十三頁 夕焼けの中の座敷

 ――忘れた記憶は

 ――少女は空を見ていた。座敷の布団の上、障子の隙間から、届かない空を眺めていた。

 ■


 少女は空を見ていた。座敷の布団の上、障子の隙間から、届かない空を眺めていた。

 夕焼け色。それは少女の希望の色だった。


「抜け出したい」

 布団に縫い留められた小さな身体を震わせて、少女は言った。

「抜け出したいの」

 いつも抜け出したくて堪らなかった。けれども日々を繰り返せば繰り返すほど、それがどれだけ難しいことなのか突き付けられた。

「抜け出す事が出来たなら」

 抜け出して、そうして何時の日にか見た夕焼けの中を命一杯走り回る事が出来たならば。それが叶うのならば、少女はなんだって捧げただろう。

 けれども取り上げられた足では、少女は夕焼けの中を走るどころか堅牢な屋敷の中を歩くことさえ叶わない。


 少女が座敷に捕らわれたのは、ずっと幼い頃だった。

 特別だ、と両親だったものは言った。特別なのだ、と憧憬を瞳に乗せて少女の両親だったものは言った。

 光る虹彩を持った我が子に神を重ねて、尊いからと足を取り上げ、柔らかい布団の上に縫い留めるようにして座敷に祀った。

 大事に大事に囲われ、祀り上げられ、そうして今日に至るまで少女は座敷に閉じ込められたまま、日の下はおろか家の中でさえ歩いたことは無い。

 いつも部屋の隣には誰かが居て、こっそりと座敷から抜け出す事もままならなかった。


 少女はいつも布団の上で夢を見ていた。外の世界に降り立つ自分の夢を見ていた。夕焼けの中で走り回り、そうして夕焼けに溶けて消える自分の夢を見ていた。


「そんなに抜け出したい?」

 少女に転機が訪れたのは突然だった。突然、誰のものとも知れぬ声が座敷の中に響いたのだ。声はいつも少女の父か母が居る隣の部屋から響いてきたようだった。

「大丈夫、誰にも言い付けやしないさ」

 驚いて口を閉ざしたままの少女に、声の主はそう言った。少女にはその言葉が本当かどうか分からなかった。けれども、今まで呟きの一つでさえ誰の耳にも届かなかった少女にとっては、会話が成り立つだけでそれでもう良いような気がした。

「誰にも言い付けない?」

「そんな面倒なことはしないさ」

 問う少女に、声はけたけたと笑いながら言った。

「なら、いいや」

 言わないでね、なんて言う約束は結ばなかった。言い付けられたらそれはそれで仕方ないと思っていたし、なによりまともに言葉が通じる相手と話したいと言う欲が少女にはあった。

「それで。抜け出したいのかい?」

 切り出したのは隣の声からだった。少女は声に小さく頷いて口を開く。

「抜け出したいの」

「どうして?」

 少女が声を発してすぐ、声は少女に尋ねた。

「夕焼けの下を走りたいの」

「その足でかい?」

「そう、この足で」

 声は少女の足のことを知っているようだった。少女は苦笑して、自身の取り上げられた足を撫でた。

「難しい話だね」

「分かっているの、難しいって。それでも諦められないの」

 長い日々の中で、少女は外を歩くことが己にとってどれだけ難しい事かを知っていた。恐らく今仮に足があったとしても、長年外に出ず、立たないままだった身体では走る事など難しいだろう。

「外に抜け出して、夕焼けの下を無い足で走りたいんだ?」

「そう」

「ふぅん」

 頷く少女に声は気の抜けた返事を返した。

 少女は気の抜けた返事に笑みを漏らす。こちらに特別興味が有る訳でも神聖視している訳でも無い声が少女にとっては心地よかったからだ。

「どうして」

「ん?」

「どうして抜け出したいか聞いたの?」

 今まで耳を貸す者なんて居なかった少女からしたら、声の主は奇特な存在に思えた。

「耳が声を拾ったから」

 少女の疑問にあっけらかんと言ったふうに声が答えた。ただ聞こえたから聞いてみた、なんてそんな調子で声は答える。

 少女は声の調子に笑った。


 夕焼けに照らされる部屋の中、ふと、少女は違和感を覚えた。

 少女は違和感に首を傾げて、周囲を見渡すと、懐から時計を取り出した。声と、初めて言葉を交わしてから数刻後の事だった。

「あの」

「どうした?」

「そこにいつも座っている男か女の人は?」

 ずっと昔に貰った懐中時計を見ながら、少女は声に尋ねる。いつも座っている男か女の人。つまり少女にとっては父か母である。

「いつもそこに居るのは」

「親だったものかい?」

「親、だった」

「そう、親だったもの、だあれは。知りたいのかい?」

「えっと」

「親だったものの行方を今更知りたいのかい?」

「今更?」

「そう、今更」

 少女は首を傾げたまま僅かに開かれた障子の外を見遣る。数刻経っているにも関わらず、そこには起きた時から変わらない夕焼けがあった。

 何か違和感があった。その違和感が何なのか分からないまま、少女は夕焼けに向かって手を伸ばす。

「触らない方が良い。溶けて消えてしまうよ」

 言われ、少女ははっとして声のする方を見詰めた。未だ姿の見えぬ違和感の正体がざらりと少女を舐めた気がした。

「……前も同じような話をした?」

「さて、どうだろう」

「私、どこに居るの?」

 少女の口を突いて出たのはそんな言葉だった。どこに、なんてそんなのは堅牢な屋敷の中に決まっている。けれども違和感があった。本当に堅牢な屋敷の中に居るのだろうか、と言う僅かな疑問があった。

 少女の疑問に、声はくつくつと笑った。そうして一度、大きく溜め息を吐くと一言。

「夕焼けの中さ」

 そう宣った。

 瞬間、脳裏に蘇る赤色に、少女は瞠目する。

「あ」

 少女は縋るように襖に指を伸ばす。だが、指は襖を掠めることなく、少女は脳裏に蘇る赤色に呑まれる様にして気を失った。

 訪れる静寂に、襖が僅かに開き、何かが少女を見詰める。影に浮かぶ目玉は、少女の喉元を捉えていた。

 やがて少女の吐く息が健やかな寝息になると、襖は閉じ、何かは黙した。


「どうして抜け出したいか聞いたの?」

「耳が声を拾ったから」

「ふふ、変な人」

「人ではないかもよ」

 夕焼けの中、少女は僅かに開いた襖の先を見遣る。襖の先は影に覆われていて、先が見えなかった。けれども確かに感じるのは鉄錆びた匂い。

「抜け出したい」

 布団に縛り付けられた小さな身体を震わせて、少女は言った。

「何を犠牲にする?」

 襖の奥で何かが笑ったような気がした。

「私は私しか持ってないの」

「それなら君を貰おう。君の最も幸福な記憶を貰おう」

「それで抜け出せるの?」

「勿論さ」

 少女は声に頷いた。


「前にも同じ会話をした?」

「さあ、どうだろう」

 夕焼けの中、少女は首を傾げた。前にも似たような会話をした覚えがあるのに、それが確かなことなのか確証がない。

「それで?」

「え?」

「話の続き」

「ああ、夕焼けの下を走りたいの」

「その足で?」

「この足で」

 やはり覚える既視感に、少女は益々首を傾げた。けれども、既視感の正体を掴もうとすると記憶が混濁し、何を考えていたのか忘れてしまう。

「夕焼けは君を溶かして消してしまうよ」

「それでも良いの。それが良いの」

 呟き、少女は障子の隙間から見える夕焼けに手を伸ばす。

「私に君をくれたのに?」

 数秒の沈黙の後、そんな言葉が襖の奥から聞こえて来た。

「え?」

「今日は気紛れの日だ。障子が開かれたのはいつから?」

「いつ」

 尋ねられ少女は記憶を手繰る。混濁する記憶を掻き分けて、夕焼けが差し込むようになったあの日を思い出そうとする。

「男と女が居た時、障子は開いていた?」

「そう、あの時は、開いて、いなかった」

 何者からも隠されて祀られていた頃、障子はぴたりと閉まっていた。そもそも庭に面した障子なんてあっただろうか、と少女はぼんやりとする頭で考える。

「障子が開かれたのはいつ?」

「いつ、いつ?」

 少女の鼻を錆びた鉄の匂いが掠める。少女の記憶に何かが引っ掛かった。

「あなたと出会って、あの屋敷を抜け出してから」

 少女の声に襖が少し開いた。

 襖の先は影に覆われており、やはり中は窺い知ることが出来ない。それでも何かがそこに居ることは明白だった。

「正解」

 楽しそうに声は笑う。

 少女は襖に手を伸ばした。だが、直ぐにこめかみを抑えて蹲る。

「また忘れてしまうの? 屋敷から抜け出したあの空のことを」

 絞り出すような声で少女は声に聞いた。

「それが君の最も幸せな記憶だからね」

 答える声の感情は読めない。ただ、憐れんでいるわけではないと言う事だけは少女には分かった。

「明日もまた、話してくれる?」

「耳が声を拾ったらね」

 少女は声の答えに笑って、眠りに就いた。


 夕焼けの中、何かが這いずる音が座敷の中に響く。少女は深い眠りに就き、目を覚ますことは無い。

「幸福が別の場所にあったなら、抜け出した実感くらい湧いただろうに」

 声は笑うと、風が吹き込む障子を閉めた。


「抜け出したいの」

「どうしてそんなに抜け出したいんだい?」

「抜け出して夕焼けの下を走りたいの」

「夕焼けに溶けて消えてしまうよ」

「夕焼けに溶けて消えてしまいたいの」

 座敷の中、僅かに開いた障子の隙間から、少女は夕焼けに手を伸ばした。

 けれども直ぐに手を引っ込めて、声がする襖の方向に笑いかけた。

「けれど今は、あなたと話しているからそれで良いような気がするの」

 襖が少し開いて、何かが奥で笑った。

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ごとり、と柘榴 九十九 @chimaira

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