第六章  希望なき世界で 3

「……かっ」

 建物の外壁に強く叩きつけられ、重力で地面へとぶつかると、喉から湧いてきた血を吐き出す。

 それでも動きを止めようとせず足に力を入れて鱗鬼クラーケンに肉薄しようとしたが、靴板が砕いて足もダメになった今、人間である透矢に宙を駆ける術はない。それに、もう立ち上がる力すら透矢には残されていない。立ち上がろうと手にした調波刀で地面を支えようとして、ふと刀も砕いたと気づく。

「……かはッ」

 一体、自分は何をしているのだろう。

 理性が戻ってきて、真っ先に浮かんできた質問はこれだった。

 さっき、鱗鬼クラーケンの一撃を受けて、ずいぶんと遠くまで吹き飛ばされたようだ。どうやって防いだのか覚えていないが、まだ生きているらしい。

 周りを見てみると、そこは賑やかなはずの大通りだった。加苗は住民を防衛線に避難させていなければ、今頃は大損害になっていたところだろう。だが、そんなことは今の透矢には思いつくわけがなく、脳が真っ先に処理する情報は、今の透矢の体の状況だった。

 体の限界を無視して暴力の斬撃を繰り出しすぎたことで、筋肉が千切られ、骨も砕いた。全身が傷だらけで、真っ赤な血が溢れるように流れてくる。もう戦うどころか、動くことも至難な状況だ。内臓もやられただろう、さっきから喉から血が湧いてきていやがる。意識を保てるだけでも奇跡だと思える状況だ。

「行か……なきゃ……」

 それでも、透矢は紺色の目で鱗鬼クラーケンを睨みつける。血で赤く染められた視界の中、仲間を殺した仇の歪で巨大な体が映る。

 震える足を強引に駆使し、立ち上がろうとした。が、人間という生き物の体には制限があり、強い意志だけでは、徹底的に破壊された体を扱えない。少し地面から起き上がったところで、また尻餅をついた。その微かな衝撃で全身に激痛が走る。

 それでも、透矢は立ち上がろうと筋肉に力を入れる。

 行かなきゃ、行かないと、町が滅ぼされてしまう。鱗鬼によって守られた町は、鱗鬼に滅ぼされてしまう。

 そう考えて、歯茎に血が出るほど歯を食いしばりながら体を動かそうとし――

「透矢」

 ――肩にそっと手を載せられ、押し止められた。

 無感動で、抑揚のない、それでいて透き通るような声。同時に、ここにいるはずがない人の声だった。

「てめ――ッ」

 載せてきた手は力を入れていない。手のひらの重さだけでも、今の透矢を押し止めるのには十分だった。振り返ると、視界に風になびくラベンダー色の長髪が入る。隣で水銀の大鎌が地面に突き刺さってる。

「てめぇ、なぜここに……ッ! ――あ、嵐司は?」

「無事」

「じ、じゃ……なんで、てめぇが……」

「逃げた」

 乾いた透矢の声に短く答える。

 こんな地獄のようなところにいても儚く見えるのは、凪乃という少女の本質からくるものだろう。きれいな純白のウインドブレーカーを纏った細い体は今も風に折られそうで、危なっかしく見える。鱗鬼のいる方向に向けられたガラスのような目が、一つ瞬くとまた透矢のほうに戻される。

「沙季たちは?」

「――ッ!」

「そう」

 透矢が一瞬息を詰まらせるのを見て、それだけで何かを察したのだろう。凪乃はまた一つ瞬きをすると、口を微かに開いて小さく息をつく。

「………」

 その微かな吐息に、言葉なんて伴っていない。しかし、いつも無感動な顔は、ほんのわずか、気を少しでも抜けば見逃すほどわずかに動いた。可憐な唇も、少しだけだが引き結ばれた。

 その様子を見て、透矢が思わず目を見開く。

 拙いんだからこそ、嘘じゃないとわかる、感情の発露。

「沙季たち、死なせたくなかった」

 まるで透矢を責めるように、淡々と言葉を並べる。

「てめ……何言って……ていうか、鱗鬼のこと……最初から知って……」

 だが、なぜだろうか。

 凪乃の言い方から聞くと、まるで沙季たちを死なせたのは自分のようだ。鱗鬼を町の調波などに使ったことを考えればそうかもしれないが、凪乃が言っているのはもっと別のことのような気がする。

『なにを……言ってる……の?』

 透矢の気持ちを代弁するかのように、インカム越しに加苗の声が聞こえてきた。

 そういえば、凪乃も同じインカムをつけてた。ユートピアで凪乃に落とされたものの代わりとはいえ、同じ加苗のところに繋がっているので、声も聞こえてくる。

『鉄宮が動くのは管理省の仕業でしょ! 鱗鬼だって……あの戦いで次元が干渉されすぎたじゃなければ、こんなことには――』

「違う」

 加苗の声を凪乃は静かに遮る。さっきまで見せた微かな悲しみは消え、ただ寂しさが少し残っているように見える。

「もともとこうなる」

『もともとって――』

「管理省の観測によって、鱗鬼は暴走する」

『な……ッ』

「その前に調波を行うことは、わたしの二つ目の任務」

 加苗の予測通りだ。凪乃に与えられた任務は二つあって、一つは透矢たちの勧誘、もう一つは、二十一号倉庫に捕らわれた災変、鱗鬼の排除。

「つまり……もともとこう、なる……のか」

 凪乃の言葉を理解した瞬間、全身から力が抜いていくのを感じた。

 それに答えず、凪乃は腰につけた錨倉チャージャーから四つの錨を取り出すと、透矢に軽く投げ出す。

 落ちてきた錨に囲まれ周囲の空間にノイズが走ったと思えば、体の痛みは急に失せた。体や服についた血が残っていて、重傷だったことを証明しているのに、体だけが一瞬で回復したのだ。

 効果から見ると、間違いなく治療用の調波器だ。中央都市でも貴重な品のはずなのに、凪乃はためらうことなくそれを使っていた。

「透矢たちが勧誘を応じれば、初仕事として鱗鬼を排除する予定だった」

 その言葉で、記憶が蘇ってくる。

 作戦執行の前日、凪乃は自分に言った。無駄な正しさは、悲劇しか生まないと。

 そして、何度も繰り返した。

 管理省に入ったら、墓守の問題も解決できると。中型調波器で、安定な環境を保証できると。

 墓守の問題、つまり不安定になりつつあった鱗鬼の問題だろう。

 なぜはっきり言わなかった、と咎めたい気持ちがないと言ったら嘘になる。とはいえ、任務執行中の調波官は、相手が応じる確証もない場合、情報を漏らすわけにはいかないことぐらい、透矢は知っている。なぜなら、命綱と言える鱗鬼を排除すると言い出して、透矢に阻止される可能性は十二分ある。そうすれば、任務の達成は至難だ。

 そして残念ながら、十分前の透矢に同じことを聞かせたら、きっとそうなったに違いない。

 きっと、凪乃は拙い言葉で、ずっと透矢を説得しようと、こんな悲劇を回避しようとしていただろう。管理省に入って、中型調波器をもらって、そうすれば鱗鬼がいらなくなり、潜在的な危険を排除できると。

 一度絶望のどん底に突き落とされたからだろうか、不思議と思考が冴えていて、怒る気がしなかった。何を感じているとすれば、それはきっと、沙季たちを死なせた後悔だろう。間接的であれ、透矢には責任があるのだ。

「でも」

 そんな透矢の思考を遮るように、凪乃は儚い声とともに透き通った目で視線を寄越してきた。

 その言葉の筒気を、凪乃はいつもの抑揚のない声で、だがどこか強い意志を込めたように言い放つ。

「でも、透矢は鱗鬼を倒さなきゃ」

「は……は? なに言って……」

「ここは、透矢の作った街だから」

 鱗鬼が近づいてきたのだろう。地鳴りと耳障りな鳴き声がはっきりと聞こえてくる。ここからは見えないが、遠くには火の海が広がっているのは考えなくともわかる。

「皆、透矢のこと、ヒーローだと言った」

「それ……は……」

「でも、嵐司と加苗は、透矢のこと、子供だと言った」

 どこから持ってきたのだろう。凪乃は二枚の金属プレートを透矢に握らせる。形や大きさでそれが靴板だと分かる。

「わたし、わからない。でも、透矢がやらなきゃいけない」

 建物が壊された音が聞こえた。相当近くまで来ているのだろう。

 ひたすら広がる地獄の中で、凪乃の声だけがやけに鮮明に聞こえる。空気を震わせるそれが鈴のように頭の中を響く。

「わたし、ほかの皆を死なせたくないから」

「……ッ! ほかの……みな……」

「……」

 言葉ではなく、どこか寂しそうな顔で頷き返す。

 ほかの皆、その言葉は今の透矢にとって、救いの言葉に等しい。

 そう、そうだ。まだ守らなきゃいけないものが残っている。透矢が、嵐司が、加苗が、沙季や六実や啓や存人や大樹がずっと命かけて守ってきたものが、まだ残っている。そんな彼ら彼女らを犠牲させないためにも、今やらないといけないんだ。

 自分が蒔いた種だ。その後始末ぐらいはちゃんとやらなきゃならないのだ。

「お前……」

 地面に手をついて、ふらふらとした体を起き上がらせる。

「沙季たちはお前にとって……仲間……なのか……?」

「違う」

「……そうか」

「でも、敵じゃない」

 紺色をした夜空の目を、透き通った紫の目で見つめる。

 後ろから建物が触手に潰された音が聞こえる。もうすぐここにきているようだ。

「敵じゃないが、任務を優先した……てか」

「そう」

「理由はなんだ」

「わたし、無駄なことはしないから」

 予想通りの答えだ。そして、透矢が求めた答えでもある。

 なるほど、自分は今まで、ずっと無駄なことをしてきたのだな、と実感させるような言葉だ。

 だが、凪乃はすぐ次の言葉を続いてきた。

「でも、正しくない……かもしれない」

「………」

「わたし、ずっとわからない。どうすればいいか、わからない」

 透矢を見つめたまま、凪乃も立ち上がる。すると、地面に突き刺さった大鎌は流れるように凪乃の手に戻り、また固体に固まり直す。

「でも、それでも、やらなきゃ、なにもできない」

「―――ッ!」

 その言葉で、気づいた。気づいてしまった。

 凪乃。中央都市の調波官。彼女もまた、透矢と同じ、この世界と戦っているのだ。この茶番でしかない世界、この地獄、このいつどこで誰が死んでもおかしくないふざけた世界と、戦っているのだ。

 平和な時代では中学生ぐらいの歳なのに、全ての感情を捨てて、この世界と戦っているのだ。

「は、はは……そうい、う……ことか」

 そして、その戦いで凪乃が導き出した結論は、凪乃が前に言ったのと同じだ。

 無駄なことはしない。無駄な正しさは、悲劇しか生まない。

「一つ……聞かせてくれ」

「うん」

「この街を作ったの……お前には無駄なことに……見えてしまうのか」

「………」

 一瞬の逡巡のあと、すぐ目を透矢の方向に戻す。

「そう」

 そして、はっきりと言い切った。

 けど、なぜだろうか、ムカつきはすれど、どこか納得した気もした。

「そうか」

 呼吸を整え、思考を切り替える。それから、どこか悲しそうな、自嘲めいた笑顔を凪乃に向ける。

「やっぱ、お前の考え方は認められないや」

 そして、靴板を手にしたまま鱗鬼のいる方向に目を向ける。

 もう無人区から出て、住宅地に入ったのだ。その先に行かせると、調波器、食料を保管している倉庫もやられてしまう。

 だというのに、心は不思議なほど落ち着いている。

 怒っていないわけじゃない。悲しんでいないわけでもない。しかし、その怒りも悲しみも、静かに揺れる炎のように、渦巻く海流を隠す海面のように、穏やかな殺意と化し、透矢の心や四肢に込められている。

「な、信じていいか」

「うん」

「そっか、じゃ、行こう」

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