第20話

今から七年前の1月下旬、水上 宗介は、仕事から帰宅して、家に変なつぼが置いてある事に気付いた。

「母さん?この壷はどうしたんだい?」宗介の問いに、母親の順子はにこやかに答えた。

「聞いておくれよ、宗ちゃん。今日ね、親切な男の人が来てくれてね、ウチにある悩み事を色々と聞いてくれてね、この壷を置いたら全て解決してくれるって言うんだよ。智恵子は変なお客さんが来て、困ったって言ってただろ?アンタも営業成績が伸び悩んでるって言ってたろ?これでもう大丈夫だよ」母親の言葉に、宗介は目を見開いた。

「か…母さん!これ…いくらしたの?」

「二百万円だよ。でもね、大丈夫。その島本さんって言う方が、親切に分割の手続きまでして下すったんだよ。それでウチに良い気が入ってくるんだって。良かったよ」

「何を言ってんだ!母さん。それっていかがわしい訪問販売か何かだよ!」人を疑う事を知らない順子の、人の良さを食い物にした、悪徳業者の手口だった。この親にしての宗介だったので、もちろん宗介も、人の悪意に付け込まれ易い性格はしていた。しかし、宗介の人生経験上、悪人が世に蔓延はびこる事も熟知していた。

「母さん!そいつの名刺とかはあるかい?」後日、宗介は名刺を元に、契約書を手に、悪徳業者・島本 礼二の事務所、"ヘヴゥンズ・ドア" を訪れた。

「この契約を解約したいんですが。もちろん、クーリングオフは効きますよね?」クーリングオフとは、訪問販売や通信販売などで、直接に商品を見ずに売買契約をした時に、実際の商品を見て、やっぱりこの契約は自分の意にそぐわないと判断した場合に、契約日より数えて、八日間までは解約が可能とする民法上の規定である。通常、民法は商法取引上、立場の弱い、売り手側を守るように設定されている。しかし、その民法を悪用した業者が現れ、契約した者勝ちな商法が横行した。その為に、国はこれらを取り締まる為に、訪問販売等特別法を制定した。その為に、クーリングオフと言う制度が制定された訳である。

「水上さん。契約書は良くお読みになられましたか?第八章の第三項はご参照いただけましたか?これには "民法に規定する、クーリングオフの行使は一切破棄します" とあるでしょ?つまりは貴方のお母様は、クーリングオフを出来ないんですよ」島本の言う事は、無論、違法である。こんな契約書は裁判にかけたとしても、当然に無効となる。しかし宗介とて順子のような、心が純粋培養されたような母親に育てられた子供である。そこまでの知識がなかったのであった。そう言った家族こそが、島本のような男の "鴨" なのだった。

「そ…そんな!ウチの母にはちゃんと説明はしたのか?」

「当然ですよ。重要事項として、きちんと説明させていただきましたよ。まぁ、お母様が覚えておられるかどうかは私どもには分かりませんがね」島本はもちろん説明などしてはいなかった。録音などの証拠がない事を見越してのブラフであった。

「お願いします。母が苦労して、節約して貯めた金なんだ。商品には一切、傷はつけていない。だから解約を」

「そう言う問題じゃないんだよ。良いかい?この手の商品は、一旦、人の手に渡っちまったら、商品価値がなくなるんだよ。何せ、開運グッズだからよ」島本は宗介をバカにしたように不敵に微笑んだ。この日は諦めて、一旦帰った宗介だったが、友人・知人らにアドバイスを求めて幾度か訪問を重ねた。しかしまともに取り合ってもらえるはずもなく、その度ごとに変な理屈をねられてはかわされた。


「お願いです!ここに壷を持って来ました。お金を返して下さい!」

「ちっ。先生方、お願いしますよ」島本の言葉を受け、事務所の中から、いかにもがらが悪そうなやから、三人組が現れた。宗介は男たちに自力で帰れるくらいの暴行を受け、事務所から叩き出された。

「おい!次に来た時には、命の保証はしねぇぞ。分かったか?」島本に言われた言葉を受け、宗介はもう島本たちを殺すしかないと決意した。

高校生時代に科学を得意としていた宗介は、薬局で買った原料を精製して、硫化水素を自作した。そしてそれを手に、島本の事務所を訪れ、バラいた。

やがて硫化水素から出た有害ガスを吸ってしまった島本らは意識を混濁こんだくさせ、死亡した。

「うっ、く…クソ!てめぇらのような外道はこの世から消えてなくなれ!」宗介は自身でも表しようのない感情をあらわにして、事務所に灯油を撒き散らし火を着けた。


やがて警察の捜査により、水上 宗介の犯行である事が判明、栗林 源一郎警部補らにより宗介は追い詰められた。


「水上!観念して投降するんだ。悪いようにはしない。さぁこっちに来るんだ」説得を試みた栗林であったが、宗介は目を潤ませて苦笑を浮かべた。

「悪いようにはしない?ふっ、それで警察が何をしてくれた?被害者の母を見捨てたじゃないか!そんな加害者の島本を殺して、何が悪いって言うんだ。僕は誰のさばきも受けない。自分は自分で裁く!」宗介はそう言ってビルの屋上のさくまたいだ。栗林は慌てて宗介の元に駆け寄り、寸でのところで落下する宗介の手を掴んだ。

「水上!私にはお前を持ち上げる力はない。自分で昇ってくるんだ。そして話しをしよう」

「刑事さん。ありがとう。でも、もう良いんだ。僕は人として絶対にしてはならない事をしてしまった。僕にこれ以上、生きていく資格はない。さようなら」宗介は掴まれた右手を、空いている左手で無理に引き剥がし、落下していった。

「水上ーっ!」栗林は地面に叩きつけられる宗介に、大声の限り叫んだ。

栗林にとって、離れいく宗介の手の感触は、一生、消える事のない、大きな心の傷となって残った。

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