第二章 水銀の少女 2

 手にしたアタッシュケースやビニール袋を下ろし、羽織られた服を脱ぐと、純白のウインドブレーカーやラベンダー色の長髪が透矢に視界に入った。

 透明感のある肌や儚い雰囲気によく似合う、純白の衣装。月の光に照らされる中、凪乃は音一つ立てずに手を横にやった。

 その表情にも動きにも感情の欠片がなく、まるで神が作り出した心だけは持っていない人形のような今でもどこかに消えそうな少女。

 透矢に見つめられる中、彼女は華奢な指を伸ばし、手のひらを地面に向ける。

 それを合図に、何の前触れもなく、少女の髪に挟んでいた金属プレートが音を立てずに液体になった。

 挟まれていたラベンダー色の長髪はほどけ、流れるように風になびく。

「……ッ⁉」

 透矢が警戒するように目を細めると、さっきまで髪に挟んでいた金属が無数のリボンとなって、少女の手のひらに流れていく。月の光に照らされ銀色に輝く金属のリボンが束ね、増殖し、やがて一つの玉になり――展開した。

 無骨の大鎌だった。

 飾りも、模様もなく、ただ性能を求めるために最適化した外見。だが、だからこそどこまでも神秘的に美しく見える、銀色の大鎌。

 それを少女は月明りの下で無造作に回すと、透矢に目を向ける。

「ああ、そういうことか」

 中央都市の調波官。少女は自分のことをそう言っていた。

 中央都市、それは政府が築き上げ、周囲に大型調波器を設置することで、災変から隔離した安全な都市。

 それを管理するのは管理省と呼ばれる、正式名称論外次元管理省の政府機関だ。

 調波官を務めているのと、今見せるおよそ現実的ではない光景から見ると、少女もまた自分と同じ、所持者だろう。

「お前らからすれば、俺ら墓守はまさに違法組織だからな」

 大鎌を構えた少女の前に、透矢も腰に下げた刀を抜く。

 調波刀と呼ばれる、汎用型戦闘用調波器だ。

 幅がやや広く、複雑な模様が施されている。「式」という、昔の魔法理論の魔法陣を基づいて、論外次元の理論で作り出した、現象を起こすためのものだ。

 主な性能は二つ。切り込むことで作用対象の論外次元を調整するか、媒介として所持者の能力の出力を上げるかだ。攻性理論を所持する所持者である透矢のそれは後者に当たる。

「準備できた?」

 警戒していると、少女が不意にそんな疑問を口にした。

「準備……ね。……お前、余裕ぶってあとで後悔しても知らねぇぞ」

「うん」

 脅かすつもりで吐き出された透矢の言葉に、少女はただ小さく頷く。

「そうかよ」

 それがとても腹立たしくて、透矢も吐き捨てるように吐き捨てると、容赦なく動き出す。

 調波刀を握り締め、少女の隙を窺って、地面を勢いよく蹴る。――いや、正しく言えば、足から出した力は地面に向けたものではなく、透矢が狙ったのも地面を蹴る反動での移動ではない。

 足で下へと力を加えるこの動きは、靴の裏に装着した装置を起動するためのものだ。

 地面を蹴った直後、足元にノイズが走る。透矢の姿は元にいた場所から消え、瞬間移動と思わせるほどのスピードで少女の前まで迫ってきた。

 一瞬と言っても過言ではない速さだ。旧時代の物理法則から見ればでは不可能の動きで、数メートル外にいたはずの少女を、透矢の調波刀は捉えて、振り出された。

 しかし、そんな透矢の動きに少女は驚愕も焦燥も示さなかった。

 彼女はただ無表情のままほんの少し手を動かし、大鎌の刃の向きを変える。その次の瞬間――


 ――ガキン!


 廃墟の間で、金属がぶつかり合った音が響いた。

 肉薄したのと同時に振り出された調波刀は、切っ先の描こうとした軌道に置かれた大鎌にぶつかり、振り抜かれる前に止められたのだ。

「――っ!」

 予想外のことに体が一瞬硬直した。その隙を見逃さず、少女は華奢な体や腕からは想像できない力で大鎌を回し、遠心力を利用して刀を透矢ごとに強引に吹っ飛ばす。

靴板プレート

 透矢の足に目を向けながら、短く呟く。

 靴板プレート。名前通り、靴の裏に装着する板の形をしている調波器だ。足元に直接運動エネルギーを発生させることで、高速移動、足場のない空中での立体機動を可能とする汎用型戦闘用調波器である。

 旧時代のもので例えるなら、反動がないロケットといったところだろう。

 論外次元の周波数を変えることで、運動エネルギーを発生する瞬間、ノイズのようなものが走るから、透矢が移動した瞬間を見て凪乃はそう推測した。

「説明なんてしてやがって……余裕ありそうだな。けど、そんなこと呑気に言ってていいのか」

「?」

 空中で聞こえてきた透矢の言葉を理解できずに、目を瞬かせると、ふと、大鎌の刃の部分が切断された。

 透矢の所持者としての能力。

 第二攻性理論、限定現象・切断だ。

 少女が戸惑う瞬間を狙い、わざと吹き飛ばされたように見せた透矢は空間を蹴った。遠距離から少女を狙って刀を振り下ろす。

 だが、距離を詰めた僅か一秒足らずの間に、気づいた。

 調波刀に触れて、切断されたはずの大鎌の刃は、切断面こそ残しているものの、切り離されることはなかった。

 いや、そう考えている間に、切断面さえなくなり、元通りになっていた。

「――⁉」

「透矢の、攻性理論?」

 上に振ってきた大鎌と調波刀が衝突し、甲高い金属衝撃音を立てる。

「気安く名前呼ぶんじゃねぇ」

「どうして?」

「中央都市の坊ちゃんやお嬢様に興味ねぇし大嫌いだから」

「そう」

 言葉を交わすわずかな時間の中、目に見えないスピードで繰り出された調波刀と大鎌が空中で何度も切り合ってぶつかり合った。金属同士がぶつかる音や火花の中でも、魂を撫でるような少女の声ははっきりと聞こえてくる。

 同格にやりあっている。

 高速で交わされる刃を見て、ほとんどの人はそう思うだろう。

 しかし、違う。

 誰でもない、透矢自身が一番実感している。

《……こいつッ!》

 心の中で叫びながら、凪乃の斬撃を防ぎ、その衝撃を利用して距離を取った。

 同格なはずがない。

 最初の一撃もそうだが、繰り出した斬撃の全部に全力を込めているのに、凪乃はただ淡々と、舞でも舞っているかのように大鎌を軽く回しただけで、すべての攻撃を捌ききっていた。

 それに、機甲歩兵でさえ一刀両断できる透矢の能力は、凪乃の大鎌には全く通用しない。

 斬ることはできても両断までは至らない。完全に切断してもすぐに修復されるのだ。まるで、水でも斬っているかのような感じだ。

 所持者を多数保有している管理省からやってきた調波官だ。こちらの能力を認識した上、格上、かつ相性のいい調波官を派遣してきてもおかしくないのは知っている。それでも、差が大きすぎた。

「安全な中央都市で、よくこんな戦い慣れできるもんだな。それとも、安全だからこそか」

「………?」

 透矢の言葉に凪乃はただ分からないように瞬きをする。

「分からねぇのか」

「わからない」

「そうかよ、クソが」

 悪態をつきながら、調波刀を構える。凪乃がどれだけ強くても、ここで倒さなければならないのだ。

「………」

 紺色の目で少女を観察し、調波刀を握り直しながら切り込むタイミングを探す。だが、透矢が動き出す前に、今度は凪乃から声が掛けられてきた。

「同じ?」

「は?」

「さっきのと」

「意味分かんねぇんだけど」

「そう」

 別に何も答えていないのに、凪乃は勝手に納得した様子で軽く頷く。

 それから、体を大鎌の柄に預けるように、身長と同じぐらいの長さがある柄の真ん中を腰に軽く当てた。ちょうど、小さいお尻の上の位置だ。

「なら、わたしから行く」

 抑揚のない声が空気に溶けるように消えたのと同時に、凪乃は小さな体を回転させる。

 つられて回転する大鎌は、刃の重さによって遠心力を生み、その遠心力でさらに回転のスピードを上げて、加速の循環を繰り返す。

 凪乃は何かをしようとしている。

 そう分かったとき、もう遅かった。

 客観的な時間にしては実に一瞬、その効率的な加速を終えた凪乃は、柄を掴んだ片手を離し、もう片手で全身の力や回転の速度を遠心力に載せる。大鎌の柄から刃に、刃から切っ先に、切っ先からさらにその前にある空間に伝え、まるで射出するかのように――振り抜く。

 瞬間――銀色の光が少女の可愛らしい手から射出された。

 柄も、刃も、大鎌を構成する全てもが圧縮されて、大鎌が一気に数十倍伸びて、厚さを全部、一つの無駄もなく、長さに変えたのだ。

 コップに入れた水がこぼれると、範囲が一気に広がるように、少女を中心に描かれた銀色の円は周囲十数メートルを全部大鎌の「射程」に収めた。

 車を、電柱を、廃墟の壁に張り付いた蔓を、壁を、柱を、それらを構成するコンクリートや鉄筋を、無造作にまとめて切断し――すんでのところで上体を反らし躱した透矢の鼻先を通過した。

「―――ッ!」

 透矢がほぼ本能でその一撃を躱したのと同時に、通り過ぎた刃がまたもとの形に戻って大鎌として少女の手に収まっていく。変形した金属がまだ大鎌に戻り切っていないわずかな一瞬を狙って、透矢は靴板による高速移動で凪乃に肉薄する。

 あんなでたらめな遠距離攻撃もできると知って、距離を開けるほどバカじゃないのだ。

 しかし、凪乃が調波刀の届く範囲に入るより前に、きれいな弧を描いた大鎌はすでに周囲の建物を一つ残らず両断し、元通りに戻っていた。

 それに、その勢いは未だに弱まることなく、凪乃もそれを殺すつもりがないらしい。強引に大鎌を操らず、遠心力に身を任せ体を数回回転してから、軽くステップを踏むように空間を蹴る。

 足元に、ノイズが走る。

「――っ!」

 気付いたら、数メートル離れたところにあった銀色の光はすでに頭上まで来てしまった。

 大鎌に気を取られすぎて、気づかなかった。調波官だから、靴板プレートなんて汎用型の調波器、装着していないはずないのに。

「……」

 月明りに照らされる中、体の回転で加速された大鎌が透矢の首に振り下ろされてきた。

 防げなければ、確実に死ぬ。

「動……けぇぇ!」

 銀色の軌跡を何とか止めようと、強引に前へと振られた調波刀を横にやる。間一髪で刃と刃が接触した。

 しかし、大鎌は止められることはなかった。

 水に刀を切り込んだかのように、大鎌と接触した刃はただ何の抵抗も受けずに大鎌に切り込んで――すり抜けていく。

 驚愕を感じたのはほんの一瞬。続いて襲ってくるのは、諦観と悔しさが混ざり合った複雑な感情。

 三日月形の刃がそのまま透矢の首に斬りつける――ことなく、ぴたりと止まった。

 死の恐怖すら忘れさせるほど、無機質で美しい大鎌が、死神の抱擁のように、刃で透矢を大鎌の内側に閉じ込めていても、斬ろうとする意志が一切感じられなかった。

「……何の真似だ」

「合格」

「は?」

「所持者としての実力」

 尻餅をつきながらも睨みつけてくる透矢に、凪乃は無感動にそう言った。

 そして、もう戦う理由がないと言わんばかりに大鎌を透矢の首から離す。すると、大鎌はさっきと同じように流れるような金属のリボンになり、凪乃の髪に挟んだ金属プレートに戻った。

「わたしは羽月凪乃。第一攻性理論、元素・水銀の所持者」

 真っ直ぐと、魂までも見透かすような目が向けられてくる。

 それを目を逸らさずに受け止めると、凪乃は次の言葉を紡ぎ出した。

「左雨透矢、あなたに、論外次元管理省に入ってほしい」

 そんな、透明感のある声が、崩壊した都市の冷たい空気を軽く震わせた。

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