十一頁 音の鳴らないオルゴール
――音が鳴る日はもう来ない
――私はオルゴールが鳴る日が唯々待ち遠しかった。私はその日を待っていた。
■
大切なのだ、とあの子が言った。
だから私は、あの子の「大切」を奪った男の首を縊った。
恋ではない。慈愛でもない。だが、何かしらの強い縁が私とあの子にはあった。
腐れ縁だと互いに笑い、小突き合いながら話が弾む。私とあの子の関係はそう言うものだった。
あの子は少しだけ変わり者で、周囲の人間からは浮いていた。親のいない子供だからと随分な扱いを受けていた事だってあったし、ただ少し変わったことをしただけで酷い叱咤を受けた事だってあった。私には不思議な光景だったが、あの子は何かを知っている様子でよく困った様に笑っていた。
あの子はよくころころと笑いながら、私の元へと遊びに訪れた。私の元に訪れる行為はあの子を周囲から浮かせる一因であったが、あの子はそんな事を気にした様子も無く、私は口を噤んだ。
一度だけ。ただ一度だけ、人を憎まないのかと聞いたことがある。
その日は酷くあの子の頬が腫れていて、あの子の顔に似合わぬそれが酷く腹ただしかったから、私はあの子に尋ねたのだ。
あの子が微笑みを湛え、けれども悲し気な面差しでどこか遠くを見つめるので、私は静かに口を閉ざした。憎んでしまえ、とはついぞ言えなかった。あの子は人が好きなのだと、眼差しを見て気が付いた。
憎んでしまえば楽だったのに、と今でも思う。そうすれば何処へでも連れていってしまえたのに。そうすれば気に喰わぬもの全て、ないものに出来たのに。
けれどもきっと、今になってもきっと、憎んでしまえとは言えぬのだ。
あの子が親から受け継いだものは多くは無い。記憶も家も燃え尽きている。だから、たった一つの小さなオルゴールが、あの子の宝物だった。
宝物を最初に見たのはあの子がまだ小さい頃だった。両手いっぱいに抱えたオルゴールを差し出して、私に宝物だと教えてくれた。
音の鳴らぬオルゴールだったから、大人になったら直すのだとあの子が息巻いていたのを今でも覚えている。
成長しても、あの子は一度もその身から手放す事無く、オルゴールを大事にし続けた。音色の鳴らぬオルゴールは手入れが行き届き、一目見ただけであの子がどれだけ大切に扱っているのかが見て取れた。
あの子が成長する度に、オルゴールから美しい音色が鳴り響くのもそう遠くないような、そんな気がしていた。
私は多分、その時が待ち遠しかったのだと思う。あの子の手の中に収まるオルゴールから美しい音色が響く、そんな景色を私は待ち望んでいたのだ、と。
大切なのだ、とあの子が言った。
大切なオルゴールなのだ、とあの子は言った。
だから私は、あの子のオルゴールを奪った男の首を縊った。あの子の音の鳴るオルゴールを奪った男の首を縊った。
あの子は赤色と泥に塗れていた。
その日は雨が降っていた。しとしと、と止めどなく降り続ける雨に、私は何となく、あの子を迎えに行った。それが恐らく虫の知らせ。
冷たい地面の上にあの子は転がっていた。泥と赤色に塗れ、車に惹かれた子猫のようにあの子は地面に伏していた。傍らにあの子の宝物は無かった。
咄嗟に地に転がるあの子を私は抱き寄せた。身体は冷たく、生者の片鱗さえ見えなかった。
慟哭を上げかけて、けれども喉でわだかまったそれは結局外に出る事無く、己の中で渦巻いた。いっその事、もっとずっと昔に一飲みにしてしまえばよかっただろうか、とそんな風に考えて、結局、無理な話であったと知る。
赤色と泥を舐め取り、口内に広がる味に私は目を覆った。
私はあの子を抱えて己の根城へと連れ帰った。残念ながら私には、あの子をのけ者にする人の世に、あの子の身体でさえも返す義理などない。
何時もの声は無かった。何時ものころころと笑うあの子は居なかった。笑って何時ものように私に憎まれ口を叩くあの子は、もうそこには居なかった。
それでも、もう私の根城からあの子が出る事は無いのだと知って、私は安堵した。これ以上、人に傷つけられる事は無いのだと安堵した。
あの子を横たえて私はその額に額を付けた。温度は無い。つゆ草の匂いは鉄錆びた匂いで塗り重ねられている。根城にはあの子の身体以外には何もない。
悲鳴が上がった。あまりにも醜い声に私は顔を顰めた。ついでのように口から溢れるわけの分からぬ謝罪に、私は頭を抱えて溜め息を吐く。
腕を伸ばせば、それは酷く醜い顔で私に懇願した。だから私は「返せるのか?」とだけ尋ねた。「返す」とそれは言った。
おずおずと差し出されたオルゴールを受け取り、傷がない事を確認してから、「それで?」と問う。驚きに満ちた顔が、一瞬にして色を変えるのを見て、私は殊更大きく溜め息を吐いた。
期待をしていたのでは無い。もとより取り溢したものが帰って来るとは思っていない。命の危機に瀕してもなお、出来ぬ約束を一つ結ぼうとする人間に呆れたのだ。こんなちっぽけな人間に奪われたのだと思うと、呆れて溜め息しか出てこない。
未だになにか言葉を紡ごうとするそれを傍目に、私は腕に力を込めた。
そうしてそれは、男の首は、私によって縊られた。
縊って早々に男の身体を放り投げて帰路に着く。
返される期待などはしていない。取り溢したものは二度とは返って来ない。それでも、あの子と同じ人間ならばと何かを期待した。せめて呆れるような身の上ではない事を期待した。
雨は一層強くなり、外に出ている人間は誰一人居ない。雨に降られる私の顔を、手の中の音の鳴らぬオルゴールだけが見つめていた。
恋ではない。慈愛でもない。だが、確かな形をした縁が私とあの子にはあった。腐れ縁だと互いに笑い、小突き合いながら話が弾む。そんな関係が私とあの子にはあった。
あの懐かしき日々の私達の関係を、果たして友と呼ぶのかは、教えてくれると言った本人を失った私は終ぞ知らぬままだ。
あの子の骸と、あの子の宝物の音の鳴らぬオルゴールだけを傍らに置いている私は、今日も根城で夢を想い眠りに就く。
夢の中でも、あの子はころころ笑うのに、オルゴールだけが鳴らない。
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