第六章  希望なき世界で 4

 本能の赴くまま、鱗鬼は触手を振り回しながら、前進していく。コンクリートの建物が砕かれ、地面が抉られる。その余波で、街灯も歪められた。前へと進むたびに地獄の景色を広げていく。

 周囲に容赦なく爪痕を残す、歩ける災害だ。透矢に二本の触手を切り取られ、体のところどころに血を垂らしていたが、大きかった傷口も今は災変の驚異的な修復力で、すでに半分は直りかけている。

 そんな災害の体に、突如、厚さの概念をなくしたような銀色の光が斬り込んだ。

 さっき透矢が繰り出した暴力的な斬撃とは真逆な、鱗鬼には痛みを感じることすらできない攻撃だ。「切断」という概念を叩き込む透矢と違って、銀色の斬撃は実際に存在する物質だ。物理的な防御力が異常に高い鱗には通らないのだ。

 しかし、斬り込んだ斬撃のほとんどが分厚い鱗に弾かれようとも、鱗の継ぎ目には確かに僅かな水銀が肉にぶち込まれた。その水銀は丁寧に肉を裂き、体の奥まで侵食していく。

 それから、また一つ、斬撃が斬り込んできた。二度目の攻撃で、ようやく何かが自分に傷づけていると気づいて、鱗鬼は攻撃の仕掛けてきた方向に触手を振り下ろす。

 乖離指数三。管理省の分類法によれば、鱗鬼の危険性は普通の泥や血霧なんかを遥かに上回る、下手すると伝承持ちの災変と同じような脅威を持ちうるものに分類されている。

 そんな化け物は触手を振り下ろすだけで、大質量によるスピードと威力で集団にとって致命的な打撃を出しうる。

 透矢の攻撃とは違った大質量による暴力の権化が数十本揃って、同じ方向に繰り出されていく。地面が無造作に抉られ、建物が粉々にされていく。太い鉄骨も捻じ曲げられていく。

 しかし、鱗に覆われた触手は目標を捉えることができず、逆に一本一本、例外なく、丁寧に水銀をぶち込まれていく。

 分厚い鱗に覆われた触手に抉り取られた地面を軽く蹴り、空中に来た凪乃はガラスのような目で鱗鬼を捉える。華奢な手が微かに動くと、手にした水銀の大鎌が銀色の光と化し、空間を走っては各方向から鱗鬼の体に斬り込んでいく。

 少しずつ、だが確実に鱗鬼の体に傷を与え続ける。

 しかし、凪乃は……おそらく鱗鬼も知っている。凪乃のこの攻撃では、何年かかっても鱗鬼を殺せない。

 透矢の能力と違って、概念であの鱗に切断の結果を与えることができない。もしダメージを与えたければ、物理的な強度であの鱗を勝って、水銀で叩き切るしかない。が、そんな強力な一撃を凪乃には放てない。

 となると、鱗の隙間を狙って傷を与えるしかないが、その傷もすぐ鱗鬼に修復され、なかったことにされる。このままでは負けはしなくても勝つことはできないだろう。

 とはいえ、それを承知の上で、凪乃は攻撃の手を止めることはなかった。

 振り下ろされてきた触手と落ちてきたコンクリート塊を避けながら、華奢な体を舞うように回転させ、遠心力を利用し水銀を射出するかのように振り抜く。広範囲の攻撃で、鱗鬼の全身に水銀を叩き込み続ける。

 炎上した都市の中で、月明りを反射する儚い水銀の舞踏。

 「相手の攻撃を避ける」と「水銀を打ち込む」という二つのコマンドを、合理的かつ効率的に執行しているその姿は、美しさと優雅さを限界まで削減したことで、逆に異質的に美しく、優雅に見えてしまう。

 あるいは、そのほんの僅かも感情を込めていない戦いぶりは、巫女の舞とは本質が近いかもしれない。狂乱に振るわれる触手の中で淡々と斬撃を繰り出す凪乃の姿は、まるで彼女だけが別の世界にいると宣言しているようだ。

 銀色の斬撃は地面を切り、空を流れる。延々に続く光景。

 そして、どれぐらい続いただろう。

 いつまでも止まることのないと思わせる静寂の舞は、唐突に終わりを告げた。

「………」

 凪乃は何の前触れもなく、鱗鬼に斬りつけられ伸ばされた大鎌の先端を固体にし、固まらせる。大鎌の先端が固定すると、柄だけを回転させた。

 細い腕に回された水銀の柄は速度を上げていく中、凪乃は無表情のまま鱗鬼を一瞥し、傷の具合を確認する。

 問題ない。予定通りだ。

 そう確信してから、固体にして固定した大鎌の先端を、再度流れる水銀に戻す。同時に、回転された柄に込められた動力エネルギーを惜しみなく先端へと伝える。

 回転の速度がそのまま威力となり、刃の部分に伝わり――さらにあらかじめ鱗鬼の体に打ち込んだ水銀に伝わる。

 だが、今度は鱗鬼の体の中へではなく、逆に木を根っこごと抜くように、体から外へと、斬撃を放つ。――鱗鬼の体の中で増殖させ、束ねた無数の水銀の刃で。

「―――ウウウウウオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!」

 肉ごと鱗を抉り取られ、濁った血が飛び散る中、鱗鬼が耳障りな悲鳴を上げる。

 しかし、もう遅かった。すでに鱗鬼の全身に、水銀が埋め込まれたのだ。

 体の回転速度を増して、靴板での高速移動も利用し、凪乃は水銀を一度で回収することなく、ただ鱗鬼の体で水銀を増殖させながら、鱗鬼の表面の肉を淡々と抉り取り続ける。同時に、体に埋め込んだ水銀をもっと奥なところまでに侵食させる。

 ――鱗をどうにかすることができないなら、裏から鱗のついた肉を抉り取ればいい。

 合理的で、確実に「無駄じゃない」戦法だ。

 そしてそれが確かに機能している。鱗鬼の触手が、本体が、また触手が……体のところどころが安定したペースで、鱗の防御がない内側から鱗ごとに肉を抉り取られ続ける。分厚い鱗のついた肉塊が飛び散り、地面に、建物にぶつかって夥しい轟音を上げる。

 一般論でいえば、鱗鬼の体型では鱗を全部抉り取られる前に、取った部分が先に修復してしまうだろう。それほど、乖離指数が三に達しているネームドの災変が強烈だ。

 とはいえ、凪乃がやっていることには、常に意味があるのだ。

 最初から斬り込んだ斬撃から、今この瞬間鱗鬼の体から突き出してきた刃まで、すべては有意義な布石だ。

 そして、最初の一箇所が修復を始めた瞬間、ようやく凪乃が抉り取ろうと予定したところが全部抉り取れた。

 一瞥して確認すると、凪乃は淡々と大鎌の形をなくした水銀を振り、今まで蓄積してきた速度と力のすべてを一点に込めるように――真下へと振り抜く。

 水銀の先が地面を掠ると、そのまま弧を描くように勢いを殺さず、そのまま翻された小さな体に引っ張られ、今度は真上へと振り抜く。――そこで、攻性理論を解放させる。

 刹那――銀色の枯れ木が地面へ根を突き刺さり、空中へと鋭い枝を生えさせる。岩の中に入った種が、一瞬で根や枝を生えさせ、岩を突き破り砕けるような光景だ。

「―――ウウウウウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!」

 急に体の内側から全身を引き裂く痛みが襲ってきて鱗鬼は悲鳴を上げながら逃げようとしたが、もはやそんなことは許されなかった。

 予め鱗を抉り取っておいた位置から突き出した水銀の枯れ木は、鱗鬼を地面に縫いついたのだ。

 防御は崩した。動きも止めた。しばらくの間に鱗鬼に攻撃の手段がなくなった。

 しかし、それでもまだ足りない。恐らく凪乃が繰り出せる攻撃の中でも最も有効な手段でも、鱗鬼を倒すことはできない。物理的な強度がデタラメで生命力も異常にしぶとい鱗鬼を勝つには、元素を操る第一攻性理論の所持者にとっては難しすぎた。

 そう――凪乃一人だけなら、倒せないだろう。けど、身動きを取らせないことには成功した、そして、トドメは最初からもう一人にさしてもらう予定なのた。


     *


 凪乃からもらった靴板で、透矢はただひたすら上空へと駆けていく。直接運動エネルギーを生成しているから、このまま上へ上へ駆ければ、宇宙にも行けるだろう。

 天へ続く階段を上るように、足元にノイズを走り続けながら思い返したのは、凪乃の言葉だ。

 あのとき、戦うと言っても、調波刀はすぐに砕けたから戦いようがないと思ったが、凪乃の言葉によると、そうでもないらしい。

 第二攻性理論、限定現象を操る攻性理論。物質と違って、どこにあってもおかしくない現象を操る攻性理論。ならば、凪乃のようにベースとなる物質が手になくても、能力は使える。

 高度が増すのにつれ、冷たく希薄になっていく空気で息が苦しくなる中、透矢は集中力を手に、己の攻性理論を顕現させようと全神経を研ぎ澄ます。

 切断という概念を付与するではなく、具現化させる。

 そのイメージが脳裏で像を結ぶと、ふと、手のひらに、半透明な骨組みのようなものが出現した。さらに意識を集中し、攻性理論を書き込む。すると、ずしりと重い何かを握った感触がした。

 そのにあったのは、一本の日本刀だった。

 まるで周囲の光を収束し、沈殿させるように、落ち着いた輝きを放つ日本刀。

 そこにさらに攻性理論を書き込むと、刀身が輪郭が微かにブレた。と思いきや、曳くように日本刀が通過した軌跡に、残像のようにまた一本日本刀が出現した。

 書き込まれた攻性理論が、次々と日本刀を作り出し、刀の形となった「切断現象」の威力をひたすら上昇させていく。

 無数の切断現象が重なって形作った日本刀を手に、ようやく町が小さく見えるほどの高さまで来ると、透矢は空間を蹴るのを一瞬止める。

 刹那の静止。そして――今度は重力と同じ方向に駆けていく。

 重力に靴板の推進力を乗せる加速度だ。体を削っていく空気は先ほどの冷たさからは想像できないほど熱い。やけどした皮膚が次の瞬間が削り取られ、血を飛び散らす。

 流星は隕石が大気との摩擦によって燃えるものだと言われているが、透矢は今まさに、流星の倍以上の加速度で地面へと落ちて……いや、己を落としていくのだ。

 しかし、そんな痛みに今更気にすることはない。

 透矢はただ手にした日本刀に集中し、己を一度限りの斬撃にする。靴板が軋むほどの稼働率で、超高速で町へと一直線落下していく。標的は当然、水銀の枯れ木に固定され、身動きが取れなくなった鱗鬼だ。

 流星のように、超高空から落とされてきた斬撃。凪乃が水銀に回転をかけ威力を上げるように、重力の力まで込めた切断現象。

 その残像の刃が全部本体の日本刀に重なった瞬間――


 ――「死ね!」


 透矢は全身の力を一太刀に込める。斬撃は天から落とされた銀色の流星となり、鱗鬼の体に斬り込み――


 ――その巨大な体を地面ごとに断ち切った。


「………」

 その光景を遠くから眺めて、凪乃は静かに手を振る。すると、さっきまで鱗鬼の巨躯を固定していた大量な水銀をただの金属プレートに戻っていき、当然のように髪に挟み直した。

 両断された鱗鬼の方向に瞬きをしてから、凪乃はしばし何かを考えると、軽くジャンプする。体が地面から離れると、今度は空間を蹴って、透矢のいる場所へと向かっていった。

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