第四章 凪いだ君の心の奥底 1

 中央都市C3・中央区。

 新紀元29年・十月三十一日。

 通常時間軸・日本標準時07:36。


 探索庁の出勤する時間はまだ一時間ほどあるのに、リビングの中はいつもより騒々しい雰囲気に包まれている。

 とはいえ、それはいつも通り加苗が出したものではなく、嵐司が立てた物音だった。

 調波器を収納するアタッシュケースに調波器などを収め、ついでに、リュックに衣類を突っ込んでいるのだ。

「どっか行くのか」

「ああ、いきなり任務ってな。俺も驚いたぜ」

 持っていくものの準備を終わらせ、嵐司が顔を上げて、透矢に目を向ける。

「なんでも、海上の中央都市に行くらしい。知ってるか、海に漂って、動く中央都市だそうだ」

「海を見たこともない人に何を言っている。それで、なんでまたいきなり」

「ちょっと昔のことがバレちまってな。十三とツーマンセルを組むことになったんだ」

「十三……?」

「管理省の最高戦力の十三……十二人だ。着任式で偉そうなこと言ってた長官がいるだろう? あれもその一人らしいぜ。ま、俺の先生ってやつは末席だけど」

 リュックを右肩に背負い、アタッシュケースを持って玄関に来るとブーツを履き始める。

「そういや、俺も一応、透矢と一緒じゃなきゃ嫌だって言ったけど、同じ任務だから心配いらないって言われたぞ。何か知ってるか」

「俺のところにはまだ何の知らせもきてないが」

「そうか」

 手早くブーツを履くと、嵐司がどうでもよさそうに肩をすくめる。

「俺もよく知んねぇけど、聞いた感じじゃ、何の関係もないとは思えねぇ。ま、なんだ、俺は空気を読めるいい人でね、大切な親友に、妹とヒロインとの同棲生活を楽しませるだけでも、この任務を請ける甲斐があるってもんさ」

 最後に、黒の制服を肩にかけ、振り返りざま片目を瞑って見せてきた。

「その妹のほうは元気なさそうだがな」

「そこはお前の仕事だろう。妹のご機嫌取りって、お兄ちゃんの責任ってやつじゃねぇの?」

 透矢の胸元を拳で軽く叩くと、嵐司がいつもの不遜な笑みを浮かべてドアを開け廊下に出ていった。

「んじゃ、またな。長期任務らしいから、なんかあったら携帯端末で連絡しろよ。泳いでも帰ってきてやるからさ」

「なら、泳いで墓守とこに戻っていけ。皆会いたいだろう」

「それ、お前のことじゃねぇの?」

 最後に笑顔でそれを言い残すと、嵐司が手をひらひら振って、廊下へと去っていった。

 ドアを閉じ、リビングに戻った透矢は、ドスンと座ってぼんやりと最近のことについて考え始めた。

 メンターというものに会ってから、嵐司も加苗も、ある程度変わってしまった。

 嵐司はメンターと二人で多国運営の海上中央都市に行くという任務を請け、翌日になってすぐ出かけることになった。

 加苗といったら、メンターに何を言われたのか、帰ってきたらずっと何かを隠しているように見える。

 いつも通りに振舞っているとはいえ、どこかわざとらしく思えるのだ。それに、いつも絡んでくるのに、昨日から今までずっと部屋に閉じこもったまま、持ち帰った本に専念している。

 もともとやるときは静かで一つのことに集中するタイプとはいえ、長年の付き合いで培ってきた加苗に対する認識とはどうも違う。違和感というか、不自然に感じるのだ。

 そんな透矢も、人のことを心配している場合じゃないが。

「透矢」

 朝の支度を終えた凪乃が、ウィンドブレーカー姿でリビングに現れた。

 中はちゃんと別の服を着ているらしく、肌が透けて見えることはないことに安堵しつつ、ソファに座るまま紺色の目で凪乃を見上げる。

「なんだ。もう行くのか」

「うん」

 聞かれて、凪乃が小さく頷く。

 メンターということもあって、今日から一緒に出勤すると凪乃から言われたのだ。

「分かったよ」

 別に今更ここであえて拗ねることもない。透矢が白の制服を手に取ると立ち上がり、玄関のほうに向かっていった。




 第○○六小隊は、結成したばかりのほかの小隊と同じ、最初の仕事は調波器の受け取り、組織としてのルールや役割、それとスケジュールの確認から始まる。そのあと、ほとんどの時間が調波器の整備と確認に費やされている。

 残った時間も小隊結成に伴う書類の対処に追われ、調波官の仕事のイメージとはかなりかけ離れている。

 晴斗はさすが頼れる男で、朝からずっとパソコンと向き合って書類を処理していってはまとめたものを凪乃のパソコンに送ったりしていたが、その隣で、整備設備で錨の整備をしている照葉は、何度も顔を机にくっつけるようにうつぶせていた。

 そのたび、晴斗は凪乃を例にとって諭したり、励ましたりしたので、一応やる気は何度も取り戻したが、それも昼に近づくとだんだん利かなくなった。

 その二人のことは少し知っているから、そんなやり取りには特に何か感じることはない。透矢が驚いたのは、見た目では不良で間違いないはずの千紗は、案外と熟練した様子で、テキパキと仕事をこなしている。

 ついでに言うと、腰に付けた日本のチェーンとか、腕輪や指輪やらは調波器らしく、外して整備しているところも見た。ピアスはさすがにただのアクセサリーらしいが。

 で、透矢がしていることというと……

「ここをクリックして」

「ここか」

「違うわ」

「……ここか」

「違うわ。ここよ」

「最初から指で指せ」

「次は入力して」

「だから何をだよ!」

「小隊所属コート」

「そんなものがありゃ、最初から教えろ」

「これで分かった?」

「お前に説明されると余計に分からなくなった。もういい、自分でやる。少し黙ってろ」

 調波官が使うウェブサイトの説明を、凪乃にされていることだった。

 調波器の申請、訓練場の申請、庁内の資料の閲覧許可申請、探索庁への協力申請……調波官の仕事の大半が、このウェブサイトを通じて行われるのと、調波官のほかの仕事内容は圏外での経験ですぐ慣れられるのが原因で、最初の仕事内容はこのめんどくさい勉強になったわけだ。

 とりわけ難しいことじゃないはずだが、書類の形式とか、入力すべきコードとか、調波器の番号やほかの雑なものが多すぎるせいで、全部覚えるのはそれなりに労力と時間を必要とした。

 とはいえ、さすがにこれは午前中で全部済ませることに成功した。午後からは調波器の整備する予定らしい。圏外で慣れた仕事だ。教えてもらわなくてもできるので、ようやく凪乃から解放されることができる。

 そう思いながら、オフィスの壁際に並べられた錨を収めたアタッシュケースを見やる。すると不意に、隣の凪乃のポケットから携帯端末が震えた声がした。

 それを取り出して画面を確認すると、朝からずっと隣に座り付きっ切りだった凪乃は、ようやく立ち上がって小隊長の席に戻ってくれた。

 感情とは何かをまるで分かっていない凪乃のことだ。距離感など掴めるはずがない。そのせいで、隣にいるとき、肩が触れそうで、ラベンダー色の髪が淡々とした花の匂いを混ざってくすぐってくるのを透矢がずっと耐えていた。

 ようやく解放されたとはいえ、しばらくはこうするしかないと思うと、ため息が自然とこぼれる。

 と、そこで、

「………?」

「羽月? どうしたの?」

 透矢と晴斗が、同時に凪乃の異変に気付いた。

 うまく言えないが、急に、ぴくりと動きを止めたように感じる。

 いや、もともと微細な動きがない人だから、実際はそうじゃないかもしれないが、確かに、凪乃は一瞬頭が真っ白になったように見えた。

 とはいえ、それも一瞬の出来事にすぎない。

 凪乃はすぐいつも通りに戻り、携帯端末をいじると今度はパソコンを使って、もらったデータをオフィスのスクリーンに映し出す。

「通知、二つある」

 空気を透過するかのような透明な声が、小隊隊員の四人の鼓膜を震わせる。

「三日後、模擬戦が行われる。場所と時間は端末に送る」

「えぇ、訓練いやだぁー……。……? ん? な、凪乃お姉ちゃんと一緒に訓練……!」

「それと」

 何やら一人で気持ちを変え、やる気に満ちた照葉を無視して、凪乃が二つ目の通知を口にした。

「午後、予定変更」

 透矢は、凪乃の目や声からは感情らしいものが見えない。仕草も、表情も、人間に必要な何かが欠落しているように思えるのだ。

 まるで、人形。淡々とすべきことをして、最善策を取り続け、このまま永遠に永久に、朽ちるまで動いていく合理性を突き詰めた理性的機関。それが凪乃という人だと、透矢は今までそう思っていた。

 しかし……

「先遣隊が戻った」

 このとき初めて、透矢はその透き通ったような、今でも消えそうな少女はやはり人だと、そう思えた。

「告別式に出席する」

 何の感情も込めていない、抑揚のない一言。

 しかし、何度も似たようなことを仲間に言ってきた透矢が、彼女が今悲しんでいるのが、なんとなく確信できる気がする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る