第9話 最たるもの

「何で自分も行かなきゃならないんですか」

 不満げな声が、こっちを見もせずに投げかけられた。日曜日の晴れやかな午後、私はヒールのないパンプスを履いて、ある場所へと向かっている。地面のタイルの感触が、薄っぺらい靴底越しに私の足へと伝わる。

「話を伺いたいんだと」

「はあ」

 全く隠そうともしない、隣を歩く明らかに面倒臭そうな声色に向かって、私はぶっきらぼうに答える。

「私だって聞きたいわ」

「この前病院で勝手に行ってしまった方が、今度は呼びつけてくるんですね」

 声の主に向かって、私はムッとした顔を向ける。語尾は敬語ではあるけれど、敬う気持ちなんてこれっぽっちもない言い方だ。確かに勝手に歩き回ってしまった私も悪いけれど、それにしたってもう少し他に何か言い方があるだろう。私は返事もせずに早足で歩く。ちらりとこちらの様子を窺った上町は、質問を投げかける。

「大体誰なんですか。そのラバージって人」

「よく分からないけれど、話がしたいって。それと…私達の名前、知ってたのよ」

 今日は、この前花乃ちゃんの病室で出会った老人、ラバージさんと話をする予定だ。何故か私達の事を知っていて、改めて会って話をしたいとの事だった。その場に居なかった上町も加えて。

「胡散臭いですね」

「でも、気になるっちゃ気になるでしょ」

「それはまあ…そうですが」

 上町は怪訝な顔をしていて、どこか腑に落ちない様子ではあったが、彼なりに気になるところもあったのか来てくれた。この間私だけで突っ走ってしまった事に関しては、少し怒っているようだったが、会って開口一番で謝ったところ、渋々納得してくれたようだった。完全に許してくれたわけではなさそうだが、とりあえず良しという事にしておこう。


 大きな病院の正面出入り口の自動ドアをくぐり、入って右手にある、併設されたカフェの透明なドアを開ける。からん、と軽やかで澄んだベルの音が鳴る。お茶の時間に近い事もあってか、店内はそれなりにお客さんが入っていた。暖かな陽の光が射し込み、皆和やかに話をしている。どこか懐かしい色合いの深緑色のソファーは、所々表面が剥げて、中身の綿がのぞいている。

 私は窓際のボックス席、キャラメル色の丁寧に拭かれたテーブルに座っている、品の良いスーツを着たおじいさんを見つける。歩み寄る私達に気づいたおじいさんは立ち上がり、帽子を取って会釈をした。にこやかな笑みに、私はあわてて会釈を返す。

「今日は来てくれてありがとう」

「こちらこそ」

「そして君が…上町君かな?初めまして。私はラバージ」

「初めまして」

 上町は軽く頭を下げる。


 それぞれ飲み物を注文し、店員が厨房の中に入っていくのを見届けると、ラバージさんはおもむろに話し始めた。

「今回君達を呼んだのはね、お願いしたい事があるからなんだ」

 ゆっくりと、言葉をテーブルの上にひとつずつ置くように語りかける。

「倉阪君は知っているかもしれないが、私の孫…花乃は、ある事情でこの病院に入院している」

「ある事情?」

「花乃は、小学生に上がった頃から妙な夢を見るようになったんだ。それが原因でここにいる。なんでも、花乃が言うには、誰かしらが死ぬ夢らしい。学校の友達や、近所に住む人など…夢で見るだけでもたまったものではないが、不思議な事に、それは現実にも起こる」

 私は覚えのある流れに頭を巡らせた。夢に見たことが、現実に。私達だけではなかったのかと、安堵と驚きが入り混じる。そして、花乃ちゃんが「死神」と言われていることが頭に浮かんだ。もしかして、花乃ちゃんは、死ぬ人が誰なのかが分かっていたのだろうか?あのおばさんに急いで花を持って行こうとしていたのも、それで?けれど、突然言われたことを鵜呑みにしていいものなのだろうか。

「現実にって…」

「嘘だと思っているかい?」

 すぐさま返ってきた言葉に、私はたじろぐ。柔らかい笑みとは相反する素早さに驚きつつ、側から聞けば突飛で取り合わないであろう話を迷いもせず目の前に持ってきた事に、私は戸惑いを隠せないでいた。ある程度、確証を持った上でこの場に来ているのではないかと思ったのだ。

「疑っているならば、近頃起きた事故や事件、それらの人物との関係性を洗い出してもいい。けれど君にとっては、この類の話は放ってはおけないものじゃないかな」

 柔らかな物腰で話しつつも、手綱は離さないような口振りだった。

「単純な話でね」

 一旦、落ち着けるように息を吐く。

「私は、悪夢を見る孫を助けたい。どうか力を貸してはくれないだろうか」

 ラバージさんは真っ直ぐな目で訴える。その目は揺らぎようがなくて、軽く払うことなんて出来なかった。

「何故自分達にこの話を?」

 黙って聞いていた上町が、間に入って問いかける。

「会って間もない人間に話すことじゃないでしょう」

 それは最もな意見だった。ラバージさんはそうだね、と呟いて、テーブルの上に両手を組み合わせる。骨の浮き出た、皺だらけの白い肌。薬指には古ぼけた銀の指輪が付けられている。

「私は他に、悪夢に悩んでいる人がいないか、またこの現象について近しい話はないか自分なりに調べたよ。そうしたら、君達の事を見つけた。君達は、夢に見るだろう?未来の出来事を」

 私は、言い当てられて息を呑む。

 上町の様子を横目で見てみると、眉ひとつ動かさずに投げかけた。

「どうして知ってる」

 様子を伺うように、低い声で尋ねる。

 いつもとは違う、冷ややかな温度を持つ声音に、私は背筋を強張らせる。普段から投げやりで、暖かみのある言葉なんて聞いた事もなかったが、張り詰めた氷のような、鋭利で冷たい温度に私は身をすくめてしまった。しかしその様子に怯むことはなく、穏やかな表情のまま、ラバージさんは話を続ける。

「私は調べ物が得意でね。その中で君達のことを知った」

 上町は表情を変えない。

 私は、水瀬くんの話していた同級生の事が頭を掠める。不意に、ラバージさんが私の方を向き、話し出す。

「倉阪君は、隣の地区にあるコンビニ店でアルバイトをしているようだね。家族は4人で、弟君は小学生。尚、店は車が突っ込む事故があり修理中。怪我人はいなかったそうだね。それに、近い日に起こった鉄骨の落下事故にも遭遇しているね。当時現場にいた人に話を聞いたから間違いはないとは思うが」

 淀みなく、言葉を繋げる。家族構成と店の状況を言い当てられて、私はまじまじとラバージさんの顔を見る。穏やかな表情は変わらずに、普遍的な態度でそこにいる。私だけが驚いた表情をしているのが、滑稽なくらいに。喉が張り付く感覚に耐えきれなくて、傍らのコップを持ち上げ、水を一口飲む。氷が溶けてぬるくなった液体が、するりと透明な壁を伝い落ちる。

 目の前に佇む、やけに白い顔立ちに刻まれた皺が、口の動きに伴って伸びては縮む。

「特に、上町君。君は、大分前から見ているようだね。小学生くらいからかな?」

 上町は何も答えない。瞼が静かに瞬く。

「以前、超常現象の特集雑誌とかで取り上げられただとか。その時の騒ぎの記録が残っていてね。そこから私は君の事を知ったよ」

 小学生?騒ぎ?

 私にとっては初めての情報が飛び交う。しかしラバージさんから飛び出す言葉は上町にどう響いているのかは読み取れない。少し俯く。人工的な色味の金髪が被さって眼が見えない。眼鏡のつるが鈍く光る。

間を置いて、おもむろに上町が顔を上げる。髪の隙間から見えた眼に、私は一瞬暗くて深い色を見た気がして息を止める。

「それ以上喋らないでもらえますか」

 鋭い目で上町はラバージさんを見る。ラバージさんは一瞥すると、「怒らせてしまったかな。申し訳ない」とお辞儀を返した。

 上町はいえ、と短く返した。


 注文した飲み物が届き、こくりと飲み込む音が喉から鳴る。ソーサーにカップを置いて、ラバージさんは再びテーブルの上に手を組む。

「話を変えようか。孫ー花乃から、色々夢で見たものの話を聞いてね。その中で気になる話があった。いつも夢の中で、会う人物がいるそうだ。その人物の名前を聞いてみたんだが、不思議と聞き取れないんだ」

 私は胸の奥がざわつくのを感じた。

「もしかして、それって……」

「倉阪君はご存知かな」

「心当たりがあります」

「上町君は」

 上町は答えない。私が肘でつつくと、露骨に嫌そうな視線を向けた後に、知りません、と言う。

「花乃ははっきりと、ある人物の名前を言っている。だが何故か、何度聞いても聞き取れないんだ。私の耳が悪くなったのかと思ったが、その前後が聞こえるから理由はそこではない。該当すると思われる、名前の部分だけ不明瞭になってしまうんだ。それは、私にはラジオの雑音のように聞こえたな。ぽっかりとそこだけ情報が抜け落ちてしまっているようだよ。まるで、そう、意図的に、何者かによって穴を開けられたみたいに。倉阪君は、その人物に会ったことがあるのかな」

「何度かはあります」

 私は答えながら、身に覚えのある話が他人から語られるのを聞き、どこか安心した気持ちでいた。先程の問答のせいで、完全に信用した訳ではなかったが、私の感じた違和感は決して気のせいではなかった事を肯定してくれている。私だけがおかしいわけではない。目の前の老人を、私は少しの期待を持って見つめ返した。

「そうか。ちなみに、花乃にその人の名前をノートに書いてもらったんだがね」

 ラバージさんは、傍らの鞄から取り出した、革張りの手帳を私達の目の前に広げる。しっかりとした作りのもので、真っ黒だが艶のある表面を待つそれは、素人目にも高価そうな品だと感じた。それをぱらぱらとめくり、あるページで手が止まる。真っ白なページの中央、薄い罫線が規則的に並ぶ中、青いインクの塊が見える。濃淡を伴って引かれた線の集合体。羅列されたそれらを、私が読み取ろうとした、瞬間。

 バン、と荒っぽく手帳が閉じられた。


 突然の事に、ラバージさんと私が同時に見上げる。上町が、手帳を閉じたのだった。どうしてそんな事をしたのか、理解が追いつかない。その後テーブルに大きな揺れがあり、上町は席を立つ。

「帰る」

 え?と私が呆けた声を上げるが、上町は構わずに店をさっさと出ていってしまった。

「ちょっと」

 私は慌てる。探られたことがやはり気に障ったのか?

 けれど、今このタイミングで、他にきっかけがあったとは思えない。

「あの、すみません。また今度話を聞かせてもらえますか」

 とりあえず断りを入れ、私は荷物をまとめて追いかけようとする。

「待ってください」

 動きを止めて、私は振り返る。ラバージさんは銀色の薄い箱から、丁寧な手付きで一枚の名刺を手に取り、差し出す。

「私の連絡先です。それと、提案しておきたい事がある」

「……何でしょうか」

「私の孫を助けると約束してくれるなら、あなたの希望している手助けとやらにも協力できる。私は、自由に動かせる所がいくつかあってね。取り計らうことも可能だよ。それと、先程の人物のことも気になっているでしょう?」

思わず、名刺を受け取ろうとした手が、強張って止まる。

「取り引きですよ。ただ、すぐに決断を迫る訳ではありません。よくお考えになるよう」

 皺だらけの骨ばった手から、名刺を受け取る。それが私の手に収まる様子を見届けると、にこりとラバージさんは微笑む。

「では、また」



 病院の前の、一本通りを挟んだ向かい、公園のベンチに上町はいた。公園自体は広くはなく、遊具も特にない。住宅地の入り口近くに位置する場所にあって、空き地とするには勿体ないから、という理由で拵えられたような所だった。他に人気はなくて、閑散としている。公園というにはいささか狭すぎると思ったけれど、立て看板が言うにはそうらしい。私は切り揃えられた青い芝生を踏みしめて、上町の隣に腰掛ける。

「一体どうしたのよ」

 上町はこちらを見ない。視線の先には車道。青い車が一台走り去る。

 木漏れ日が顔や髪の上にまだら模様を作り、光の縁が金色にきらめく。

「言ってくれなきゃ分かんない」

「さっきの」

「ん?」

「あのじいさんが話していた人の事。あんたも見た事あるか」

「あるわよ。夢に出てくる」

 私はふんと鼻を鳴らす。

「自分は、ないと思った。だから聞かれた時に知らないと答えた。けれど、手帳に書かれた名前を見た時に、違和感があったんだ」

「違和感?」

「夢に、昔の友達が出てくるんだ。そいつの名前とどうしてだか似ていた。手帳に書かれていたのは、全く知らない名前だったのに」

「よく似た漢字の名前だったんじゃなくて?」

「違うんだ、全然。でも、似ている、って思った」

 どういう事だ、と上町は呟いた。私は眉間に皺を寄せている上町の様子に、じりじりと這い寄るような不安を感じる。けれど確かめたくて、私は質問をする。

「その、夢に出てくる友達の名前は?」

 上町はこちらを見て、明瞭な声で言う。

「***」


 風がさっと吹きつける。雑音の、聞き取れない単語。

 それは、前に夜の街灯の下で聞いた、名前のような何かだった。

 私は口をつぐむ。


「ごめん、聞き取れない」


 目の前で口が何らかの言葉を作って、声として吐き出しているのにも関わらず。


 上町は繰り返す。

 その度に私は首を横に振る。


 3回目の試みの後、あぁやめだ、と空を仰いで上町は降参した。ベンチの背もたれに寄りかかる。

 吐き捨てるように、空へと言葉を投げる。

「何で聞き取れないんだよ」

 言葉は落っこちて、足元に転がった。

「こっちが聞きたいわ」

 私も上町に習って、空を見上げる。ざあと吹く風で、雲の流れる速度が速い。何層にもなった雲は、それぞれの層で速さが違っているらしくて、色も白色だけではなく、グレーっぽいものもあった。先程より量が多くなってきている。何処からか、風が雲を連れてきているんだろうか。

「ねえ」

 反応はない。けれど私は返答を期待して話し続ける。

「どうしてさっき、手帳を閉じたの?」

 上町はベンチの上に投げ出していた片手を上げ、荒っぽく頭を掻く。さらさらとやけに発色の良い髪は、いくつか流れて眼鏡にかかる。頭頂部だけ仄かに茶色い。自然ではない、染めて作られた人工的な黄色は、何故だか不思議と上町には合っていた。青空が所々覗く雲ばかりの空を見たまま、強く横に引き結ばれていた口がゆっくりと解かれて、動く。

「……怖かった」

 ぽつりと呟く。

「何が?」

「知るのが」

 今、この場で*が現れてくれたら良かった。上町との会話はどこかが噛み合っていない。締まりの悪いドアみたいに、はまったと思っても微妙なズレが生じてしまう。無理にいじれば蝶番が壊れてしまい使い物にならなくなる。調整する技師が必要だった、仲介してくれるような存在の。けれどこちらが期待していない時に不意に現れては煙に巻くような物言いをすることは分かっていたので、叶わない望みだろうと頭の中でかき消した。


「怖がったって進みやしないよ」

 私は静かにそう言った。諌めるつもりも突き放すつもりもなく。自分にも言い聞かせているのだろうかと、言葉を発した後に私はそう 考えた。起き上がった上町は何かを言おうとして、口を開きかけたところでその動きを止めてしまった。声は出てこなくて、代わりにふう、とため息混じりに言う。

「そうだな」

 木漏れ日に照らされて、茶色の瞳が透き通って見える。

 私は、上町とどことなく詰めきれない距離があるように感じている。突然店の中で倒れて眠ってしまった事、先程ラバージさんが言っていた、小学生の時に遭遇した騒ぎの話。そして、水瀬くんと共通の同級生が亡くなっている事。知らない事が多くあった。それもそうだ。知り合ってから数日の、おまけに自分について多くは話さない、偏屈で口の悪い上町の事だから。それらについて私は知りたいと思うが、むやみやたらに調べ回られるのは気持ちの良いものではないだろう。カフェの中のやり取りが思い返される。ラバージさんは、どこからあれらの情報を引き出してきたのだろう?

 無理に暴くことは当然本人は嫌がるだろうし、何より自分の好奇心に素直になって、知ってしまう事が果たして良い事なのか判断しかねている。

 他人の人生は見世物ではない。

 私は彼自ら、上町の口から語られるのを待とうと思った。それが一番真摯で、誠実な姿勢だと思った。


 ふと視線を横に向けると、上町がノートと鉛筆を取り出して、何かを書いていた。時折躊躇うように鉛筆を走らせ、止めてを繰り返している。手元を見ると、文字を書いては、塗り潰している。逡巡している様子だったが、やがて一息をついてから、

「これ」

 急にぐいと、手にしていたノートを目の前に突き出された。

「何よ」

「夢で会うあいつの名前」

 私はごくりと唾を飲み込む。正方形のリングノートを、片手でしっかりと受け取る。

 無地の紙面上、点在する荒っぽく塗り潰した鉛筆の合間に、黒い筆致で書かれたもの。それは、


『***』


 これが名前?

 信じられない気持ちで、私が顔を上げると、上町はわずかに視線を彷徨わせてから、視線を合わせた。

「そうとしか、書けない」

「待ってよ。上町、さっき口でちゃんと言っていたじゃない。どうして」

 言い終わる前に、上町は返す。

「口では言えるんですよ。でも、文字で書こうとすると、その音が書き起こせない。代わりにどうしても、その記号が浮かんでくる」

 掴んでいるノートが、じわりと異質なもののように感じた。確かに手の上に存在するのに、持っている感覚が妙に薄い。取り落とさないように、私はぎゅっと指に力を入れる。

 これは名前とは言えない、そう思った。記号を並べただけのものが名前だなんて馬鹿げている。けれど、上町の返答を聞いた途端、不思議と腑に落ちてしまったのだ。音声上で聞き取って、どの言葉にも変換できなかったそれが、その記号に置き換えられた途端、納得できる形に変わってしまった。いや、一度見てしまえば、それ以外最早考えられなかった。それ程に記号の名前は、例の雑音に合っていた。しかし不定形のものに表す言葉が見つかったというのに、根拠もなく「当てはまっている」と確信を持たせる心地に、尚更違和感が募った。

 説明できない感覚のまま、私は上町にノートを返す。それは無言で受け取られる。


 緩やかに風が吹いて、髪が一線、さらりと鼻筋にかかる。自転車が一台、目の前の道を通り過ぎる。


 私は上着のポケットに入れていた、真新しいクリーム色の名刺を取り出す。整えられた長方形の中に、印刷された紺色の文字が並ぶ。表面を撫でてみると、文字は凹凸を伴って印字されていた。名前は「ラバージ」だけで、苗字もミドルネームも書かれていない。本名かどうかは分からず、しかしわざわざ本名でない名前でこんな凝った名刺を作るだろうか?と疑問が湧く。私が手の中の名刺の縁を指でなぞっていると、上町はベンチから立ち上がった。

「ねえ」

 少しの間だったというのに、随分と久しぶりに声を出した気がした。

 呼びかけに、上町は振り返る。着ている白いシャツが風にはためく。

「教えてくれて、その…ありがとう」

 上町の口元がわずかに動く。

 違和感と不安は、私の中で収まらないままだった。それらに対する答えは、あの老人が、その一端を持ち合わせているかもしれない。そう思った。

「考えたんだけれども。もう少し、話を聞いてみようと思う」

 私は名刺を見せて伝える。上町はゆっくりと瞬きをして、口は噤んだまま、そのままふいと背を向けて歩き出した。

「勝手にしろよ」

 こちらを向かずに、声だけが届いた。


***


 消毒液の清潔な匂いが漂っている。多くの人が行き交い寝食を行なっているはずの場所なのに、この建物内のどこに行っても感じる、等しく整備された香り。いつまでも僕は慣れなかった。日常の地続きから、少し離れた場所のように感じて。


「兄さん、元気?」

 僕は薄グリーン色の引き戸を、後ろ手で閉じる。窓側のベッドに座っている、癖っ毛頭の兄さんは朗らかな笑顔で僕を迎えた。

「啓、ありがとな」

「どういたしまして」

 僕はにこりと笑って返す。持ってきたカバンを椅子に置き、着替えや本などを整理しながら話を続ける。

「足の調子はどう?」

「順調だよ。まだ日数はかかるけど、良くなってきてるって」

「そう」

「でも、毎日退屈だよなあ…なんか面白いことないかな」

「ずっと寝てると、確かにね」

「そうなんだよなあ」

 あ、と不意に兄さんが声を上げる。どうしたの、と僕は作業する手を止めずに聞く。

「そういえばさ、啓の友達に、上町って子、いたよな?」

 僕は手を止める。前触れもなく、唐突に縁遠くなった幼馴染の名前が飛び出してきた理由が分からない。

「…なんで突然?」

 僕は顔を上げて聞く。その時目に映ったのは、きらきらと星のように輝く眼をした兄さんの顔だった。

「ちょっと確認したくて」

 言い淀むような口ぶりでそう言うが、好奇心に駆られた表情は隠しきれていなかった。無邪気で、まるで新しい遊びを思いついた子どものような顔。それに気付いて、僕は自分の顔がさっと青くなるのを感じた。


 教えてはいけない。


 頭の中で響くような心地がした。自分自身のはずなのに、低く重さのある声。直感で、教えてはいけない。そう感じた。今までの、兄さんの行動から、察するに。舌が口腔内に貼りつき、言葉にする事を恐れて止めようとするが、なんとか引き剥がして動かす。震えようとする喉を落ち着かせて口を開き、僕は努めて平静を装い、

「居ないよ」

 と嘘をついた。

 そう聞いた途端、兄さんはきらきらとした光をすっと瞳の中に溶け込ませて、

「そっか」

 とだけ言った。

 僕は誤魔化すように、開けていた棚の扉を閉めて、終わったよ、と告げた。

「あ、そうだ。この間店長が見舞いに来てくれて、美味しいお菓子貰ったんだけど食うか?」

「うん」

 その後は、いつも通りのなんて事ない会話に戻った。



 僕は兄さんに手を振って、病室を後にする。音もなく閉まる引き戸の様子を見届けて、エレベーターの乗り場へと向かう。

 兄さんが上町の事を知るのは、時間の問題だとは思っていた。けれど、本当に知ってしまうとは。恐れが的中してしまい、手持ち無沙汰に両の手を擦る。

 兄さんを、上町と会わせてはいけない。自分の中では警報のようにその言葉が鳴り響いている。今、どこまで調べているのだろうか?僕が上町との幼馴染ということは、幼い頃よく遊んでいたから、前から知っていた可能性はある。やはり、あの騒動の一端をどこかで見聞きしたか。今この時代は、その気になれば昔の出来事も調べ上げることなんて容易い。予想できたはずの現状に、届くことはないだろうと、どこか甘えた判断を下し続けていた自分が、少し愚かしく思えた。


 僕は、どうすればいい。


 エレベーターのボタンを押すと、

 ぺかりと、安っぽい橙色の光が僕の指先を照らした。

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