十二頁 細い糸を断ち切って
――細い糸を断ち切ったのは
――篝火で燃え尽きる事も冷たい水に沈むことも薄情な私には出来ない。
■
「許さないで」
笑顔で沈む少女に、私は手を伸ばした。
伸ばした手は水面を虚しく叩いて、その場に水音を響かせるのみ。
好きな人が居た。
凛とした瞳の美しい人だった。一度見たならば頭から離れない程、苛烈な存在だった。
好きな人が居た。
冷たい目で他人を見る人だった。一度近づいたのならば骨の髄まで喰らい尽されてしまう、危うい存在だった。
好きな人は、私にとっての篝火だった。近づけば最後、私は焼け落ちてしまうと知っていながら、それでも尚、近づかずにはいられなかった。
やめなよ、と少女が言った。そんな人やめてしまいなよ、と少女は私に言った。
二人だけの部屋の中、互いの肩を寄せ合いながら眠るベッドの上で、少女は私の目を覆った。篝火を見ないようにと私の目を優しく覆った。
けれども、私は緩く首を振って、その手をそっと振り払った。少女の悲しそうな顔に微笑み返し、それでも好きなのだ、と口ずさんだ。
私は私の篝火にとうに燃やされてしまっていて、後は燃えつきるのを待つばかりだった。今更、目を伏せることなど出来なかった。今更、火の粉を払うことなど出来なかった。
私は少女の肩口に顔を埋め、意味のない謝罪を口にした。焼き付いた篝火を瞳の奥に潜ませて、ただ小さな謝罪を口にした。
少女の内に秘めた孤独の気配を感じながら、それでも私は、この恋をやめる、とは口にすることが出来なかった。
私は薄情な人間だった。
水面に少女の姿は昇らない。立ち上るのは空虚な気泡だけだ。暫く、それを見つめていた私は、気泡が立ち上る水面にそっと口付けを落した。
ただ一つ、分かっている事は、私が少女を動かしたと言う事実だけ。
細い糸が伸びていた。赤く細い糸が縫い付けられていた。
私の篝火には赤色が映えるのだと、地に縫い付けられたその人を見つめていた私は、ぼんやりとそんな事を考えた。
どうして、とは美しい人を見下ろす少女には聞けなかった。私のために篝火を消したのだと、少女のその目が如実に語っていたからだ。
傷になりたかったのだ、と少女がぽつりと溢した。それ以上に籠になりたかったのだ、と少女は続けた。そうしてそれ以上、何も言葉を口にしなくなった。
私は、少しだけ考えて、好きな人と少女の傍まで寄った。大きく震える少女の肩に、私はそっと頭を寄せる。私の頭を乗せた少女の肩は一度だけ大きく震えて、止まった。
何時もよりも低い体温に、私は目を閉じる。
熱が移ってくれたらいいのに、と考えながら、私は少女の肩に頭を擦り付ける。そうして、私を生かす全ての熱が少女に移ろってしまえば良いのに、と私は少女の肩に頭を預ける。
数刻、或いは数秒の間の後、私はそっと少女から離れた。
そうして地面に縫い付けられた私の篝火にそっと近づく。冷たい目は濁って温度を失ってしまった。
温度を失った目をひとしきり見詰めてから、私は凛としていた目をそっと覆い隠す。何時か少女にされたように、私はそっと私の好きな人の目を覆い隠した。閉じた目は二度と開くことは無い。
そうして、そのまま指を下へ下へとずらして、首に掛かる赤い糸に指を這わせた。滲む赤色と縫い付けられた赤色が、私には酷く美しいもののように思えた。
何となく、首に縫い付けられた細い糸が苦しそうだったから、いつも少女のボタンを縫い留める時に使う糸切りばさみを取り出して、首の細い糸を切った。
ぷつり、ぷつり。
弦が切れたような音を奏でながら、赤い糸は切れて行く。
ぷつり、ぷつり。
私と私の篝火の間に紡がれた糸が切れてゆく音がする。
ぷつり、ぷつり。
切れてゆくそれは、私と彼女の間にある糸さえも切っているような気がした。
どうするの、と少女は私に聞いた。私は微笑んで、燃え尽きるのだ、と答えた。
少女の瞳が絶望に染まっていくのを私は見た。それでも焼け焦げた身体では彼女の元には戻れない。私はそっと、少女の目を覆った。何時か彼女がしてくれたように、今あの人にしたように、そっと瞼を降ろした。
篝火で焼けた私の身体から降り掛かった火の粉は、すでに少女さえも呑み込んでいた。
許さないで、と手を引かれるままに訪れた湖で、少女は私にそう言った。好きな人の身体を置いて走り出した先、少女に手を引かれて辿り付いた酷く静かな湖の畔で、少女は私にそう懇願した。
「どうか私を許さないで」
懇願する少女の瞳が揺らぎ、細く赤い手が私の手を強く握り締めた。
刹那、少女が湖まで駆け出す。
温もりの消えた指先を一瞬見つめ、直ぐに私は駆け出した背中に手を伸ばした。
私の伸ばした手は空虚を掴み、少女の髪の一房さえ引き戻せない。私は少女を留めることも出来ないまま、少女の背を見送った。
「許さないで」
笑顔で振り返り、沈んでいく少女の姿に、私は駆け出す。それでも湖の中にまで入る事は許されない。少女の瞳が私の足を留めるのだ。
「私を許さないまま笑っていて」
まじないのように繰り返される言葉は、焼け残った私の身体を冷たく底の見えない水に浸けた。
「許さないことなんて出来ない」
誰にも届かない私の小さな呟きが湖の水面へと落ちた。
少女の身体はどこまでも沈み、上がって来ることは無かった。気泡がこぽりと音を上げながら弾ける。
私は水面へと手を伸ばす。虚しく鳴った、水音が周囲に響く。
私はそっと水面へと口付けを落した。そこに熱は無かった。冷たい水だけが私の肌に触れる。
ふと、小指に引っ掛かりを感じて私は小指を見た。糸を切った時に絡まったのだろう、赤く細い糸が小指にしなだれかかるように絡まっていた。途切れた先は何処にも繋がってはいなかった。
私は赤く細い糸を、絡まった小指からそっと外した。
風に攫われた細い糸は、少女が沈んだ場所まで吹かれていくと、ふっと水に落ちて、そうして少女と同じく消えた。
篝火で燃え尽きる事も冷たい水に沈むことも薄情な私には出来ない。
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