第二章 水銀の少女 3

 連絡したはずの加苗と嵐司が姿を現したのは、凪乃に完敗してから、三十分ぐらいが過ぎた頃だった。

「ほう」

「ほう」

 ようやく現場に着いた二人だが、その顔に緊張感の欠片もなく、代わりにニヤニヤした笑顔が張り付いている。二人揃って、まったく同じ角度で腕組みしながら温かい視線を向けてきている。

「ほうほう」

「ほうほう」

 面白そうな表情をしている二人は、視線を透矢と少女の間で行き来させ、笑いをこらえるように肩を微かに震わせている。

「面白くなったな、透矢。珍しく連絡が来たって思ったら、二十代になってようやくボケに目覚えたか? 人類にゃ無限の可能性が秘められるのって、ただの嘘でもねぇようだ」

「お……おにちゃ――ぷっ」

 いや、片方はもう完全に吹き出している。

「笑う場合か。っていうかてめぇ、そろそろ俺を解放しろ」

「どうして?」

 二人に向かって怒鳴ると、忌々しげにこの状況を作った張本人を睨んだが、当の凪乃は目を瞬かせ、小さく首を傾げるだけだった。

「どうしてって、おい、嵐司」

「どうして?」

「真似すんな! ピンチだと見てわからねぇのか⁉」

「真面目のイメージが? わかるわかる、そこはそれ、イメチェンってことで」

 片目をつぶって、人差し指を立てて言われた。緊張感もクソもない。

 だが、仕方ないといえば仕方ないことだ。

 なぜなら、今透矢は身動きを取れない上、凪乃の膝の上に寝かされている状態にいるのだ。

 連絡を受けてきた嵐司と加苗からすれば、内緒でできた彼女を自慢するために二人を呼び出したように見えてしまうだろう。事実、当の凪乃もまったく敵意を見せていないから、事の一部始終を見ていない限り、敵だと言われてもにわかに信じがたい。

「大丈夫」

 透矢の頭を膝の上に乗せたまま、凪乃は抑揚のない声をこぼす。

「何が?」

 この位置だと、凪乃が目を合わせて話すだけで、ラベンダー色の髪が両側に垂れてきて、お互いの顔しか見れない空間を作ってしまう。後頭部や首に当たった太ももも、肩に置かれた小さな手も、どちらも凪乃の雰囲気と違って、ちゃんと人間の体温がある。

 同じことしている人たちを見かけたら、透矢もイチャついていると思っただろう。

 ただ、凪乃の口にした言葉は決してそんなラブコメ的なものじゃない。

「使ったのは普通の式だから、法則は永久に歪めない」

 抑揚のない声で透矢の問いに答える。

 使った式。さっき透矢に起動した、運動エネルギーの概念をいったん透矢という個体から確立する式のことだろう。ものが動くには運動エネルギーが必要で、それを論外次元を修正することで、できないようにされたのだ。目と口だけが動けても幸いだ。

 そうなった原因は、さっきの戦いにある。

 あのとき、管理省に入ってほしいと言われたが、透矢は当然了承していなかった。だが、一人では勝てないのも事実だから、仕方なく一時撤退しようとした。

 墓守は別に透矢だけが戦力じゃない。同じ所持者である嵐司も含めて、戦力はざっと数百人いるのだ。力を合わせれば、凪乃にも余裕に勝てると思った。

 だが、そうしてもらえなかった。逃走を計っているのがバレると、すぐに凪乃に調波されたのだ。

 アンカーという、三種類の汎用型戦闘用調波器の中でも、戦闘以外の方面にも広く使われている、すべての調波器の原型とも言えるものによって。

 うすらの卵みたいな形をした金属球だ。起動すると、内部の金属パーツが位置をずらし、尖った先端に式の模様を浮かばせる。

 それがアンカーの構造。いわば、論外次元の理論で魔法陣を分析し、改良してから運用するために作ったものだ。

 使用するとき、ただ錨を目標に投げて、目標を囲む空間を作り出せば、錨は自動的に杭を打つように空間に打ち込んで、書き込まれた式を空間内にいる対象に実行する。

 普通は、論外次元の乱れによる災変を消すために使うものだが、どうも凪乃は捕まる犯人を逃がさないために、そんな動けないようにするためのものも持っているらしい。

「だがしかし! お兄ちゃん、妹としては了承できないぞ!」

 と、そこでふと加苗が真剣な顔になり、両手を腰に当てて宣言してきた。

「バカなこと言わないで早く解放しろ! こいつ調波官だぞ」

「未成年な女子に手をだ――えっ」

 偉そうに何かを言い始めた加苗の口は、突然に止まった。

 それから機械めいた動きで顔を上げ、凪乃に視線を向ける。

 そこには、やはり無感動な顔があった。

「大丈夫。今日から透矢も調波官」

「お兄ちゃん!」

「一度も入るって言ってねぇだろうが」

「透矢、お前妹の前で入る入らないって言うのは感心しないが」

「お前なに言ってんだ……? 俺の首が落とされてから後悔するつもりか」

「大丈夫、落とさない」

 膝の上で透矢が叫ぶと、凪乃は子供をなだめるかのようにそっとその頭に手を置いた。とはいえ、それ以上透矢に何を言うでもなく、嵐司のほうに視線を向ける。

「宇多川嵐司」

「ああ? 俺?」

 急に凪乃に呼ばれても、嵐司は堂々とした佇まいを変えずに、血のように赤い目で凪乃を見下ろす。

「あなたも、勧誘対象」

「俺も調波官になってほしいってか」

「そう」

「そりゃ面白い提案だ」

 実に違法組織の一員らしく、悪意を見え隠れもせず口を歪ませ、凪乃を見据えながら腰に手をやる。

「だがあいにく、俺はそーゆーのに興味ねぇし、中央都市にも行きたくねぇんで」

 アンカーを収めた金属の筒から四個の錨を取り出し、透矢と少女目掛けに投げる。

 次の瞬間、投げ出されたアンカーは先端が回り、式の模様が浮かんできたと思ったら、釘のように透矢を囲むように空間に撃ち込んだ。

 透矢の周囲、アンカーに囲まれた空間にノイズが走る。

「さっすが調波官、透矢がボロボロされたのも納得できる」

 式の起動を完了した錨が地面に落ちたのに目を向けず、嵐司は錨が投げ出された瞬間に、

透矢から離れ調波範囲から逃げた凪乃に善意からきたものとは程遠い笑顔を向ける。

「けど、これでこっちの戦力が一人復活だ」

「……やるなら最初からやれ」

「まあそう言うな。女の太ももの感触、楽しめだだろう」

「楽しんでたまるか。この話はあとにする、まずい……」

 調波刀を手にして、さっきの調波で乱された論外次元を回復してもらった透矢が、嵐司の隣に並んで凪乃を油断なく睨みつける。

 所持者二人を相手に取るのに、凪乃は相変わらず眉一つ動かず、今にも風で倒れそうな華奢な体で悠然とこちらと相対している。

「強いぞ」

「ちょうど~」

 重心を低くする透矢と、獰猛な笑顔で凪乃を見下ろす嵐司。二人を前にして、凪乃は軽く手を上げる。

 柔らかい長髪に挟んだ水銀プレートが大鎌に変換される瞬間を逃すまいと、透矢は少しだけ足に力を込め、上体を前に倒――


「はーい、二人とも、そこまでっ!」


 ――そうとしたところに、後頭部が何かに直撃された。

 振り返って見てみると、何かを投げだした直後の加苗と、地面に落ちた石ころが見えた。

「なにしてんだ……?」

「仲間に石を投げつけるなんて、兄の教育不行き届きだな」

「俺のせいにすんな」

「もう、二人は喧嘩ばっかだから、皆からバカにされるのよ! 喧嘩ばっかバカ!」

 石を投げつけた本人が、お説教めいた口調になり、やれやれと首を横に振った。

 それから、そんな三人のやり取りをただ見ているだけの凪乃ににこっと笑って見せる。

「あたし、左雨加苗」

「……? 羽月凪乃」

「羽月ちゃんか。まずは話、聞かせて」

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