第21話

集団殺人放火事件は、被疑者死亡のまま送検され、恒例通りに不起訴処分となった。処分がおりて栗林は、水上 宗介の自宅を訪れた。そこで栗林は衝撃を受けた。

「げ…源一郎兄ちゃん?」訪れた刑事、栗林を見て、水上 宗介の母・順子は、目を見開いて驚いた。

「じゅ…順子か?」二人は同郷の幼なじみであった。栗林よりも7歳年下の順子は、気の優しい栗林を、実の兄のようにしたい、栗林も実の妹のようにかわいがった。順子が高校受験を控えた頃には、大学四年生であった栗林が、家庭教師を買って出たほどの関係だった。

「順子、すまなかった。宗介君が亡くなったのは俺に責任がある。息子さんを助けようとしたんだが、助ける事が出来なかった」栗林は実の妹のような存在の順子に頭を下げた。

「そんな…そんな事を言われたって宗介はもう帰って来ないわ!もう帰って!」あれほど慕っていた存在の栗林が頭を下げようとも、母親の子を想う愛情は、それを受け入れる事をこばませた。


「フーッ」

「あれ?どうしたんすか?栗さん。ため息なんかついちゃって」二年前に西久保駅前交番の巡査から、晴れて杉野署捜査一課の刑事になり、それ以来、栗林とバディを組む、香川巡査長が声をかけてきた。

「ん?あぁ、香川か。何て言うかな?刑事って仕事は、つくづく業が深いモンだなぁって思ってな」栗林は無精髭ぶしょうひげたたえた口回りをさすった。

「えっ?業が深い?それも刑事としての心得か何かですか?」刑事としてまだ二年の香川は、ベテラン刑事の一言一句を聞き逃すまいと、向上心を持って栗林に接していた。

「フッ、そんな訳ねぇだろ。なんだか刑事って仕事に、嫌気が差してきてな。もうそろそろ俺も潮時なのかもな」栗林は春晴れの青空をまぶしそうに見上げた。

「何を言ってんすか?栗さん。栗さんにはまだまだ教わらなきゃなんない事が山のようにあるんすから…それより捜査会議、始まりますよ」香川は屈託のない笑顔で答えた。


その後も栗林は時間を見つけては、水上宅を訪問した。

「もういい加減にしてよ!源一郎兄ちゃん。お兄ちゃんが来たからって宗介が戻らない事は分かってるでしょ?」順子は頑なに栗林を拒んだ。

「お母さんこそいい加減に心を開いたら?そもそも悪いのは、騙されたお母さんじゃない。まぁ一番悪いのは島本って男だろうけど。お母さんが刑事さんを拒んだところでお兄ちゃんは帰って来ないわ」大学生になる娘の智恵子が間に割って入った。

「アンタはお兄ちゃんが殺された事をどうでも良いと思ってるのかい?」

「殺されたんじゃないでしょ?お兄ちゃんは自分から飛び降りたって。それを刑事さんは助けようとしてくれたんでしょ」智恵子に説得され、順子は徐々に心を解きほぐしていった。


「順子、智恵ちゃん。寿司平すしひらで上握りを買って来たぞ。茶を入れてくれ」栗林と水上親子は寿司を囲んで談笑した。話しの内容は、もっぱら二人の子供時代の思い出話しだった。

「俺な、刑事を辞めようかと思うんだ」栗林は唐突に二人に思いの丈を話した。

「えっ?おじちゃん、警察を辞めてこれからどうするの?」智恵子はすっかり家族の一員のようになった老刑事をおもんぱかった。

「まぁ、刑事なんてつぶしのかん仕事だ。ガードマンのアルバイトでもするさ。それより、これからは二人の為に時間を作ろうと思う」栗林の脳裏には妹のような存在である順子の頼りであった宗介を、死なせてしまった罪悪感から、二人を守って行こうとの想いがあった。

「ご家族はどうするの?」順子の問いに、暫し考えた栗林は毅然と返答した。

「刑事って仕事の業かな?家にもろくすっぽう帰らないモンだから、呆れられてな…まぁ、子供たちも独立した事だし、熟年離婚ってやつさ」栗林は苦笑しながら後頭部をいた。

もちろん嘘であった。栗林は長年、刑事として様々な人間たちと接する中、その半数くらいの悔いを抱えていた。あの時、もっとこうすれば良かった。もっとかけるべき言葉があったはずだ。などと考え、それを "刑事の業" と表現して、その贖罪しょくざいを、この母娘に身を捧げる事で、果たそうとしていたのだ。


そんな交流を続け、数年の月日が経ったある日、あの悲しい事件が起こった。

智恵子は大学卒業後、大学に残り、院生となって社会学者の教授の元、手伝いをしながら自身も研究を重ねていた。元々、裕福でもない水上家で研究職を選んだ訳だが、それで食べて行けるほど甘くはない。その為に、智恵子は駅前の花屋でアルバイトに勤しんでいた。


「いらっしゃいませ…あっ!おじちゃん」栗林は智恵子の勤める花屋を訪れてみた。

「ふーん、ここで働いていたのか。おや?この可愛らしい花は何だい?」栗林は店頭を彩っていた色鮮やかな花の中から、白くて小さな花を示した。

「おじちゃん、こんな地味な花に目をつけたんだ?なんかおじちゃんらしいね。これはガーベラって言ってね。白いガーベラの花言葉は、希望とか純潔って言うんだ」智恵子の屈託のない笑顔は、栗林にとって、透き通って見えた。

「そうか。まるで智恵子みたいだな。これを鉢植えでもらえるか?」こうして度々、栗林は智恵子が勤める花屋で白のガーベラを購入するようになっていった。

そうしている内にも、大学の研究で忙しくしていた智恵子は、ある日、帰宅が少し遅くなった。そんな彼女に毒牙が近付いて来たのだ。

環状線を荒宿あらやど駅で乗り換え、中央線に乗り込んだ智恵子を興味深く見つめる目線があった。

そんな事には気付きもせず、智恵子は小久保駅を降り、家路を急いでいた。すると後ろから自分をつけているような気配を感じた。智恵子は歩くスピードを変えながら後ろの気配に気を配った。その気配は明らかに自分をつけていると分かった。智恵子は走り出し、事なきを得て帰宅する事が出来た。

「おかえり、智恵子?どうかしたのかい?」母の順子に問われ、智恵子は心配をかけまいと明るく振る舞った。

「ううん、お腹が空いたから、走って帰って来ちゃった。早くご飯にして」

それから数日後、またしても大学を遅く出た智恵子の後ろを、つけてくる気配があった。

『あの日と一緒だ!』智恵子は家路を一目散に駆けた。しかし尾行者は思いの外、足が速く、智恵子は右腕を掴まれ、もう一方の手で口をふさがれた。

「おとなしくしろ。騒ぐと殺すぞ」男はそう言って、智恵子を空き小屋に連れ込んだ。男は一回目の尾行でこの小屋に目星をつけていたのだった。

「おとなしくしてたら、すぐに気持ち良くしてやるからな」男は智恵子の衣服を剥ぎ取り、凌辱りょうじょくし始めた。

『い…痛い!お願い。止めて』行為が済んだ男・水野 道弘は、体液を智恵子の顔面に吐き出し、去っていった。

『ううっ、ダメ!お母さんを心配させる訳にいかない』智恵子は小屋の中で一時間ほど時間を過ごし、その間に心を整え、何事もなかったかのように帰宅した。

それからまた、数日が過ぎ、水野は智恵子を待ち伏せて、空き小屋に連れ込んだ。

「これこれ。この身体が良いんだよ。今まで色んな女を強姦ッたけどよ、お前の身体が一番だよ」水野は外道げどうごと台詞セリフを吐きながら、智恵子を凌辱し続けた。

『ダメ!智恵子、しっかりして。お兄ちゃんはもういないんだから、私がお母さんを支えなきゃ』一度ならず二度までも同じ男の凌辱に耐え、智恵子は気丈に振る舞った。

その後も再三、再四に渡り、水野の待ち伏せと凌辱は繰り返され、智恵子はついには塞ぎ込んでしまった。心配する順子であったが、智恵子は何があったのかを、一切、話そうとしなかった。

やがて引きもり状態になった智恵子だが、妊娠が発覚した。もちろん、智恵子に他の男との性行経験はなかったので、相手は水野以外に考えられなかった。悩んだ智恵子は、公団住宅の階段をわざと転がり落ち、堕胎だたいした。

その事から、さすがの順子も、ある程度、智恵子の身に、何があったのかを察した。

「相手は誰なんだい?どんな非道ひどい事をされたんだい?」母の問いかけにも、智恵子は一切、口を開こうとはしなかった。

順子は栗林に相談しようかとも考えたが、同じ女性として、女性のはずかしめを話す気にはなれなかった。

季節はやがて、梅雨明けを迎えようとしていた。

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