幕間 15:23のトロイメライ

「あたし、来週退院するから」

 となりにいるその子は、私の顔を見もしないで、草が所々生えた乾いた地面に向かってそう言ったのだった。


 お昼すぎの午後。いつも通り病室は居心地がよくなくて、私はぷらぷら散歩してた。机に集まっておばあちゃんやおじいちゃんのお茶会に入る気分でも、ひとりでこっそり屋上に行く気分でもなかった。ひとりでいたくないけど、大人数のところにはいたくない。あてもなくふらふらするわたしは、いつかおじいちゃんと一緒にテレビで見た、気ままにぷかぷか漂うクラゲみたいだなと思った。透明で、まんまるな形をした小さなクラゲ。クラゲだって何か考えがあって、もしかしたら敵から一生懸命逃げている途中だったり、仲間からはぐれてしまっていたりしているだけかもしれないけれど。私はあの時テレビで初めて見た、広い海でゆったり泳いでいる様子しか知らなくて、しかもそれがあんまりにものんびりした様子に見えたから、そういう答えにしかならないのだ。広くて青くて、何にもないところを泳ぎ続ける様子を思い浮かべて、さみしさと安心感が一緒になったような、どっちともつかない気持ちがわきあがった。


 そんな風にあれやこれやと、特に何にもならないことを考えながら歩いていたら、周りを病室に囲まれた、中庭の近くにたどり着いていた。そういえばここではじめて幡に会ったよなあ、とぼんやり考えながら、窓ガラスの枠に手をついて眺めていたら、

「あんた、何ぼうっとつっ立ってんの?」

 と迷惑そうな口ぶりで話しかけられた。

 声がした方向を向くと、口をへの字にした幡が立っていた。

「ちょうど良かったわ、あんたに話があんのよ」

 きつそうな印象の眉毛をさらにきりりとさせながら、ぴ、とさくら色の爪をまっすぐに伸ばして、中庭の方を指差す。

「ちょっと来なさいよ」

 小学校の教室で、偉そうな様子の女の子が誰かに対してこんな風に言っていたのを聞いた気がする。なんだかあんまり良い雰囲気じゃない感じの。けれど幡からは、その時に感じたようなぴりぴりとしたものは感じなかった。だから私は「うん」と返した。


 中庭には大きな木が一本生えていて、その下にあるベンチが私のお気に入りの場所だった。晴れの日は木漏れ日がきらきら揺れていて、きれいだなと座るたびに思っている。だから私はそこをすすめてみた。

「鳥のフンとか毛虫とか落ちてきたらどうすんの」

「その時はその時だよ、日陰でまぶしくなくてちょうどいいよ」

「あんた、悪口言っても全然気にしないのね?」

 私が不思議そうな顔で見返すと、ああもうわかったわよ、と追い返すみたいに手をばさばさと振った。さらに首をひねる私をほっぽって、幡はどかっと勢いよくベンチに腰をおろした。私は着ているカーディガンが変に折れてしまわないよう、気をつけてとなりに座った。さわ、とどこからか風が吹いて、緑の葉っぱをたくさんつけた枝を揺らす。どこかから運ばれてくる消毒薬の匂いと、草の青い匂いが混ざっている。中庭には、患者さんと病院のひとたちで作った小さな花壇があって、いろんな色のビオラやマリーゴールドが咲いている。確か家の近所のおばさんが、庭に植えていた花と同じものだ。私がそれを眺めていたら、その風景に無理矢理当てはめるみたいに、幡は私に退院のことを言ったのだった。


「退院って」

「もともと、たいしたケガでもなかったし。さっさと元の生活にもどれてせいせいしてるわ」

 ふふん、と得意げそうな顔をしつつ、足を組んでいる。なんでそんなに偉そうなんだろうか。特にすごいことでもないのでは?

「おめでと」

 私はなんでもない風に言った。

 さみしくなんて、ないし。

「…なんか他に言うことないの」

「べつに」

 私はそう言ってから、なんだか少しいじけている自分に気がついた。なんでだろう。しばらくお互い無言になる。変な間が空いて、それをばっさり切るみたいに、はー、と幡にため息をつかれる。幸せが逃げるって知ってる?と言うと、返事をする代わりなのか、ずいっと顔を寄せてきた。2つの赤色の瞳が鼻先まで近づく。

「わざわざ言いに来た理由わかってる?」

 言葉の端にトゲがあるような言い方。不機嫌そうな様子を目の前にして、私はすこしまごつくも、実は思い当たった理由があった。けれど、それはまさかな、という迷いがあった。その言葉を口にすることが許されるものなのか、私はわからなかった。だから口ごもってしまって、見えているのに見ないふりをした。けれど、幡は目をそらさなかった。よく晴れた夕焼けのような、まぶしいくらいに心強くて、どこかあったかいような目だ。そうして、何かを期待するような、待っているような気がした。この考えが間違っていたら?という不安がよぎったけれど、もしそうだったら、きっとからりとした様子で流されるだけで、多分引きずることはない。不安と安心がコーヒーとミルクみたいにぐるぐる混ざる。回りつづける考えを断ちたくて、私は思い切って言ってみた。

「……友達だから?」

 おそるおそる、私にとっては信じられないような言葉を口に出す。それを聞いた幡は、安心したような顔をしたと思ったら、その一瞬後にばっと私とは反対側の方を向いて、こっちを見るのをやめてしまった。髪のすきまにある、耳のはしっこが赤い気がする。肯定する言葉はなかったけれど、私はほっとしてしまった。不安は少し、やわらいだ。

 安心した気持ちにつられて、私も、もしかしたら聞いてもらえるのではないかと、心の奥に押し込めていたことを淡い期待を持って拾いあげた。意味はないけど足をぷらぷらと揺らしながら、なんでもないかのように話し出そうと心の中で決める。まるでただよう波に身をまかせるように。テレビで見た半透明のクラゲを思い出す。頭のなかで並べた言葉は、確かに口をたどって声になった。

「あの、私の話…聞いてくれる」

 幡は、ちらりと私を見たかと思うと、目の前の花壇に視線を移して、「ん」と了解とも拒否ともとれるような返事をする。了解と勝手に思って、私は話を進める。遮られることはなかった。

「夢にね、*****が出てくるの。前は出てこなかったのに、最近になって」

 私はゆっくりと話し出す。でも、なんだかへんな引っかかりというか、声がおかしくなったような心地がした。今、私はなんと言ったんだったっけ?幡も異変に気付いたらしく、まゆをぐっとよせる。

「今、なんてった?最初」

「夢に」

「そのあと。何か、言ったわよね?」

「*****?」

 私はさらりと、口にする。何も難しい言葉ではない。それこそ昔から、ずっと言っていたようなもの。お気に入りのぬいぐるみのように、なじみのあるもの。けれど爪の脇のささくれみたいに気になるものがそれにはある。それは、なぜ?

 幡は、難しい算数の問題の解答に悩むような顔をする。

「聞き取れないのよ」

「え?」

「その、名前?だと思うんだけど。聞き取れないのよ。なんというか、ざーざーと雑音になって」

 何を言っているのか。私はちゃんと名前を、と思ったところで、喉の奥に妙なつかえを感じた。おそるおそる、呟いてみる。

 名前。何度も夢の中では呼んでいるなまえ。

 自分で出している声なのに、そうじゃない感じがした。自分のものなのにそうじゃない。耳に入る前に、知らない、見えない誰かによってぐにゃりと曲げられているような、別の言葉にすり替えられているような、なんともおかしな状態だということに、私は幡に言われて気付いた。

「どういうこと」

 私はこわくなって、思わず目の前にいる友達と思っている女の子に言った。背中がひやりと冷たくなるし、声はふるえて出てきてしまう。

「知らないわよ、こんなの」

 幡も戸惑っているようだった。めずらしく、目が頼りなさげにゆれる。

「でも」

 自分を落ち着かせようとするみたいに、呟く。

「ゆっくり、何回か言ってもらったら、分かるかもしれない」

 私ははっと気付いて、ふ、と視線を合わせる。そこには、黄色と赤色が混ざったような、綺麗な色をした両目があった。冬の寒い日に見た、古いストーブの火のようなあったかさと、それとはまた違う、昔小さい頃に見た背の高さよりも上がるキャンプファイヤーの火のような、力強さを見たような気がした。

 私は信じてもいいんだろうかと、おびえながらもうなずいた。そうして、相手には届くような声で、しっかり、ひとつずつ声に出していく。出した端から、口先から吐き出された音は急に自分のものではなくなって、自分の耳に届く頃には全く別の音に変わっている。自分の大好きな人がどこかに連れ去られ、帰ってきたと思ったら、まるで他人のような表情をしてやってきたような。知らない間に変えられているこわさに押しつぶされてしまわないように、私は今自分にできる精いっぱいのことをした。

 何度も、諦めずに私は口にした。

 夢では何回も呼ぶ名前。それなのに慣れた感じはしない。幡も辛抱強く聞いてくれた。難しそうな顔をして、うんうんうなって。そうして、何回めかの後、幡はこうかな?と面倒になってきた気持ち半分、これで合ってるはずだ、という自信半分の顔色でその名前を口にした。

「……お父さん?」

 その言葉を聞いた瞬間、喉のつかえがすっと溶けたような気がした。本で読んだ、魔法がもし本当にあったのならこういう感じなんだろうか。あまりにも急に消えてしまったので、最初からなかったかのような気になってしまう。

 まるで、雪みたいだと思った。きらきらと真っ白で、きれいで、日にちが経つと消えてしまうもの。冷たいけれど心地がよいもの。


「そう、」

 言いかけて、私は、どうしてそんなに大切な人の名前が聞き取れなかったのだろうと思い、じんわりとまぶたが熱くなった。気付いたら、ぼろ、とおっきな涙の粒があふれてきた。なんか言おうとしたのに、ぼろぼろ止まらなくなってしまって、幡はぎょっとする。

「ちょ、なんで泣くのよ!?」

「だって、だって…」

 まだまだ自分よりちっちゃい、わがままを言う子みたいになってしまう。けど、止めることはできなくて、泣きじゃくってしまう。幡はあーもう、とがしがし自分の頭をかく。

 不意に、ずい、と目の前に黄色の何かが差し出される。それはハンカチだった。白い水玉柄で、ふかふかしてそうなタオル地の。

「これ、使いなさいよ」

 幡がぶすっとした顔でこっちに寄越してくる。私が涙を流しながらも受け取ると、はーぁ、と小さなため息をつき、ほおに手をついて正面の花壇を眺め始めた。受け取ったハンカチは、なんだかお日様のような匂いがして、そのあったかさになんだかまた涙が出てきた。


 だんだん落ち着いてきた様子を見はからってか、幡は不意に話しかけてきた。

「…あー、そういえば、あんたはどこ小なの?」

 いきなりの質問に、私は目をぱちぱちさせる。涙はしっとりとタオルをぬらしたけれども、乾いてきていた。

「え」

「なに、答えられないっての」

 口をへの字に曲げて、いかにも不機嫌そうな顔になる。話しているうちに分かってきたけれど、全然気持ちを隠そうとしないので、いっそ清々しいくらいだ。

「そういうんじゃ、ないんだけど」

「んじゃ、どこ小よ」

 なんか絡まれてる人みたいだなあ、と頭の端っこで考えながら、「千丘小」と答えた。すると、はあ?と眉間にシワは寄るし、口はあんぐり開けて、とっても変な顔になる。

「おんなじ学校じゃん」

 へ、と気のぬけた声を思わず出してしまって、次に変な顔をするのは私の番だった。

「え、そうなの?」

「嘘は言わないわよ。ええー、学校に戻ってもあんたの顔を見るかもしんないなんて、さいあく」

 幡は、組んだ手をまっすぐ頭の上に伸ばしてのびをする。ああ疲れた疲れた、そんでもってさいあくよ、と呟く。そう言いながらも、心底嫌そうな顔ではなかった。むしろ、ちょっと嬉しそうな? なんとなく、そう感じた。


***


 暗闇の中、誰に呼ばれたわけでもないのに振り向いてしまう。当然、見た先には何もない。文字通り、何も。下手をすると自分の立っている位置すら合っているのか、分からなくなって平衡感覚を失いそうになる。油断した途端に危うくなる。ここはそういう場所だと言い聞かせて、掠めた不安は他所にやる。

 振り向いたのは、ふと何処かの誰かが、自分の名前を呼んだような気がしたのだ。それは耳に声が届いたのではなくて、そんな気がする、というなんともぼんやりとした、霞のような感覚で。けれど振り向く、という行動を取ってしまうほどに、自分は名前を呼ばれることに何か心を動かされるような、きらめきのようなものを感じているのだと、その時初めて気がついた。


 見つめた先に、呼んだ相手は見えなくて。

 浮ついた心はふっと凪の状態に戻った、はずだった。けれどわずかに、波が立っている。淡い期待をしていることに気づいてしまう。この感覚は、昔、友人に会った時のことを思い出す。あの頃と似ている、私の、私自身の、名前を呼ばれたあの時と。私はこんなにも呼ばれることに固執していたか、と俯瞰した視点で自身を見てしまう。半ば嘲るように、けれど、なんだか誇らしいような。長い間そうし続けたからか、人と関わり続けたからか、はっきりとした形ではない、不明瞭な色の気持ちを持つことが多くなった。自身の心境の変化に思わず笑ってしまう。これは悪い意味ではなく、なんだ、私もそんな風な人間だったか、という、安堵のような。


 他には誰もいない、暗闇の中に私はいる。


「誰かが気づいたみたいだ」

 私自身に言い聞かせるように、そう呟いた。

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