えてもらわないといけないことはないだろう」
「わたしがメンターなのに?」
「メンターがメンターで、知らねぇもんは教えねぇだろう。そんなに教えたいのか」
「分からないわ」
「そうか」
適当に答えると、少しだけ考える。
晴斗が使う剣陣は、式で構成された複数の剣で第二の式を構成し、調波の強度を上げるものだ。つまり、剣の並び自体が一つの式。
自分の場合、剣を構成するものは切断という概念だが、切断の概念で構成した剣陣は、全く違う効果を出せるかもしれない。式で組んだ式を、攻性理論で組んだ式にすることになるのだ。
もし、それができれば、今までよりもできることが増える。それなら……
「………?」
考えていると、ふと、横から凪乃がこちらを見つめているのに気付く。困惑の眼差しで見つめ返すと、凪乃が一回瞬きをした。
「なんか用か……?」
「ないわ」
「じゃ、何急に見つめてくる」
「………」
その質問を聞いて少し考えると、可憐な唇を微かに動かす。
「分からない」
「………」
もともとよく分からない人だが、今日は一段と理解しづらい感じがする。それに、こう言っている間にも、凪乃からは目を離す気配が全く感じられなかった。
「そういえば、お前、訓練終わったときも変なことしたな」
「してなかったわ」
「しただろうが。人の頬っぺたを勝手に持ち上げんな」
「メンターなのに?」
「メンターとか関係ねぇだろう。ていうか、あれはいったい何なんだ?」
「………」
聞くと、凪乃が間を開いてからゆっくりと言葉をこぼす。
「メンターは、教育係」
「………」
「後輩調波官の体調や心理状態を把握しなきゃならない」
「………」
「怪我の具合も確認しなきゃ。式による傷害は、ときには肉体ではなく、生命現象に影響を及ぼす」
「………」
「だから、顔色、窺った」
「お前言いながら考えてただろう」
「ひどいね」
「それに、お前には顔色なんか窺えるのか」
そもそも感情というものを理解できないのだ。感情の機微を読み取るなんて、無理に決まっている。案の定、問いを投げると、凪乃が言葉を返さずに黙り込んだ。
「なぜ黙る」
「ひどいね」
「ひどいって言うなら、やっぱり顔色なんて分からねぇじゃねぇか」
「君はいつもこうやってわたしの心を傷つける」
「………。……は……?」
「佑弦なら、こう言った」
「真似するだけなら先に言え。驚いただろうが」
なんというか、別にそんなに長く話していないはずなのに、心がすっかり疲れた気がする。
幸い、寮はすぐそこだ。部屋に帰って夕食をさっさと済ませれば、あとは自室で休める。
寮の中では、凪乃は基本自分の部屋にいるので、こちらから話さない限り、向こうも話してこないだろう。
そう思っていると、寮へと続く最後の道を過ぎ、正門の前に来た。
中へ入ろうと足を踏み出――そうとすると、ふと、裾から力を感じた。
振り返ってみれば、凪乃が立ち止まって、小さな手で裾をつまんでいるのが分かった。
予想外の行動に目を見開いて、一時的に言葉が出てこなかった。それでも、強引に自分を冷静にさせて、いつものようにと意識しながら口を開く。
「どうしたのか」
「透矢は、晴斗のことを名前で呼んだ」
「そうだな」
「でも、今まで一度もわたしのこと、名前で呼んでない」
「………。呼んでただろう。墓守にいたとき、お前が調波官だとバレたらまずいんで――」
「ノーカンよ」
「………」
吸い込まれそうな瞳に真正面から見つめられながらそう言われて、思わず視線を逸らしてしまった。
薄々思っていたのだが、今日の凪乃は、本当におかしい。うまく言葉にできないが、どうにも「違う」気がする。
とはいえ、これから一緒に仕事するものだ。確かに、ほかの隊員のことを名前で呼んでいて、凪乃だけがお前で呼ぶのも、逆におかしい気がする。
そう自分に納得させてから、透矢が一つため息をつくと、諦めたかのように視線を戻す。
「分かったよ。羽月。これでいいだろう」
「よくないわ」
「気が済んだら部屋に……は?」
「羽月は苗字」
「苗字も名前だろう。小雀も小雀で呼んでるが」
「羽月は苗字」
「お前、今日どこか変だぞ。頭でも打ったのか」
「打ってないわ」
「分かってるから、いちいち真面目に答えるな」
「でも、羽月は苗字」
「でも、の使い方分かってんのか……?」
「分かってるわ」
「だからいちいち真面目に――、いや、なんでもねぇ。なんか変なループに入りそうな気がする」
「でも、羽月は苗字」
「………」
壊れたレコーダーみたいに、同じ言葉を繰り返している凪乃を少し苛立ちの混じった目で見やると、凪乃が視線を逸らすことなく、それを澄んだ紫色の目で受け止めた。
知っているはずだ。この透き通った目は、この少女は感情なんか分からないから、いくら感情をぶつけても、意味をなさない。
しかし、もし、凪乃が機械仕掛けの人形だとすれば、今の彼女は、きっと、どこか壊れていると思う。
別に明日になれば、寝ている間に自動修復かなんかでいつも通りに戻ると思っているのだが、今の凪乃はおかしいことは確かだ。
おかしい凪乃の合理性に欠ける要求を呑んでやる義理も必要もないから、これは無視していいのだが……
「透矢?」
小さくて華奢な手で裾をつままれ、上目遣いで見つめられ、無表情のまま小首を傾げられると、うまく言葉にできないが、なんというか、嫌だと言いづらくなってしまう。
「はぁ……」
やがて、最後のあがきとして、凪乃の好きな論理的な言葉を口にすることにした。
「理由を聞こうか」
「同じ小隊だから」
「同じ小隊だから、下の名前で呼ばなきゃならないのか」
「違うわ」
「………?」
予想外の言葉に、思わず凪乃の顔に目を向ける。すると、凪乃が見つめる視線を離さずに、言葉を紡ぐ。
「わたしが、そう呼んでほしいから」
「―――ッ! は……?」
「そう呼んでほしい」
透き通った声が空気を震わしては、はかなく空間に溶けていく。
愕然していて、一時的にどう反応すればいいのか分からなかった。
しかし、もう言い返すことはできない。
理攻めを得意とし、理性の塊だと思っていた凪乃が、合理性もなんもない理由を、大真面目に言い出しやがったのだ。今までの凪乃対応策では、通用するわけがない。
「分かったよ」
もう抵抗しても無意味。そう理解して透矢が額を抑えてから、裾をつまんだ凪乃の手を払い、振り返って背中を見せる。
「………」
背後で、凪乃が払われた手の指をほんの少しだけ動かす。指先が虚しく空気を切った。その手が空中に静止した。何かを考えているのか、凪乃が己の手を見つめて、少しだけそうしていると、やがて、手を静かに下げる。
そこで、凪乃の鼓膜を、決して大きくはないが、はっきりとした声が伝わった。
「凪乃、これでいいだろう」
少し見開かれた透き通った目に、いつもの街並みは心なしか、いつもよりも少し明るく見えた。
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