十頁 浮き草
――彼の言葉へ返す
――身を投げたら浮き草になるのだと、彼は言った。
■
「身を投げたら何になる?」
彼の問いに私は少し考えた後、海になると答えた。魚に喰われ、波に揉まれ、泡となり、砂となる。だから海になるのだと私は答えた。
「身を投げたらきっと浮き草になる」
彼は意味ありげに私にそう言った。私はただ、彼らしい答えに成程と頷いた。
閉まらぬ三面鏡と枯れ葉のさざめき、煙の匂いに藍色の空。
最初に思い付いたのは、そんな言葉だった。彼の文への返事には、鏡合わせが似合っている気がして、対極になるように言葉を吐き出す。吐き出した言葉は、私の言葉である筈なのに、どこか座り心地が悪かった。
幾ら言葉を並べ立てたとて、まるで空虚を掴むようだと、ふとそんな事を考える。言葉が足りない、或いは言葉が過ぎる。私は彼では無く、彼もまた私では無かったから、どうにも言葉を空虚に投げ続けているだけのような気がした。
互いに言葉を投げて、そうして言葉を拾っている。拾った瞬間に、彼の言葉は姿を変え、私の言葉もまた形を変えた。
彼の言葉の消えた世界を考える、彼が投げ込む言葉がなくなったら、私の言葉の色はほんの少し褪せるのだろう。だが、それも何れ、異なる色として華やぐ。
聞こえぬ声へ耳を澄まし、そうして聞こえるのは得体の知れぬ何かの鼓動だった。そんなものなのだろう。聞きたい声は何時だって私にとっての架空だ。
抱擁など出来ぬと知っていた。例え友であろうとも、彼の望む形は私には成し得ぬと知っていた。だから、それが何と言う訳では無い。
だが、ふと考える。そもそも彼が望んだ形は、私の目に映る形をしているのだろうか。
彼の言葉はあまりにも眩い泥だった。
手を伸ばすことすら遠い眩い泥だった。手を伸ばせば引きずり込まれると知って尚、身を乗り出してしまうほどに、それは私の興味を引いた。
興味、などと曖昧な言葉でぼかして、私は彼の泥の底に沈む灯を見ていた。彼の言葉を見ていた。
燃えていた。燃えていた。燃えていた。深く沈んで尚、灯が燃えていた。同時に燃えた端から灰へと果てていく灯に、私は揺らぎを見た。そうして、嗚呼と息を吐く。水の中だ。水の中で燃えぬはずの灯が燃え、灰の花が散っていた。
それが、彼の言葉だった。
灯が燃え、灰は散り、水底が揺れる。それが、私から見た彼の言葉だった。私は目を細めて彼の言葉を見詰めていた。短い手では届かぬ言葉を私は目を細めて見詰めていた。
見詰めていたら、濃き呼気が途切れる音が聞こえた。
私には、彼の言葉が書けなかった。同時に彼も私の言葉は書けなかった。
「――――」
そう書き残し、彼は微睡みに呑まれた。
書き残した手記に私は笑った。私はすでに痩せ衰え、彼の望む欠片すら与えられぬのにと笑った。書き残された手記は、灰の花だった。燃えて散った灰の花だった。
痩せ衰えた私は、彼の言葉を喰らうしか出来ぬのだろうと手記を見詰めた。
それでもきっと喰らう事さえ私には出来ぬのだ。私は彼の綴る言葉が好きだから、唯、合わせ鏡の彼方と此方に立つように、時折線の引かれた隣から彼の言葉を見るだけしか出来ぬのだ。
鏡の中の隣人は、合わせ鏡の先の存在でしかなく、その手を掴む事など出来はしない。
彼は情だった。情の形をした煙だった。
水のように形を変えることも、岩のように留まり続ける事も無い。喉を焼き、肺を焼く、煙だった。
情が灯を揺らめかせ、そうして生まれた灰が風に揺蕩い、燻っていた。灯の灰なのか、煙の灰なのか、或いは蝋の灰なのか、鏡越しでは確かめる術はない。
合わせ鏡の先の存在に分かることはと言えば、灰は思うがまま揺れていたと言うことくらいだ。
彼が言った。世のその他雑然としたものが、他者へ色を付ける為のものが、己の中から温度を失くしたと。
彼が言った。嘗ての感情に名を付けるような他殺と自殺を、総ての熱を失くす前の己の焼失を、覗いているのだと。
彼が言った。生きているのだと。
私が、或いは彼自身が、彼から手を離し波打ち際に捨て置く時がくるのだろうか。彼が浮き草に呑まれる日が来るのだろうか。
私は唯静かに、微睡みに呑まれた彼を見詰めた。彼が彼である故に、私が私である故に、合わせ鏡の先から微睡む彼を見詰めた。
彼が言う時が来たのならば、きっと私は彼を留めきれはしないだろうと、そんな風に思う。彼が浮き草に呑まれようともそれを私は見詰めることしか出来ないだろう。
浮かぶ事を望んだ煙を留める事など出来はしないのだ。漂う事を望んだ浮き草を留める事など出来はしないのだ。
その時が来たのならば、私は何時ものように鏡の前へ座って、言葉を紡ぐ他無い。それ以上もそれ以下も無く、私が私であり、彼が彼であるならば。鏡の前で言葉を紡ぐ他、私に出来ることは無い。
私は、鏡を隔てた隣の彼に目を細めた。未だに微睡む彼は、されども浮き草にはなっていない。
遠くで海の音が聞こえた。波が揺蕩う音が聞こえた。
彼が微睡みから目覚めた時、きっと私は己の目を一度覆うのだろう。
再び目を開けた時、目の前に広がるものが友の姿を取った灰の浮草ではない事を願いながら。
「身を投げたら海になる。海の底になる」
鏡越しに友へと呟く。
身を投げたら浮き草になるのだ、と帰って来る言葉は無い。
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